おれの事を買った主人は、不思議なひとだ。

◇◇◇

 その日はいつものように始まって、いつものように終わる筈だった。

 いつものように、鞭で打たれる。いつものように、犬のように飯を食べる。いつものように、罵倒される。

 そして時々客のような人ががやってきておれたち奴隷を物色する。異人であるおれの牢屋のような部屋を興味本位で覗く客も、見下すように哂うか、化けものでも見るかの様に気味悪がる。

 下品な笑い声。冷たい床。寒い部屋。ここがおれの居場所。

 奴隷、買われた先に待つ運命も大抵予想がつく。買う人間、買われて奴隷として扱われる人間、何に違いがあるのだろう。

 誰かがおれを救ってくれる、そんな幻想を夢見る心はとうの昔に捨て去った。死ぬまで、永遠に。この屈辱は続くのだと、とうの昔に諦めていた。

 その日は客がやってきた。

 その前の時間に鞭で強く打たれていたので、起き上がることが出来なかった。背中をかばう様に、右肩を下にして丸まって寝ていた。床が冷たい。体が冷えてゆくのが分かる。

 このまま死ねたらいいのに、朦朧とする頭でそんな事を考えていた。

 足音が近くで止まった。鍵の開く音が聞こえる。

 起き上がらなければ、打たれる。いつものように、手を合わせ、足を折り、額を床に擦り付け、主人とその客に平伏する。主人の前では、こうしなければならなかった。顔を上げるよう言われたので、素早く上げる。のろのろしていたら、よく打たれたから。

 黒い髪に黒い瞳。顔を上げた前にいた人は、おれが切望しているものを持っている。全て。だからと言ってもう何も思わないけれど。

 客の男の人は柔らかい表情で、目を細めた。そんな顔を向けられたのは初めてだった。いつもの客と雰囲気が随分違うように思えた。それでもおれは知っている、人間の心は深い。

 じっと顔を見つめられる。真っ直ぐな目線が絡み合う。それから、おれの顔をじっと見て、

「綺麗な目だ」とそれだけ言った。

 なんて冗談だ。初めてそんな事を言われた。どうしていいのからず呆けていたら、その人はおれを買うと言うような事を言った。そして主人に金を払っているのが見えた。

 何が起きたのか良く分からない。体がだるい。重い。夢ならもういい。早く終わればいい。悲しくなるだけだ。綺麗な目?何を言う、おれを異形の化け物でも見るような目で、嘲る癖に。

 強引に立たされる。夢と現実の境がおぼろげだ。頭に布を被せられる。

 おれを買う。ここから出られる。

 夢じゃないとしたら、またどこか違うところで働かされるんだな。この店よりマシだといいな。マシだからといって、幸せにはなれないだろうけれど。あの主人の冷たい顔をもう見なくて済むなら。それでいい。

 車に乗せられる。布で前が見えない。

 どこへ行くのだろうか。どこへ行っても変わらない。どうせ。殺してくれ。もう疲れた。新しい主人に頼んでみようか。許してくれるだろうか。穢らわしいこの体。誰も悲しまない。誰もおれの事はしらない。

 車が止まった。車から降り、布から外を見る。外気が肌を刺す。寒いのには、もう慣れた。そこには立派な塀があって、古いけれど大きな一軒家。

 寒い。雨が降っている。強く。

 家に入れて貰えるのだろうか。

 数年前に買われた所では、家には入れてもらえなかった。庭にある犬小屋のようなところで過ごしていた。玄関に入ってゆく、おれを買った主人の背中を見ながら突っ立っていたら、入ってもいいという風に言われたので、少しほっとして家に入る。

 家には入れてもらえるらしかった。

◇◇◇

 それから風呂に入るということを主人は、言った気がする。おれは慣れているためにもう分からないが、さぞかし臭うのだろう。主人には逆らおうとする気は頭にないので、言われた事には全て従う。されるがまま。

 この人は何を考えているのだろう。おれに接する態度がいつもの大人と違い、なんと言えばいいのか、優しかった。思い上がっているのだろうか、身の程を知れ、そんな訳ないだろう。まだ幻想にすがりつく、おれの心に反吐がでる。優しいのも今の内で、浮かれたおれを地の底まで堕とすつもりだろうか。大人の考えそうなことだ。

「体を見せてくれるか?」

 ほら、

 あぁいつものように犯されるんだ、と思いすぐに着物を脱ぐ。良かった。いつも通りだ。

 しかしこの人は傷にやさしく、まるで労わるかのように触れるだけだった。あまりにやさしく触れるので、どきりと心臓が鳴る。

 それから風呂に入り、傷の手当をしてくれるらしい、この人はどんなつもりなのだろうか。どういう反応をしたら良いのか、戸惑う。おれは、奴隷なのに。

 主人は今まで着たこともない、上等な着物を差し出してきた。貰っても良いのだろうか。
迷ったが、受け取った。羽織ってみると肌触りがとても良いことに気がつく。

 しかしどうやって着るのか分からない。

 こんなきちんとした着物なんて着たことがない。悲しくなる。罪悪感のようなものがからだを駆け巡る。どうしようかと考えていると、骨ばった腕が伸びてきて着せてくれた。見上げると、おとこはやさしく微笑んでいる。こんな風な表情を向けられることは、初めてだ。着物がこんなにも温かいものだと知る。

 それから、

「名はなんという?」

 男の心地のいい声が響く。名などおれにはない。名を呼ばれたことがない。

『おまえは格下だから、名を呼ばれるような立場ではない』
『名なんか必要ないだろう?誰も呼ばないんだから』

 主人に言われたことを思い出す。名がない。改めて思えばなんと惨めなことだろう。奴隷は、人間ですらない。

 名がないことを身振りで伝えると、おとこのひとは顔を顰めた。墨色の瞳が揺れた。なにか不味いことだったのだろうか。難しい顔で何かを考えている主人の顔を見る。居椿よりも背は低いので、どこかほっとする。それでも子どものおれよりかは、大きくて大人の男なのだなあと思う。

 難しい顔で何かを考えた後、主人はふっと微笑んでこちらを見る。それから、飯を作ってくれるらしく。おれは台所でずっとその様子を見ていた。おれの存在を厭わずに、傍にいるのを許してくれた。この人はいつもの大人と違う事に安堵していた。しかしいつ本性を表すのかと、怖い部分もある。この人の様子を見る限りでは、そのような事はなさそうだと思う。どうしてだろうか。醸し出す雰囲気だろうか、柔らかな口調だろうか、優しい墨色の瞳だろうか。

 料理は不慣れなのかもしれない。がたんと大きな音を立てながら鍋を落としたり、芋の皮を切っている最中に指を切ったりしていた。その度におれの方をちらりと見て、「参ったなあ」と苦笑していた。

 その様子におれは目を細める。おれより背が高いので、少し見上げるようにして顔を見る。真剣な表情。綺麗な黒髪を後ろで束ねている。

 この気持ちはなんだろう。初めて湧く感情に戸惑う。

「やっと出来たよ」

 嬉しそうに顔を綻ばして、かちゃかちゃと食器を運ぶ。

 その声にはっと気付いてこくりと頷く。

 お粥。初めて食べる。あたたかくて、とても美味しい。腹が減っていたおれは、鍋にあったものを全て平らげた。腹いっぱい飯を食べたのは、いつぶりだろうか。

 おれを人間として扱ってくれる。ちらり見やると、やさしく微笑んでいた。ずっと見ていたかったが、おれは俯いた。迷惑に違いないから。

 信じてもいいのだろうか。信じるのが怖い。優しさが怖い。


◇◇◇

 布団を敷いている。おれは当然の如く、どこか床か畳の上で寝るつもりでいた。畳はあの店の床より随分温かく感じる。正座をして、じっと見ていると、

 おとこは布団に横たわり、そして信じられない言葉を発した。

「おいで、生憎布団がこれしかない」

 そんな訳にはいかない。おれは奴隷で、そんな身分じゃない。風呂に入ったとはいえ、汚ない。おれの体が汚い。拒否をすれば、「嫌か?」と問うてくる。嫌な訳ではない。
決して違う。分かって欲しくて強く首を振った。もちろん横に。

 そうしていると、微笑んで、「おいで」「早く」と言ってくる。待たせるのは悪いので、大人しく布団に入る。布団はふかふかで温かくて気持が良かった。この感触は初めてだ、いつも床で眠っていたから。

 邪魔にならない様に、横で丸まって寝ようと思ったら、横から腕が伸びてきて、おれの肩を掴んで優しく引っ張られた。

……。
 
 思わず息をのむ。大きな胸に抱かれた。心臓の音が聞こえる。トクントクンと脈打っている。母親にも抱かれた記憶がないおれは、初めての事にどうしていいか分からなくなる。

 足を伸ばせと言わんばかりに、おとこの足がおれの足に絡まる。温かい。温かいけれど、自分の心臓がどきどき煩い。

 体が固まる。

主人がおれのことをぎゅっと抱きしめるので、鼻先が主人の広い骨張った胸に当っている。良い匂いがする。あたたかい、やさしい、匂いがする。嬉しいような、泣いてしまいたいような、感覚に陥る。

 そして疑問もわく。主人はおれのことを、汚いと思わないのだろうか。奴隷だったおれを。汚い。汚い。おれは自分の事を汚いと思う。

 ぐるぐると、申し訳ないような気持ちが巡ったが、おれははやがて主人の心臓の規則的な音に、安心し、眠った。

◇◇◇

 いつも夜明け前に起きなければいけなかった。いつまでも寝ていると冷たい水をかけられて起こされた。夏であろうが、冬であろうが。そうなる前に自分から起きなければ。

 あたたかい。あぁ良い夢だ。やさしいおとこのひとがおれを買ってくれて、そして微笑んでいる。柔らかい顔で笑うひとだった。

 このまま目が覚めなければ良い。今日は随分良い夢を見た、気がする。あたたかくて、やさしくて。いつまで幻想に縋り付く?あきらめたはずなのに。

目を開ける。


「……」

 夢じゃない。大きな体にきつく抱きしめられていて、身動きがとれないくらいだ。この人の匂いがする。とても心地良い匂いがする。優しい、柔らかい匂い。

夢じゃない。

 おれより上の位置にある顔を見上げる。まだ目を瞑っている。高い鼻に、薄い唇。すっきりした顔立ちだ。ずっと見ていた。飽きもせずにずっと。気づかれないうちに。

 どのくらい時間が経ったのだろう。辺りが少し明るくなったような気がする。雨の音は止んでいるようだ。

 隣で寝ていた人は、少し喉を鳴らすと、目を開ける。墨色の目がおれの目と合う。おれは慌てて俯いた。穏やかな綺麗な目、見惚れてしまいそうになる。


「お早う、起きていたのか」

 寝起きの少し掠れた低い声に、頷く。やさしい声にどきりとした。

◇◇◇

 広い屋敷を説明しながら、主人が、この家はおれの家でもあるのだから、全て好きに使っていいという風な事を言う。おれの事を『奴隷』などとは思ってはいないと、普通と違うおれの形を気にしなくても良い、といつもの優しい口調で話す。

 いつもの生活とは、想像とは、かけはなれた内容に耳を疑う。ならば、ならばこの人は何を、何のためにおれを買ったのだろう。働かせようとする気も感じられなければ、抱かれる事もない。この人の考えていることが、分からない。信じてもいいのだろうか。夢を見ているのだろうか。

 呆然としていると、主人は筆で紙に何かを書き始めた。何をしているのだろうか。じっと主人の顔を見ていると、視線に気づいた主人が、こちらをちらりと見る。おれは、居心地が悪くなり顔を伏せる。

 主人はくすりと微笑む。少し経って、『葵』と書かれた、紙を差し出す。読めない。文字を教えてもらった事は一度もないから。どういう意味だろうか。少し悲しくなり首を振ると、

「あおい、お前の名だ」とやさしい声で読み方を教えてくれた。

 綺麗な、字だなあと思った。

あおい。
あおい。
おれの名前。

名を貰った。

あおい。
あおい。

葵。
葵。

 嬉しくて、嬉しくて、思わずにこりと微笑んだ。今までに味わったことのない感覚。おれが奴隷だったことを忘れているのだろうか。そんな筈はない。

 幻想を夢見てもいいのか。分からない。罠なのか。思考しても。分からない。

 ただ、
 ただ、
 嬉しかった。

◇◇◇

「珍しいねぇ、イジン?なんでしょう?」

 静子さんという人らしい。主人よりも年上のようだけれど、まだ若くて綺麗な女の人だ。そして明るくよく喋る。大きな声にどきりとする。これからおれの分の昼飯と夜飯も作ってくれるらしい。

 静子さんという人に作ってもらった、飯を机に並べる。

 イジン、異人。と言われた。

 言葉が巡る。日本人じゃない。異国の人間。ここいに居てもいいのだろうか。

 異人。

 何度となく聞いて来たその言葉。呪いのような。おれを蝕む。

 どんなにか、普通の日本人になりたいと思ったか。黒髪に黒い瞳、切望してもどうにもならない見た目。どうしようもない。どうしたらよかった?

 でもこの家の主人は其の様な事、気にしないと言ってくれた。微笑んでくれた。それでも、おれが異人という事実は変わらないし、おれがこの家にいることで、この優しい人が迷惑することが、あるかもしれない。それほどまでに、おれの外見は他と異なっている。

 少しぼおっとしながら、食べていると、碗を落としてしまった。

―――やってしまった。

 どうしよう、叱られる。嫌われる。嫌いにならないで。初めて出会えた、優しい人。

「……すみません」

 自然に口から突いて出た。主人は驚いたように、墨色の目を見開く。そこで気がつく、声を発してしまった。封じていた、言葉を。幼い記憶が蘇る。

『喋ってはいけない、喋るな』
『黙れ、煩い』
 
 おんなのひとが叫んでいる。狂ったように叫んでいる。

『あぁ煩い、煩い、頭が割れそうだ』

 頬が熱い。打たれる。打たれる。謝らなければ。謝らなければ。おれは、すぐに平伏する。この人に嫌われたくなかった。


「叱らないから、顔をあげなさい」

 やさしい、柔らかい、声が聞こえた。おとこの声だ。おれは少し怯えながら顔を上げる。優しい墨色の目を細めていた。安心させるように、やさしい。あたたかい。

「喋ってくれた方が、私は助かる」

 骨ばった腕がおれの頭をやさしく撫でる。心地良いその感触に、涙が出そうになる。やさしさを求めてしまう。人間の性質なのか。諦めたものをまた欲してしまいそうになる。

 その腕に縋りついた。

 人に触れることは、久しぶりだった。いつも冷たい手で打たれているばっかりだったから。骨ばっていて、薄っすらと筋肉のついた腕。あたたかい腕。

 気安く触れてしまった。迷惑かもしれない、離れなければ、謝らなければ。離れようとした瞬間。大きな腕がおれを、包み込む。抱きしめられているのだと気づく。

つよく。
つよく。

……。

 広い胸に顔を押し付けて泣いた。おれは、久しぶりに泣いた。声を上げて泣いた。何年振りだろう。涙は枯れることなく、あふれ出す。あふれては、零れ落ち、着物を濡らす。その度に、つよくぎゅっと力を込められる。

 あたたかい。やさしい。心地良い。

 心臓の鼓動が聞こえる。脈打っている。頭を撫でられる。この人を信じてもいいですか。この優しい、人を。

◇◇◇

 おれを買った主人の名は「はるか」と言うらしい。朝来たおんなの人が明るい声で言っていたのを思い出す。どういう字を書くのだろう。

 おれも名を呼んでもいいだろうか。呼ばせてくれるだろうか。訊いてみたいけれど、少し不安になる。

 おれに背を向けて座っている。何かを書いているのだろうか。いま声をかけたら、邪魔だろうか。

 何度となく逡巡して、そして居ても経っても居られなくなって、声をかけてみる。

◇◇◇

 「はるかさん」と呼ぶことをいとも簡単に許してくれた。嬉しくなったおれは、心の中で何度も呟く。『篠宮 悠』と書かれた紙を飽きることなく見つめた。はるかさんは、そんなおれをみてくすりと笑った。

「はるかさん」

 呼べば、はるかさんは墨色の目を細める。

「なんだい」

「……この紙貰っても、」

「いいよ。紙なら腐るほどある」

 はるかさんは頭にぽんと手を置いて、微笑んだ。それから机に向き直り、筆で先ほどの続きを書き始めた。

 おれは『葵』と書かれた紙と今日貰った紙を見比べる。人に何か物を貰うのは初めてのことだ。嬉しくなったおれは、大切に折りたたんだ。

 はるかさんに、名を呼ばれると泣き出してしまいたいような、なんとも言えない気持ちになる。嬉しいのか。悲しいのか。分からない。ただ胸が苦しい。

 はるかさんには、たくさんの初めてを貰った。名を貰った。抱きしめて貰った。微笑んで貰った。名を呼ばせて貰った。

 数え切れない。

 こんな短い間に、こんなにも幸せな事があっていいのだろうか。少し不安になる。それでも、嬉しい。今はただ嬉しいとだけしか思えなかった。

 この人に何かをしてあげたい。何かを返したい。そう思うのも初めてだった。

 でもはるかさんは、おれに何も求めない。働けとも言わない。同じ布団で寝ても、抱くことはない。おれは何も持っていない。この優しい人のためだったら、何でも喜んでしたいのに

 捨てられたくない、何かをしたい。ずっと一緒にいたいから、何かをしたい。でも今のおれにはなにもできない。もどかしい。

 はるかさん。
 はるかさん。


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