△ アリビンゲーブ 49
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兵長に手を曳かれながら、
私は夢うつつな気持ちでその背中を見つめていた。
『−−−エマ!』
あの声が、まだ耳から離れない。
兵長に名前を呼ばれたのは初めてだった。
彼は自分の名前も知らないのではないかと思っていたほどだ。
今まで…知らなかった。
自分の名前が呼ばれるだけでこんなに胸が高揚するなんて。
…力強く私の腕を引いて大股で歩くこの男に、私は胸をかき乱されてばかりいる。
雨に打たれた身体は冷たくなるはずだが、手首から感じる彼の体温はどこまでも温かい。
私より彼の方が雨に濡れているのに。
歩く度に前を行く彼の香りがふわりと香る。
雨に濡れて、匂いなど飛びそうなものだが。
…これは、彼の体からするのだろうか。
あたたかくて優しくて、さわやかな香り。
その背中に体を埋めてしまいたくなる。
抱きついてしまいたい衝動を抑え、小走りになりながら彼の後を追う。
向かっている先は、道順ですぐに分かってしまった。
…彼の自室だ。
この部屋に来るのはかなり久しぶりな気がする。
そういえば、彼とこうして会うのも…。
そう考えている内に部屋へと着き、兵長は無言のまま私を室内へと入れた。
扉を閉め、その足で浴室に向かう。
…浴室?
手首は掴まれたままだ。
まさか。
「兵長!あのっ…」
「お互い濡れたままだからな。時間の短縮だ」
時間の…。
そんなに真っ当な言い方をされると言葉も返せない。
兵長、出来るならもう少し甘い言葉が欲しかったです…。
彼は自分のジャケットとシャツを脱ぎ、私の衣服にも手を掛けたが気恥ずかしさから軽く抵抗してしまう。
その時、突然顎を掴まれ、右を向かされた。
「えっ…」
「…殴られたのか?」
…そういえば。すっかり忘れていたが、兵士とやりあった時に避け切れなかった拳が頬に当たっていた。
そのおかげで口内にも傷が出来、使い慣れない髪留めを使っていたので三つ編みも解けてしまった。
兵長がなぞるように親指でその傷に触れ、無くなりかけていた痛みがぴりりと走った。
思わず顔をしかめて兵長を見上げると、いつにもなく真剣な表情をしているのでどきりとした。
食い入るように見つめられ、身動き一つ取れない。
彼は相変わらず無表情だがその瞳の色はくるくると変わり、何かを思案しているようだ。
「……」
彼は私を見ているようで見ていない。
今まで何度かあったこの感覚。
私を通り越して、彼の意識はどこか遠い所にあるのだと感じた。
こんなにも近くにいるのに彼の存在はまだ遠い。