13

 その日は特に蝉の鳴き声がうるさくて、日差しがやけに眩しかった。ふわりとした風が、肌に触れる。

 全てが心地良いもので、全てが綺麗なものにみえた。

 凛がいぶかしげに、僕の瞳を捉える。その瞳からは、不安や疑問で溢れている。

 もしかしたら彼は気づいていたのかもしれない。

「なんか。きよ、」
「どうした? 凛」

 凛がこの世の終わり、とでも言うような顔をしている。もうすぐ。

 もう、今すぐだ。

「きよ? なんか、きよが――」




「見えにくい」




 ふわりと風が吹く。ああ、時間だ。

 凛は目を擦りながら、不安そうに首を傾ける。

「凛」

 異変に気づいた凛が、泣きそうな顔をする。辺りを見渡す。

 先ほどまでやかましい程に鳴いていた、蝉の音が聞こえなくなった。あたりは沈黙に包まれて、強い日差しも、生温い風も、何も今では感じられない。

 今にもこぼれ落ちそうな凛の涙を拭ってやる。
 
 気づいているくせに、凛は認めたがらないようで、なんでどうして、と繰り返す。

「きよ、なあ。はぐらかすなよ。おれたち、ずっと一緒だろ……?」

 力なげに発せられた言葉が溢れてこぼれ落ちて行く。



「お別れの、時間みたい」



「なんで……きよは、幽霊だったの? 」

 『幽霊』
 死者の魂が形となってこの世に現れたモノを、それと言うのなら。

 僕は頷いた。

「幽霊でもいいから……っ」

 僕は苦笑しながら凛の頭を撫でた。

「この世界は、凛が思っているより、汚いものばかりじゃないだろう。だから笑っていてくれよ」

「やだ、きよが。きよが居てくれないと……ああ、ああ。きよ、ねえ。どこへ、行くの」

「ここじゃない、どこか」

「おれもつれ――」

 凛は、口をつぐむ。その先の言葉を紡いでは行けない、と気づいているようだった。僕は嬉しくなって、微笑む。

 ああ、君は、大丈夫。僕は確信して、満ち足りた気持ちになる。

「凛、僕の凛。愛しているよ」

 自分の掌を見ると、下にある地面が透けて見えた。それを見た凛の顔が涙でぐちゃぐちゃになる。

 さらさらと、紐がほどけて行くかの様な感覚。

 段々と太陽の光がやけに眩しくなって、蝉の音がやけにうるさくなった。

 その世界から切り取られていく。

 凛は僕の体が解けて行かない様に強く抱きしめる。それは意味のない事だけれど、嬉しかった。この人を愛おしいと思った。

 それは、昔から変わらない事で、昔と同じ気持ちだった。

 僕の願いは全て叶った。

 だから、お別れ。

「最後に、ご褒美くれよ」

 僕はいつもの様ににやりと、笑う。凛は泣きじゃくって、いつものように照れてはくれなかった。

 泣き虫な、凛。僕の大切な――。

 凛の柔肌にもう触れられないのかと思うと、寂しい気持ちもあったけれど、凛が幸せなら僕も幸福だった。

 透明になっていく、ほどけてゆく体で最後に凛を抱きしめた。凛は泣きながら、僕に口づけをした。


「きよ! きよ。好き。大好き。ありがとう。きよ……」
 
 凛の腕のぬくもりが、徐々になくなっていく。冷えて行く。凛は泣き叫んでいる。

「凛、僕の凛。愛しているよ。幸せになれよ」

 凛の涙で濡れた顔が薄くぼんやりとしたものになっていく。僕は幸福な気持ちで、世界は遠ざかっていく。

 凛が、変なモノを見ませんように。
 母親に、打たれませんように。
 学校で、凛が虐められませんように。
  
 光景が目に浮かぶ。

 音もなく、何もない。美しい。

 世界は汚いものばかりじゃない。耳を澄ませて。手を伸ばして。

 周りには怖いもので満ちているかもしれないけれど、でも凛なら大丈夫。

 凛はちゃんと、選ぶ事ができたから。

 生きると言う、道を。

 お別れは悲しいけれど、僕はいつでも凛と共に在る。

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