27
葵と初めて出会った日に考える事を放棄した。ただその美しい少年を手元におきたいと、思っただけだった。
今はそのしわ寄せが来ているのだ。葵が今この家で幸せそうにしているのは、彼は幸せというものに触れられていなかったからだ。
この狭い世界の中で彼は幸せそうに笑う。
外の世界は恐ろしくて、醜くて、汚い。そして、泣きたくなる程に美しいのだ。それを彼は知らない。
私が病気にかかったら、もし私が死んだら?私が葵を養えなくなったとき。彼は一人で生きていけるか。
葵は働きたいと思うかもしれない。妻を娶るかもしれない。
一人の人間の命を買ったということ。人間を預かるということ。最後まで、無責任な真似はしたくない。
葵の幸せを考える。
美しい、澄み切った白藍の瞳。彼は奴隷でも私の人形でもない。この狭い世界にずっと留まることはできない。
分かっているけれど、それでも、葵に言い出せなかったのは……。
ふと居椿の冷たい顔が思い浮かんだ。
「……お前は笑うか?」
◇◇◇
「…あおい」
「入っても、いいかい」
部屋の前で逡巡した後、葵の部屋の襖越しに声をかける。
寝ているのか、それとも、私と話す気分ではないのかもしれない。無理もないことをした。自室に戻ろうと踵を返すと、後ろから控えめな声がした。
「あっ、はるかさん、どうぞ。その、すみません。何か、用ですか?」
久しぶりに葵と口をきいた様な、そんな錯覚を起こす程にいつもと違う空気がこの家に流れていた。
「少し、話をしよう」
私はいつもの様にと心がけて、微笑んだ。
◇◇◇
「外国人の、」
「そう、この町から汽車に一日ほど乗れば、大きな港町がある」
私と向かい合った葵は、背筋をぴんと伸ばして真剣な表情だ。
「港町……」
「志生からきいたんだけれどね――」
志生は交友関係が広く私の知らない事をよく知っている。私が葵の将来について悩んでいる時に、ある町の話をしてくれた。
この町から汽車に乗って一日ほどかかる、とある港町の一郭に外国人が住まう地域があるという。
「悠、外国人居留地って聞いた事あるか?」
「……いや、耳にしたことは、ないな」
そこは外国との貿易のため港におかれた、異国の人間が住まう地域のことらしい。そこは最近まで治外法権で、町の様式も馴染みのある日本のそれとは全く異なり、全てが外国風なのだという。
想像も出来ない私に、志生は薄い雑誌を手渡してくる。ぱらぱらと頁をめくると、石畳の道路になんというかハイカラな建物の町並みの写真が載っている。
「こんなところが、あるのか。知らなかった」
洋物の派手な服を着た日本人と異国の人間が微笑んでいる、この町は随分と進んでいる。
「僕の知り合いが、知り合いの友人がそこに住んでいるんだ。葵みたいな顔立ちのいわゆるガイジンがたくさんいるそうだよ」
ここなら、差別は殆どないだろう。
「……その町に葵は住めるのだろうか」
「とりあえず、知り合いに話を通してみようか、悠がいいのなら」
「ああ、頼む」
もしその町に住めずとも、その町の近くでもいい。外国人が多く居るというのなら、この閉鎖された町よりかは、住みやすいだろう。
ここにいるよりもずっと生きやすい。飴色の髪や、白藍の瞳を隠さなくてもいいだろう。学校にも行けるかもしれない。
有用な情報を手に入れて、喜ぶべきなのだが、葵と離ればなれになってしまうかもしれない。そんな子供染みた考えで一杯だった。
そんな自分の複雑な考えとは裏腹に、この話はとんとん拍子に進んで行った。
「それで、葵の身の上をその志生の知り合いに話をしたら、その友人の外国人が葵を迎え入れてくれるとのことなんだ」
「……迎え、入れて……」
「ああ、この人だ」
志生から預かっていた写真を葵に手渡す。
「『ゼエムス、ランバス』という人でその港町で先生をしているらしい」
写真の中の口ひげを蓄えた男性は、丸めがねをかけ立派な洋物の服を着て背筋を伸ばしている。葵はその写真を食い入る様に見つめる。私も何度もその写真を見たけれど優しそうな目をした人だ。
「ぜえむす……さん」
「学校にも通える事が出来る」
学校という言葉に葵は目を輝かせた。
決して口には出さないけれど、1人家で本を読むよりも、学校に行きたいのは、当たり前のことだ。
物覚えの良い葵のことだから、勉強に励むだろう。志生の伝手で願ってもない好条件な提案だった。格安で『ゼエムス』という彼の家の空き部屋を貸してくれると聞いた。
白藍の目を大きく開き、口元を緩ませる。葵の嬉しそうな顔。葵の白い手が、写真の表面をなぞる。
「これもご覧」
志生に貰った外国人の居留地の記事が掲載された雑誌を渡す。
「学校にも行けて、外にも普通に出られるんですよね」
葵はその雑誌を丁寧にめくっていく。
「ああ。葵と同年代の異国の人間も多いそうだよ。差別もほとんどないそうだ。とても好条件で……」
ふいに、言葉に詰まる。
「……?はるかさん?」
「葵、学費や生活費の心配はしなくて良い、金銭の援助は私がするから。ゼエムスさんも、信用できる、いい人だ」
ああ、どうしてだろう。涙が出そうだ。声が震える。思わず立ち上がって、用もないのに、庭の方を向く。
「はるかさん、あの…でも、はるかさんも、」
「だから、行っておいで」
「え?」
私も一緒に行くと思っていたのか、驚いたように声を上げる。葵に背を向けているので、彼の表情は分からない。
「はるかさん、は」
「私はそこには行くことができない」
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