△ サルタナ 37
「今日は終いだ」
整ってはいるけれど、感情の起伏に乏しい横顔がこちらを小さく振り返った。
月に一度の訓練の日。
いつもより幾分早めに掛けられたその言葉に思わず目をしばたたいた。
「もう、ですか?
でも今日はまだ───」
具体的な訓練を何も出来ていない。
「いいから早く降りろ」
問答無用にそう言い渡され、反論する事も出来ずに従った。
どうしたんだろう。
何かあったのかと不安になりながら、何も言わずにその場を後にする彼の後に続いた。
兵長は壁外調査の前後には後事に追われて時間も取れないようだけど、それも落ち着けばこうして少しの間だけでも都合を合わせてくれていた。
私の訓練を見てくれるだけではなく、元々の目的だった新兵の教程を私に見せてはなぞらせてみたり、細かいアンカーの操作を私にさせてみたりと時折彼の方からも注文があるのでほっとした。
聞いたところによると新兵や訓練兵向けに行われる立体機動装置の訓練にいくつか新しい要素が組み込まれたそうで、実際に彼の意見が取り入れられているようだった。
言葉少なに、物凄く不機嫌そうに私の四苦八苦している様を見ている彼からは想像できないけれど、やはりしっかりと団長や上からの要求や意向を聞いているのだ。
団長と兵長のツーショットが脳裏に過る。
調査兵団に所属している兵士であれば良く目にする光景だ。
エルヴィン団長は兵長に作戦の内容を話したりするんだろうか。
訓練場から離れ、彼の後をついていくと、辿り着いたのはあのソファの部屋だった。
意図が分からずに戸惑うけれど、兵長はそんな私にお構いなしにソファへと腰掛けて気怠い視線を投げ掛けてくる。
「座らないのか」
「は、はい。
失礼します。……?」
いつもの通りに、ソファを通り過ぎてその奥の窓際の椅子へ腰を下ろす。
いつもは窓を向いて座るけれど、今日は彼の方を向いてみる。
「兵長、どうしたんですか?
体調が悪いとかですか?」
いつもと違う様子の彼に流石に心配になった。
けれど、返されたのは意外な言葉で。
「ああ?
それはお前の方だ。いつになくぼけっとしやがって。
さっきだけで何度操作を間違ったと思ってる」
「あ……」
ば、バレていたのかと青くなる。
手元がどうしても覚束なくて、アンカーの打ち損じが何度かあった。
彼もこちらを見ていなかったので、何事も無かったように振る舞ったつもりだったのに…。
時間を割いてもらっている中で、集中力に欠けるなんてあってはならないことだ。
「…ごめんなさい」
「俺に謝ってどうする」
その眉間に思い切り皺が寄せられるのが分かった。
この分かりやすい不機嫌さを、私も少し見習いたいくらいだ。
「これが壁外なら、大損害に繋がってたかもな」
「───!」
痛すぎる突っ込みに一瞬息が止まった。
その通りだ、と握った手のひらに爪が食い込む。
辛い思いをしているのは私だけじゃない。
仲間が倒れても助けに行けないような状況で、彼だってきっと何も感じてないわけじゃない。
それなのに、自分一人だけが上手く立ち回れず足踏みしているような歯痒さが襲う。
やるべき事、考えるべき事はまだまだある。
こんなことじゃいけないのに。
俯く私を、彼はソファに腰掛けたまま無表情に眺めているようだった。
けれど次の瞬間、ぎし、となにかが軋む音がして。
ソファに座っていたはずの彼の靴音がすぐ近くで聞こえて、思わず目線を上げた。
「兵長……?」
目線の先。
いつも距離を置いていたはずの彼の体温が今までにない程近付いていた。
目の前には彼の指先があって。
その指先がこちらへ伸ばされ、そのまま私の額に触れる。
予想もしなかった彼の行動に、文字通り度肝を抜かれてしまった。
幾分ひんやりとした指先の感触に肩がびくりと跳ねる。
横に分けた長めの前髪を避け、少し冷たい彼の指先が触れたのは、私が以前に負った傷だった。
包帯が取れたのはずっと前だけれど。
そういえば傷を負ったばかりの状態で彼に会っていたなと、頭の中だけはやけに冷静に思い出していた。
「……これは…跡が残るな」
指先で額をなぞられる感覚に、
彼の視線がその傷に注がれることに、
何の反応も返すことが出来なかった。
…あと?
傷の跡?
跡なんか、残ったって構わないんです。
それより自分の無力さが許せない。
そう思ったのは確かだったのに、すぐに目の前の鮮やかすぎる存在に目を奪われていた。
すぐに離れていった指先が名残惜しいと、素直に思ってしまうほどに。