30

嫌な、夢を見た。昔の、夢だ。


「……あおい、あおい。っ……目を、覚ましてくれ」

 この声をおれは知っている。優しい柔らかい声音が心地良い。でも今は、泣きそうな声だ。泣かないで。

 目を開けるとはるかさんの綺麗な墨色の瞳と目があった。なんて美しい瞳なんだろう。見とれてると、ぎゅっと抱きしめられたので、驚く。

「葵、あおい、良かった……」

 なにが、良かったんだろう。なんで、はるかさんは、泣きそうな顔なんだろう。ああ、そうか。おれは、橋の下で、雨粒の数を数えていて、それで、どうしたっけ。

「おれ……」

 ぼんやりとした頭で起き上がり周りを見渡すと、家に戻っていて、おれは布団の中だった。

 あからさまに機嫌の悪そうな志生さんと目が合う。

 ――志生さんもいたんだ。今は会いたくない。思わず目を逸らして、下を向く。

「あおい、大丈夫か?」

 いたわるように背中に手を回すはるかさんの優しさが今は、少し辛い。

「悠は、大げさなんだ」

 志生さんが舌打ちをしてこちらに詰め寄る。

「あんなところで何やってたんだ、癇癪起こして家出て、橋の下でのたれてよ。悠にどれだけ迷惑かけたら済むんだ。このガキが」

「志生、いまはそんな……」

 言葉がぜんぶ突き刺さる、本当のことだ。おれは、何をしようとしていたんだろう。はるかさんに迷惑をかけて。

 でも、辛くて。苦しかった。
 
 地獄の様な日々から抜け出せた、それだけで良かった。本当にそれだけで、悠さんの側に置いてくれる、それだけで良かったのに。

 おれを港町までやって、それで悠さんは、この町にいて、この町には志生さんもいて、志生さんはおれのことが嫌いで。

 なんだ、厄介払いじゃないか。

 元はと言えばこの人がはるかさんに、余計な、ことを。ふいに怒りが込み上げて来て、志生さんを睨む。

「志生さんが、港町の話をしたんですよね」

 彼はにやり、と憎憎しげなほど綺麗な笑みを浮かべる。

「ああ、良い話だったろう、何を嫌がる必要がある?」

「――はるかさんに、余計な、ことを」

「余計なこと?はっ笑わせてくれるねえ。で、何、睨んでるの?」

 志生さんの凄みのある口調に、怯んでしまう。はるかさんは、不安げにおれと志生さんを見ている。

「……っ」

「おまえにとって、良い条件の生活を提案してやった。学校に行けると聞いて嬉しかったんだろ? わざわざ友人に連絡してやったんだ。感謝こそすれ、なにが不満なんだよ」

 負けたくない。ここで負けたら、はるかさんと一緒にいられなくなる。

「ぜんぶ、余計なお世話です。貴方はおれと、はるかさんの仲を引き裂きたいだけなんでしょう?おれが、そんなに邪魔ですか?」

「ああ邪魔だねぇ」

「……っ」

 やっぱり。

「邪魔だよ、何もできないガキが。悠の気まぐれで奴隷だった所を拾われて、使用人にするでもなく、あまつさえお前の世話をして、仕事の合間を縫って勉強を教えて、偉そうに俺に反論出来る立場にいるとでも思ってんのか。調子に乗るなよ。お前は悠に何が返せる。この町に住んで、何ができる。お前はここじゃあ何も出来ないんだよ。学もない。合の子なんだから」

 "奴隷" ”合の子” わざとらしく強調された、

 呪いのような、その言葉。
 染み付いてはなれない。
 いつまで?いつまでも、離れない言葉。

「じゃあどうすればいいんですか。合の子に生まれたくて、生まれたんじゃないっ」

 合の子だから、何も出来ない。でもはるかさんは何も望まない。
 お金もない。学も無い。養ってもらうことしかできない。

 一緒にいたいだけなのに。それすら、難しいことなのか。

 志生さんがひと際大きなため息を吐く。馬鹿にしたような顔をするのが癪に触る。どうせ、学がない。合の子だ。

「……だからずっと言っているだろう。港町に出て、悠の援助を受けて、勉強しな。死ぬ気で職を探して、自分で稼げるまでになってみろ。それからだ、お前が悠に何かを返せるのは」

「ここまで言わせんなよ。ガキが」
 
 ああ。おれは本当にガキだった。

 ああ。ああ。

 おれは、なぜだろう、涙が溢れて止まらなかった。

[ 30/32 ]

[*prev] [next#]
[目次]
[text]
[しおりを挟む]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -