ぼんやりとした思考の中、暖かい塊が腕の中にあるのが分かる。無意識のうちに力を込める。朝は苦手だ。このかたまりは何だろう、素っ頓狂な事を一瞬考え、思考がはっきりする。

 そういえば少年と同じ布団で寝たのだった。目を開けると、白藍の瞳がじっとこちらを見つめていた。私と目が合うと、驚いたようにして俯く。

「お早う、起きていたのか」

 そう柔らかく言うと、少年はこくりと頷いた。

◇◇◇

 その日は屋敷を軽く説明した、無駄に広い家だけれど、殆どの部屋は使わずに放置されているので、説明するべき部屋は少なく済んだ。今私が使っている部屋は、居間と台所と仕事部屋と寝室くらいだ。どこかの部屋を掃除して、少年の部屋をあげないとなあ、とぼんやりと考えた。今私が使っている部屋は、居間と台所と仕事部屋くらいだ。

「もうお前の家でもあるのだから、全て好きに使って良い。掃除しないと使い物にならない部屋ばかりだけれどね」

「……」

 少年は良く分からないというように、首を傾ける。好きに使っていい、という意味を計り兼ねているようだ。胸が痛む。

「私はお前を買ったけれど、『奴隷』などとは思っていない。一人の人として、接したい。私はお前の主人ではないし、お前は『奴隷』ではない。混血だからなどと、気にする事ではないよ。周りの他人は変な目でお前を見るかもしれないが、少なくとも私は気にしない」

 少年の緊張を解すために、なるべく優しい口調で話す。そこまで言うと、胸が痛んだ。当たり前のことだ。異人だから、ただそれだけの理由で当たり前の、人間としての地位を虐げられるなんて、間違っている。厳しい世の中だ。

 飴色の髪がふわりと揺れる。少年が何を思っているのかは分からないが、私の気持ちは伝わっただろう。言いたい事が言えて、少しすっきりした。

 少年は、何も言わない。

 そういえば、まだしなければいけないことがある。昨日布団に入ってからずっと考えていた事だ。

「……ちょっと待っていなさい」

 行儀よく正座して固まっている少年に言ってから、私は机に向く。適当にあった紙に、筆で文字を書く。少年の方を見ると、何をするのか測りかねている様子だ。書いては消し。時には本を取り出し。数分後、畳に紙を広げる。

「読めるか?」

 少年は横に首を振った。

「あおい、お前の名だ」

『葵』

 植物の名だが悪くない、と思う。私の好きな植物で、花言葉も悪くない。少年のイメージ、言葉の響きと文字面、あとは直感で決めた。ずっとお前と呼ぶ訳にもいかないし、名前は重要なものだ。あおい、綺麗な響きだと思う。お前は奴隷ではない、そう分からせなければいけない。そのためにも名前を付けてあげる必要があった。

 少年は紙を見たまま、固まって動かない。白藍の目を大きく見開いている。

「――気に入らなかったか?」

 ふむ、もう少し時間が必要だろうか、安直過ぎたのかもしれない。紙を引っ込めようとすると、少年は私の腕をばっと掴んだ。首を必死に振っている。気に入ってくれたらしい。

 そうか、良かった。

「葵」

 葵の表情を確認しようと、前髪を掻き上げ名を呼ぶと、初めて表情を崩したような気がした。なぜか泣きそうな気持ちになる。


◇◇◇

「悠さん、こんにちは〜」

 明るくよく通る声が、静かな部屋に響いた。独特なアクセントのある喋り方の声の主は静子さんだ。昼飯を持ってきてくれたらしい。

 静子さんは世話好きな奥さんで、凛とした雰囲気の、綺麗な人だ。私が子どもだったときからの知り合いで、私が実家を出ると決意をしてから、この町に移り住むまでの世話をなにかとしてくれた。この人には頭が上がらない。

 今も家事が殆ど出来ない私のために、毎日昼飯と夜飯をこうして届けてくれている。

 昼飯か、これからは二人分必要になる。静子さんに葵のことを紹介するべきだろうか。下手に葵の事が広まることが怖かった。静子さんなら平気だろうか。細かいことは気にしない良い人だ。どちらにしろ飯は必要だ。私が作れたら問題ないのだが。

「お早うございます」

 玄関まで行くと静子さんが盆に一人分の飯をのせて持っている。いつものように、笑っている。

「あらあら、留守なのかと思ったわ」

「すみません」

 まだ寝ていたのかい?あらやだ悠さんまた痩せた?駄目じゃない。ご飯の量増やそうかしら。そういえば、悠さん最近ね……

 静子さんはお喋り好きだ。いつも、些細な出来事を楽しそうに喋る。「静子って名前なのにねぇ」なんて笑っていたこともあった。

 いつもと変わらない静子さんに、安堵した。息を吐いて、「あの…」と話を遮る。深刻そうな私の表情に、静子さんは「なにさ?」と眉を潜めた。

「……もう一人分飯を増やしてもらいたいのですが」

 静子さんは真っ直ぐ私を見た。この人の率直な性格と態度は嫌ではない。

「そりゃあ一人分増えたって構わないけど。どうしたんだい?」

「複雑な境遇の子を預かっていて……その、合いの子なんだ。」

 合いの子という表現は好きではなかったが、きっと分かりやすい。

「葵、おいで」

 居間にいる葵に声をかけると、すぐに走ってやってきた。葵を見ると、静子さんが「……へぇ」と目を見開いた。

「どうかお願いしたい」

 深々と頭を下げる。

「珍しいねぇ、イジン?なんでしょう?」

 静子さんは物珍しそうに葵を見ている。葵は少し戸惑っているようだ。

「他の人には黙っていて欲しいのです。きっと良く思われないので」

「そうよねぇ、ここいらじゃ見ないもの」

 静子さんは少し黙って、何かを考えていた。

 そうして、

「分かった、これからは二人分作ってくるわ」そう言って明るく笑った。

 安堵して息を吐く。良かった。

「すまない、有難う」頭を下げる。

 それから「着物は足りてるの」とか「頬に痣があるじゃない、手当てしなきゃ」だとか一気にまくし立てて、「あらやだ、冷めちゃったわ、作り直してくるわ」「もちろん葵ちゃんの分もね」と笑って嵐のように自宅に戻って行った。

 この人はどこまでも明るいな、と思った。静子さんの真っ直ぐな優しさに触れて、嬉しくなった。

 思えば最初に此処に越して来たときも、こんな感じだったな。他に知り合いのいない私が、顔見知り程度の静子さんを頼ってこの町に出て来て、これ以上は面倒はかけられない、と何度も言ったが押し掛けて来て、身の回りの世話をしてくれた。
 
 あなたは、ご飯なんて作れなかったでしょう?昼飯と夜飯は私が作って持っていくわ、等と急に言い出し、辟易している私を余所に話を進めて今に至る。静子さんの裏表のない溌剌とした性格に救われた所もある。

 私が家族と上手くいっていない事を彼女は知っているので、この町に来た理由を詳しく尋ねもしないし、ただ良くしてくれる。

 私と親しい友人は、何か裏があるのではと訝しんでいたが、私はそうは思わない。思わず微笑みがこぼれる。

「良かった、な。」

 葵に向き直ると、小さく頷いた。

◇◇◇

 温かい味噌汁だ。程よい塩加減が美味しい。葵は頑張って箸を使おうとしている。私の真似をして汁碗を左手に持っている。

 食べにくそうだな。そう思ったときに葵の手から碗が滑り落ちた。

「……っ」

 豆腐やらの具材、汁が派手に飛び散った。

「火傷はしてないか?」

 急いで布巾を渡すと、



「……っ…すみません」


 小さな小さな声が聞こえた。

……葵が喋った?

 確かに聞こえた。小さい声だったが「すみません」、と。私は少し固まって、葵をじっと見つめていた。
 
 今、確かに。

 葵は、はっと気づいたかのように両手で口元を覆う。それから震えながら、足を折り曲げ手を前に揃え、頬を畳に擦りつけ、その場で平伏した。

「……」


暫しの沈黙。


「叱らないから、顔をあげなさい。話を聞く前に汁を拭き取らなければ」

 柔らかく言うと、ゆっくり顔を上げた。葵ははっと気づいた様にして、渡した付近で畳に散らばった具材を集めて、汁を拭き取る。自分の膝にこぼれたものは後回しに、動き回る葵を静止する。そして葵の膝にかかった汁を拭き取っている間、葵は泣きそうな怯えたような顔でこちらを見ている。


「……喋れるのか?」

 姿勢を正して問えば少し迷って、小さな声で

「はい」、と素直に言った。

 喋らないように、言われていたのかもしれない。それが癖になるほど、長い間。この怯えようは、喋ると打たれでもしたのだろう。可哀想に。

「喋ってくれた方が、私は助かる」

 頭を撫でてやる、ふわりと飴色が絡みつく。葵は何かを考えるように、私を見やる。

そして、

「はい」とまた小さく呟いて、

 葵は涙を流した。嬉しいのか、悲しいのか、私には分からない。きっとたくさんの複雑な気持ちが入り混じっているのだろう。伝う涙に手で触れる。葵の白い腕がその手を、縋るように掴んだ。

「……」

 私は思わずその細い躯を強く抱きしめた。葵は泣いている。私の胸に顔を押し当て。涙で着物が濡れるのが分かる。何を思っている。何があった。お前の過去を私は知らない。知りたい。

そう、この気持ちは。


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