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 ぽろぽろと涙を流すその姿とこぼれ落ちるその雫すら綺麗に思える。

 沈黙は続く。外は雨模様で、雨が地面を打ち付ける音がいやに大きく聞こえる。
 
 志生はちっと舌打ちをして、「もう悠に迷惑かけんじゃねえぞ」と口悪く言い捨て、出て行ってしまった。

 「志生!」

 名を呼んでも彼は振り向かなかったので、追うのも躊躇われた。

 葵は嗚咽を漏らしながらも、どうにかして涙を堪えようと、溢れる涙を着物の袖で拭っていた。なんともいじらしい姿だろうか。

 背中をさすってやろうと触れようとしたら、ぴくりと体を大きく揺らした。行き場をなくして浮いた手を握る。

「はるかさん、」

 やっとの思いで私の名を呼んだ彼の声は震えている。

「君を邪魔者扱いをしている訳ではないよ。私は、葵にきちんとした教育を受けて、立派な人になって欲しいんだ。一人でも、生きていける様に。それはこの町では、難しい。葵、分かるだろう」

 ゆっくりと、慎重に言葉を選ぶ。葵はまだ幼く、今は感情的になっている。

「分かってます。分かります」

「それまでの、支援はきちんとするよ。責任を持って。その……親としての」

 強調された言葉に反応する葵が少し可愛そうに思えた。葵の気持ちは、素直な気持ちは痛い程伝わって来る。

 それでも私は、親でなければいけない。葵はまだ幼い。何も知らない無知な子どもだ。私と離れて、普通に生きていく中で、私以上の存在を見つけるだろう。

 港町で生きていく術を見つけ、愛する人を見つけ、幸福に過ごして欲しい。これが私の願いだった。

 狭い世界で何も見えない葵を独り占めしようなどと、思っていないし無理なことだ。

 籠の中の鳥はいつだって自由を夢見て、羽ばたこうとする。私はその籠の扉を開けてやらなければならない。

「おれは、はるかさんと、ずっと一緒に居られるだけでよかったんです。その、おれははるかさんが、好きですから」

 鼻水をずるずると吸いながら、ぐしゃぐしゃな顔を裾で吹きながら、『好き』という二文字をはっきりと強い口調で葵は言ってのける。

「あおい……」

 ああ、大人であるとか、親であるとか、幸福を望むとか思っておきながら、私はこの子どもが愛おしくて仕様がないのだ。

 体裁や将来、何もかもを放り出してこの子に口づけをして、抱きしめて、そして……。

 ふと彼を引き取ったときの事を思い出す。布切れだけを身に纏い、冷たい床に額を擦り付ける傷だらけの彼の姿を。虚ろな死んだような目を、白藍の瞳を美しいと、そう思ったのだ。

 私はいつ、彼と出会っていても、彼を引き取っただろう。得体の知れない、確信。

 籠に閉じ込めて、愛玩人形のように側に置いておいたら?将来の事など、今考える必要があっただろうか?

 もう1人の賎しい自分が心の中を支配しそうになる。

 いいや、閉じ込められた可愛い鳥はいずれ、悲しく孤独に朽ちて逝くだろう。

 私には出来ない。彼に自由を、仕合せをと思うのだ。それは、良心とも言えるし、自分への戒めでもあった。


 すすり泣く声。雨音。衣擦れ。


「でも、このままじゃ、駄目なんですよね。おれ、馬鹿ですけど、志生さんの話している事、理解してます」

 私は彼の必死の言葉にうん、うん、と頷く事しか出来なかった。


「だから、おれ港町に、行きます。そして一生懸命勉強をして、仕事も見つけて、立派になって、そうしたら、そうしたら、はるかさんを」



「迎えに行っても良いですか」


 涙で濡れた白藍の瞳は今までにないくらい真面目で、子ども子どもと思っていた葵が、その時はとても大人びて見えたのでどきりとした。

「迎えに……」

 迎えにとは……。彼が、勉強をして、社会に認められる様になった、その先の事は考えていなかった。どこか、もう美しい鳥は羽ばたいて、戻ってこないような、そんな気がしていた。

 それほどまでに、彼は魅力的で、美しい子だから。姿かたちもそうだけれど、なにより心根が美しいのだ。そんな彼を差別のない所でほっとく者はいないだろう。

「おれは、はるかさんが好きです。大好きなんです。何でも出来ます、貴方のためなら。体だって喜んで差し上げられるし、何だって、どんな命令にだって従える」

「葵、私は、そんなこと、望んでいないんだよ」

「知ってます。おれが子どもだから、ですよね。はるかさんは、親ですもんね」

「ああ、そうだよ。葵、だから」

 葵の話ぶりは先ほどから冷静で別人のように思えた。

「なら、おれが大人になるまで、3年? 10年? 何年でも我慢します! 大人になります。年齢的にも、地位的にも、はるかさんが望むような人になります。そうしたらまた会いに行って、そして、それから一緒に暮らしましょう。親子じゃなくて、その時は、」

 葵はそこで次の言葉を躊躇うかのように、言葉を切った。それから私の腕を緊張気味に、でも力強く握った。急な事で驚いたけれど、抵抗もせずにいたら、葵は私の指を愛おしそうに撫で、指先を絡ませた。

「――その時は、恋人がいいです。我が儘ですか。奴隷がこんなことを言うのは、可笑しいですか。でも好きなんです。はるかさんが、どうしようもないくらいに」

「それが叶わないのならおれは――」

 ぽたり、と葵の涙の雫が私の手の甲に落ちる。

「葵、でも」

 葵とそんな約束をしてもいいのだろうか、10年後の近いようで遠い不透明な未来の約束を。いつものように、安易に『待つよ』なんて言い出せずにいた。葵の言葉は至極、真面目であったからだ。


「はるかさんは? はるかさんの気持ちが知りたいです。おれのこと、嫌いですか」

「嫌いな訳、ないだろう」

「なら! 親としてとか、体裁とか、責任とか、そういうの抜きにして、おれのこと考えて下さい。教えてください。……ずっと聞きたかった」

 
 らんらんとした白藍がこちらを捉えて放さない。

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