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「季節の変わる時の匂いが好きです」

 そう微笑んでしなやかな肢体を浮かし、猫のように伸びをする。庭の花壇を弄っている彼の白い手は今や土で汚れている。

 木々に彩りが増す今日この頃。庭からは青々とした景色が望んでいる。

「夏は、好きかい」

 梅雨が明け、太陽からの日差しは恨みごとを良いたくなるほどに強く照りつける。私は言うまでもなく夏と云う季節が嫌いだ。

 茹だる様な暑さ、日差し、ねっとりと張り付く髪の毛、背を流れる汗。土いじりにも一苦労だ。

「はい。夏は、なんだかわくわくします。緑も綺麗ですし、そういえば静子さんの庭に"ヒマワリ"という花が咲いていました。黄色くて大きな花の」
 
 あどけなく笑うこの少年には、夏がよく似合う。

「ヒマワリは、こう書くんだよ」

 柔らかい土に人差し指を押しつけ、そこに文字を書く。真剣な面持ちで人差し指を辿る葵が少し可笑しかった。

『向日葵』

「これで、ヒマワリ?」

「そうだよ、君の名前が入っている。夏の季語だね」

 朝に東を向いていた花が、夕方には西へと向きをかえる。まるで太陽を追うかのように。

 だから、日廻り。

「へえ……」

 私が書いた文字を細い指で丁寧に絵取り、その横に拙いながらも真似をして同じ文字を書く。何度も、何度も。

 しゃがんで小さく丸まったこの少年の髪を梳く。細く柔らかい飴色は滑らかだ。葵は少し照れたのを誤摩化すかのように、土いじりに戻る。

「はるかさん、何か云いました?」

「いや、何でもないよ。日が暮れる前に、終わらせてしまおう」

 そう、向日葵の花言葉は――。



◇◇◇



 「葵の料理は美味しいね」

 たまに時間がある時に、静子さんの夕飯を断っておれが作るようになった。はるかさんはいつも美味しい、といって食べてくれる。

 おれはいつもその言葉を聞く前はいつだって緊張するのだけれど、はるかさんはそんな事知らないだろうな。

「良かった。味付け、濃くないですか?」

「いいや、丁度良いよ」

 毎日だって作れるけれど、はるかさんがそうさせてくれないのは何か理由があるのだと思う。

 港町の外国人の居留地に行くまでに、勉強もしなければならない。と、はるかさんは云う。

「でもこのご飯が食べられなくなるのは、寂しいな」

 港町へと旅立つ日は刻一刻と近づいている。丁度あと2週間後におれは1人で汽車という乗り物に乗って、丸一日かけて、この町を離れる。はるかさんと、離ればなれになる。

「……ご飯、だけですか?」

 はるかさんが、箸の動きを止める。墨色の瞳が困ったように、揺れる。こんな言葉云うとは思いも寄らないという顔でこちらを見る。

 だだっ子のような言葉に、自分でも辟易してしまうが、それが本心から出た言葉だった。

「あおい」

「すみません。冗談です。すみません。さあ、食べましょう」

「勿論、葵がいなくなるのは、寂しいよ」

 小さな子どもをあやすみたいな柔らかい口調。

 そんな言葉が、欲しいんじゃない。

 あの日。
 港町の話を出されて、おれが家を飛び出して、自分の思いを全て伝えた日。

 はるかさんに言われた言葉を思い出して胸が苦しくなる。


◇◇◇


 冷えきった手を思わず握る。

「君はまだ、若い。これから色々な経験をするだろう。色々な人に出会うだろう。私以上に好きな人が現れるかもしれない」
  
 大好きなはるかさんの顔が滲む。涙を拭いて、はるかさんの顔を見る。どこか、遠くを見ていて、それでも口調は強くて。

 
「私は、葵のことが好きだよ、でもそれが親としての範疇を超える事はない。葵が思っているような、恋人同士というのは今は考えられない」

 子どもの戯れ言のような、おれの言葉を全部真摯に聞いてくれたはるかさんの、出した答えだった。

 諭す様に、子どもをあやすように唇から発せられる音は全部、おれが欲しいものではなかった。やっぱり、はるかさんは……。
 
 答えが欲しかった。はるかさんの気持ちが。そうしたら、楽になれるのではないかと思った。でも現実は答えを知る程に、心を蝕んでいくかのようだった。

 ご免よ、と真剣な顔で言うので、おれはまた涙が出そうになる。

「おれが、奴隷だったから、ですか。買われた人間だからですか。合の子だからですか。だから恋人には、出来ないんですか。おれが、汚いからですか。なんだってした、男に、抱かれたことも…」

 そこまで言うとはるかさんは、おれを抱き寄せる。その先は聞きたくないのかもしれない。優しいはるかさんのことだから……。

「違う、葵。違う。違うんだ。合の子だなんて、奴隷だなんて、関係ない。葵は綺麗だよ。誰よりも何よりも、綺麗だ」
 
「だったら、ねえ。だったら……」

 涙ではるかさんの着物が濡れる。

 雨音が激しく打ち付ける。おれは、はるかさんに強く抱きしめられていて、でもおれが望んでいた応えは返ってこなくて。

 優しく柔らかく発せられるものは、ざんこくにおれの胸に突き刺さる。

 それでも、そんな言葉ひとつで、諦められるはずもなかった。

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