はじまりの季節、春。
まっさらのフローリングの床に、最後のダンボールが積み上げられ、マルコはほっと一息ついた。
咲いたばかりの桜を散らす雨も止み、大きな窓とベランダの向こう、晴れ渡った空に芽吹いたばかりの緑がきらきらと輝いている。
急ピッチで整えた引越し先は、普通引っ越すなら利便性を取って会社の近くじゃないのかと同僚兼腐れ縁のリーゼント頭にも呆れられたとおり、それまで住んでいた町より三駅ほど会社から遠ざかった閑静な住宅街だった。
それも、駅近の新築マンションではなく、歩いて二十分はかかる町外れ。
大きな公園に学校も揃っている町は子どもを育てるにはおあつらえ向きの環境なのだけれど、ここ数年仕事第一の暮らしをしてきたマルコには、家庭はおろか、恋人もいない。
けれど、ペットショップもある大型ショッピングモールが近かったり、頑丈な鉄筋造りの広い部屋は防音もしっかりしていて、おまけにペット可なのだから、この新居にはマルコの掲げた条件を全てクリアしていたのだ。
まずは一服だろう。カラカラと窓を開けた先の広いベランダで煙草を咥えたところで、部屋の中からばさばさと騒がしい羽の音が聞こえてくる。
「はぁ……わーったよい」
業者のトラックに乗せるのを頑なに断り、自家用車で運んだ巨大な鳥かご。
人の目に触れないように、そして、目まぐるしく変わる風景で刺激しないようにと、鳥かごには三日分の新聞紙でカバーをしていた。
そのカバーも、内側から突かれた穴だらけで、ちらちらと青い羽毛が覗く。
びりびりと雑にカバーを破いて外してやると、彼だか彼女だかいまだにわからない鳥が、せいせいしたとばかりに羽の裏を嘴でくすぐった。
引越し用に手配した鳥かごは、西洋調のデザインが気に入って決めたものだけれど、ここにしまう時の壮絶な攻防戦を思い出すと、もう使われることはないだろう。
暫定的に不死鳥と認めるしかないその鳥は、早く出せと扉をコンコンつつく。
「まぁ、待てよい」
改めて思うと、鳥相手に話しているのは可笑しな光景なのだけれど、人間のマルコに鳥の言葉なんてわからないし、不思議なことに、不死鳥はマルコの言葉を理解しているようだった。
しゃがみこんで目を合わせると、マルコによく似た眠たげな目が「なんだ」と問いかけた。
もっと不思議なことは、マルコもまた、不死鳥がなにを伝えようとしているか自然とわかることだろう。
「いいか、ぜってぇ外に出るなよい」
――なんで?
「なんでって……お前は目立ちすぎんだよい。いくらペット可のマンションでも、好き勝手やられたら困る」
――でも、窮屈だよ
「贅沢言うなよい。引っ越してやっただけでも、ありがたいと思え」
仕事人間らしく、必要最低限しか給料は使う暇がないから、同年代の社会人より貯金している自信はある。
けれど、引越しにかかる費用は馬鹿にならないし、おまけに前の安アパートより家賃は上がり、生活費は人間一人に鳥一羽分が足される。
どちらかというと倹約家なマルコにとって、今回の引越しと今後生きていくための経費は、仕方がないとはいえ好ましいものではないのだ。
「人目に触れてみろ、あれで焼いて食うからな」
あれ、と指差した先、キッチンには男の一人暮らしで活躍の場はそれしかないと思われる上等なオーブン。半ばというか、完全な脅しだ。
――マルコの人でなし
「あぁ!? てめ、今から焼くぞ、おらっ」
思わず上げた声が大きくて、ついでに開けっ放しの窓から、カラカラと隣の部屋の窓が開く音が聞こえてきたものだから、マルコは慌てて口を押さえた。
しばらく息を潜めていると、隣の住人は用事を済ましたのか、窓を閉める。
ふぅ、と一息。不死鳥も、同じ仕草で青い炎を揺らした。
「挨拶もしねぇとな」
積み上げられたダンボールの中には、引越しの挨拶用に菓子折りがいくつか入っていたはずだ。
それを配りに行くのが先か、生活感があるとは到底思えない部屋を自分好みに整えるのが先か。
それより先に、さっさとこのかごから出せと、青い炎が盛大に散った。



元々、身の回り品の多い人間ではない。
趣味という趣味もないし、片っ端から開けていったダンボールは、日暮れ前には全てコンパクトに畳まれて、新居はとりあえず人が住んでいる気配を漂わせるようになった。
鳥かごから開放された不死鳥は、しばらく止まり木を探して彷徨い、結局いつものランプシェードに落ち着いてみたり、背中を丸めて整理整頓するマルコの背中に止まって手元を覗き込んだりしていた。
水道やガスの業者が来るたび、リビングから寝室に追いやられた不死鳥が暴れるものだから、「ペット、何飼ってるんすか?」と引き戸の向こうを不思議そうに見つめる業者を誤魔化すのに骨が折れた。
「ったく、言葉がわかってんだかわかってねぇんだか」
ベッドの上で寛ぎ始めた不死鳥を見遣って、疲れた溜息が漏れた。
「なぁ、お前」
話しかけると、閉じられていた目が、マルコに向けられた。
「ちっと出かけてくる。大人しく待ってろよい」
――出かけるってどこへ?
「買出しだ。飯がまだだろい」
朝早くにコンビニのおにぎりを二つ食べたきり、引越し作業に追われて何も食べていない。
さすがのマルコも、腹の虫がぎゅるると鳴った。
――お好きにどうぞ
まったく、いいご身分だ。けれど、ここで青筋立ててぐだぐだしている時間が惜しい。
マルコは車のキーをデニムのポケットに突っ込んだ。
「いいか、大人しくしてろよい」
もう一度念押して、リビングのドアを閉める。不死鳥は小さく欠伸を漏らした。

昼食兼夕食を求めてやってきたショッピングモールのスーパーで、バリエーションに富んだ惣菜に手を伸ばす。
さすが、近隣住民の台所。それまでのコンビニ弁当暮らしに比べたら、随分質のいい食事にありつけそうだ。
一人暮らしの歴は無駄に長いけれど、同じくベテランのサッチと違ってマルコには自炊という観念がない。というか、サッチの腕が良すぎて比較対象にすらならない。
少し多めの惣菜と缶ビール六缶パックの会計を済まして、駐車場に戻る前にペットショップを覗いて鳥用のエサを適当に選ぶ。以前の生活環境じゃ選択肢がほとんどなかった鳥のエサが、思った以上に種類豊富だったことに驚きながら、一番コストパフォーマンスがいいものを選んだ。
日用品は使いかけのものをそのまま持ってきたし、必要なものもあらかじめ揃えていたから買い足しの必要はない。
新居に戻ると、言いつけを守っているのか、それともただ単に眠かったのか、不死鳥は家を出たときと同じ格好のままベッドの上にいた。
買ってきたものをキッチンに並べながら、すやすや眠る不死鳥を盗み見る。
起きている時は突いてきたり圧し掛かってきたり、ばさばさと羽ばたいてみたりと煩わしいことこの上ないのだけれど、こうして見てみると美しい姿をしている。
温度のない炎にもやっと慣れてきて、ゆらゆらと布団が照らされていても焦ることもなくなった。
むしろ、仄かに灯る青い炎を見ていると、体の内側から温まっていくのを感じるのだ。
それは、安心だとか、愛情に近いものだと思う。
ペットと呼ぶには異質で、同居人と呼ぶにも異質で。だけれども、突然の出会いからまだ日も浅いというのに、不死鳥がそこにいるのが当たり前の光景になっている。
いや、当たり前なのも可笑しい話だ。そもそも、不死鳥自体限りなくフィクションの存在のはずなのだから。

――こうして、チルチルとミチルは、しあわせとは気がつかないだけで、すぐ近くにひそんでいるものだと知ったのです。

あの話ももちろん空想の世界の出来事なのに、チルチルとミチルが気づいたしあわせが、マルコにとってもごく身近なものなのに思えた。ただし、大人しくしていてくれる時に限る。
「……いってくるよい」
届くか届かないかわからないけれど、マルコは一応そう告げてから再びリビングのドアを閉めた。

用意した菓子折りを、マルコは遠い部屋から配ることにした。
マルコの部屋の真上に住む住民は単身赴任中だという中年のサラリーマンで、あまり人付き合いを広めるつもりはないのか、「どうも」と告げてあっさり玄関が閉められる。隙間から見えた部屋は暗く静まり返っていて、天井の騒音に悩まされることはなさそうだ。
真下に住む住民は、オンオフなんてものはないのか、玄関を開いた矢先にけばけばしい化粧を施した女と対面する。おまけに毛糸玉のようにまるまると毛足の長い猫付き。
マルコの住む三階フロアに戻ると、自分の部屋を挟んで左側、奥の部屋のインターフォンを押した。
しばらく待っても、応答がない。もしや留守か。
機を改めようかと一歩離れかけたところで、なにやら玄関のバタバタと慌しい足音がして――……
「っと、悪ぃ! 何か用かっ」
「……っ!」
「ん? 誰だ、あんた」
勢い良く、マルコの体すれすれに玄関が開け放たれる。
学生だろうか、ラフな格好をした若い男が、そばかすの散った頬の上で目を細めた。
というか、普通いきなり玄関を開けるだろうか。なんとも無用心な奴だ。
「マルコだ。今日、隣に越してきたよい。よろしくな」
「よい? ……あー、そういや、物音したな」
がしがしと四方八方に散った癖っ毛の頭をかきながら、なるほど合点と男は頷いた。
マルコは、紙袋の中から菓子折りを一つ取り、差し出した。
「つまらねぇもんだが、挨拶代わりに受け取ってくれ」
「そりゃ、どうもご丁寧に。今夜にでも、食わせてもらうよ」
別に、今夜食べようと明日食べようと知ったこっちゃないのだけれど。
見たところ、一回りは違うだろう男は、人懐っこい笑みをマルコに向けていた。
「あ、俺はエース。グランド大の学生で、弟のルフィは高校生だ」
「へぇ、兄弟二人暮らしかい?」
「おう。先に言っとくが、弟はとりわけ賑やかな奴でよ。大目に見てやってくれ」
賑やかと言った矢先に、部屋の奥から「エーーースゥゥゥ!!!」と叫ぶ声がした。これは随分と大目に見ることになりそうだ。
兄のエースは、年上に対し少々なれなれしい印象はあるが、悪い奴ではないらしい。
駅の近くのラーメン屋が美味しいだの、少し離れているが国道沿いのスーパーがショッピングモールより断然安いだの、聞いてもいないのに近隣の情報を教えてくれる。
「えっと、あとはなんだろうな」
「……まだあんのかい」
「そうそう、もう一人のお隣さんには、もう挨拶いったのか?」
「いや、これからだが」
だから、さっさと行かせてくれ、とは飲みこんだ。
エースはころころと表情を変える。笑った次には探るように眉を上げ、今度はニヤリと口だけで悪戯心を覗かせる。
出会って数秒、こりゃくだらねぇことを言い出すぞと身構えたマルコの耳に、エースがそっと口を寄せた。
「そのお隣さん、すっげぇ可愛いんだこれが」
「……だからどうしたよい」
「お? マルコって随分クールなのな」
「悪ふざけしてねぇで、弟が待ちくたびれてんぞ」
もう一度、二度とエースを呼ぶ絶叫が廊下に響き渡り、三度目は閉じられた玄関に阻まれた。

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