28
「行っておいで」
――え?
別れの言葉。はるかさんとの、繋がりがなくなる言葉。
はるかさんは、おれに背を向けている。どんな顔でそんな事、言っているんですか。
おれよりも背の高いはるかさんの後ろ姿は華奢で、今にもどこかにふっと消えてしまいそうな儚さがあった。
「はるかさんも一緒に行けれないんですか……」
「私も、ついて行ってやりたいのはやまやまなんだが、その」
言い淀むはるかさんの言葉にはっとする。
「お金、ですか」
「あおい」
どうして声が震えているんですか、はるかさん。
ふいに沈黙が襲う。外が薄暗くなってきた。衣擦れの音がいやに大きい。はるかさんは、こちらを見ない。
細い肩が震えている。
――どうして?
ああ、
「っ葵……ちょっ……待ちなさい」
おれは、その場所にいる事が出来なくなって、静かに立ち上がり、駆け出した。突っ掛けを素早く履いて、玄関から出る。はるかさんが、叫ぶ様におれの名まえを呼ぶ。
勉強ができる?
差別を受けない?
外国人がたくさんいる?
いらない、全部いらないから、はるかさんの側に居させてください。
はるかさんとその港町に行けるなら、どんなに幸福なことだろう。でもそれは出来ないという。
ならばそんなところいかなくていい。いらない。何もいらないから、はるかさんだけ、いてくれたら。それでいい。
外には生暖かい空気が流れていた。当ても無く歩くと、人が行き交う通りにたどり着く。
「ねえ、母ちゃん、あいつ髪の毛変だよ。おれと違う」
声のする方を見ると、母親に手をつながれた小さな子どもがこちらを指差していた。
ああ、そういえば。姿を隠さずに外に出たのは、いつぶりだろうか。
空は灰色で、今にも雨が降りそうだ。道のほとりにある川は酷く濁っていて嫌な臭いがする。
その親子を思わず睨むと、気味の悪い物でもみるかのように顔を歪ませた。
「さ、いくよ、雨が降りそうだ」
母親が子どもの腕を引っ張って足速に消えて行った。
周りの人間はおれを奇異の目で見る。誰もおれに近寄らないし、話しかけない。視線が、痛い。
おれには、どこにも居場所がない。どこにも。
ぽたり、ぽたり。土の地面に大きな染みが出来る。生温い雨粒が頬に当たる。
『綺麗な白藍の瞳だ、髪の毛は飴色か、どれも葵にしかないものだ、美しいものだよ』
綺麗だと、言ってくれた。はるかさんだけが。おれにははるかさんしかいないのに。
誰もおれの味方はいない。汚い。全部汚い世界だ。綺麗なのは、あなただけなのに……。
「……っ……」
石を投げられてはっとする。
ふりむくと見窄らしい格好をした年老いた男が、こちらを睨んでいる。
「気味が悪い、混血児が――」
石をぶつけられないように、走って逃げる。聞くに堪えない罵声が飛んで来る。
頬から血が流れていた。ああ、昔みたいだな。遠い昔のように感じるけれど、つい最近までそんな扱いは当たり前だったな。
ここはどこだろう、もう疲れたな。
橋の下の草むらに腰掛けて水面をぼんやりと眺める。
雨が落ちると、水面に輪ができるのをずっと見ていた。どれくらいこうしていたか、分からない。体は冷えきっていて、がくがくと肩が震えるのを止められない。
おれのことを考えての事なのは分かるけれど、でも。
本当はおれのこと、面倒くさくなったんじゃないですか?
疎ましくて、それで、
遠いところにやって――。
ねえ、
なんで、買ったんですか。
なんでもするのに、側にいられるのなら。
親になろうとするはるかさんを、好きになるのはおかしいことですか。
空を見上げると、底の無い穴の様に暗闇が広がっている。
汚い。混血児。
汚い。自分が嫌になる。
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