リンドウ
「ただいま」
玄関先で声を上げる。これは小さい頃からの癖で、高校生になった今でも変わらない。
返事は無い。この時間だったら、父は会社で、母はパートだろう。
リビングは電気がついていないので薄暗い。電気はなくても周りは見えるから、明かりは点けない。外は未だ明るいから、光がカーテンの隙間から入り込む。
冷蔵庫の中から冷えたミネラルウォーターを取り出してそのまま飲む。
「おかえり、今日は早いんだね」
寝ぼけた声が聞こえてきた。こんな昼間から、ソファを陣取ってぐったりと寝転んでいる。兄貴、いたのか。
「テスト中だから」
「どうだった」
「何が? 」
「テストが」
「・・・勉強したから、まあ出来た」
「そっか、おまえは頭が良いから」
兄貴は元々国立の大学に通っていた。俺よりも頭が良いはずだ、だけど大学を辞めてしまって、今は所謂ニートだ。働いておらず、一日中家で寝ているらしい。
勿体ない、と俺は思う。頑張れなかったのか、と思う。兄貴は俺の憧れでもあった。でもいつからか、兄貴は変わってしまった。
兄貴に憧れて頑張って勉強をして、同じ高校に入った。兄貴は人当たりも良く、顔も悪くないから、学校ではたくさんの友人に囲まれていて、廊下ですれ違う度に鼻が高かった。俺の兄貴なんだぜ、って自慢げだった。
兄貴は弟の俺にも変わらず優しかった。可愛い彼女だっていた。なんでも持っているようで、羨ましくもあった。
大学を辞めた今、兄貴は片仮名の薬をたくさん飲んでいる。俺はなんとなくその事に触れられなくて、聞いたりしないし、兄貴も敢えて言おうとしないから、詳しくは分からない。
ただ不安定な行動を見ることは多々ある。ずっと部屋にこもっていたり。今みたいにリビングにいても、ずっと顔を埋めてぴくりとも動かない時もある。
俺に話しかけるなんて、今日はいつもより調子がいいのかもしれない。顔は青白いし細すぎるほど骨ばっているから、他人が見たら病人以外の何者でもないだろうけれど。
「兄貴だって、頭いいだろ」
少し悔しくなって、俺はずかずかと歩いていって、ソファの空いている所に腰掛けた。
兄貴は何も答えずに、困ったように微笑んだ。兄貴のそういうところが、好きで嫌いだ。
兄貴は優し過ぎるんだ。そう言ったって、否定されるけれど。もっと、こう…まあ、いいか。
「テストいつまでなんだ」
「明日でおわり」
「そうか、なら勉強しなきゃな」
やんわりと、部屋に戻れと言いたいのが分かる。もう話したくないんだろう。兄貴は昔に比べて、口数も少なくなった。高校のときとの微妙な変わりようが俺は気になる。
とにかく俺はいつまでも兄貴に憧れていて、いつか昔の兄貴に戻ってくれないかと思っている。
「最近、どっか行った? 」
兄貴が外出するとしたら、近くのコンビニ、スーパーだけれど、それも最近ではなくなった。最近は特に塞ぎこんでいるようだったから。
兄貴は考えるような顔で俺の方を見る。
「この前スーパーに行ったかな」
俺は少し息を吐く。この前って多分、随分前の話だ。
「明日、どっか行こう」
こんな風に誘うのは初めてだった。高校生の時も兄弟で出かけるのはなんとなく気恥ずかしいからといって滅多になかった。
外に出たら何か変わるのではないか、兄貴に変わって欲しかった。
兄貴は若干嫌そうな顔をして、宙を見る。それから、どこか吹っ切れたみたいに笑った。
「分かった、いいよ」
「じゃあ、明日もこんくらいの時間に帰るから」
そう言い残して、リビングから出る。かなり強引だったけど、 兄貴は優しいから、嫌だ、とか言えないんだろう。
本当に嫌なときは、どうするんだろう、今みたいに笑うんだろうか。
何をされても?
リビングで零れたため息を、俺は知らない。