「見てわかったと思うけど、今の小石川君には、記憶がないんだ」
「けど、白石のことは…」
「あぁ、白石や俺、跡部のことは憶えていた。けど…ないんだ……仁王の記憶だけ」
「!…なん、で…っなんでじゃ!!」
声を荒げたところで、状況がなんら変わらないのは分かってる。分かっていても、理解したくなかった。
大好きな健二郎が、自分のことを憶えていない…今まで一緒に過ごしてきた時間も、交わした言葉も、何も……足が震える。
どうしてこんなことになったのか、その意を込めて、跡部を見た。
「滝の話によると、合宿所に帰る途中の歩道橋で、子供が階段から落ちかけたらしい。
小石川はそれを助けようとして、子供を庇って階段から落ちたらしい」
それを聞いて、健二郎の優しさを再確認した気がした。
優しくて、優しすぎて…自分を犠牲にしてしまう。
「仁王…辛いと思うけど、これで小石川君との関係が終わりだなんて、そんなことは思っちゃいけないよ」
「けど、今の健二郎にとって、俺は赤の他人じゃ……そんなの、耐えられん…っ」
自分の中に健二郎がいるのに、健二郎中には俺がいない。
一度通じた思いが消えた。こんなことなら、片思いの時の方が幸せだった。
そんな俺の考えを感じたのか、跡部に胸倉を掴まれた。
「忘れられたらそれで終わりか?忘れたからなんだってんだ。
忘れたんなら、また憶えさせりゃいいじゃねぇか!」
「簡単に言いなさんな…あの時間はもう戻らん。
取り戻すのにも、どれだけの時間がかかるか…」
「っ…お前の小石川に対する気持ちは、その程度だったのかよ!?」
「Σっ!?」
そんなわけがない。初めて、本気で欲しいと思った人物。
自分の想いに気付いた時から、必ず手に入れたいと願った人物。
「仁王、なくなってしまった記憶が戻ることはないかもしれないけど、もう一度作ることは出来るんじゃないかな?」
「もう、一度…」
「そうだよ。小石川君が君を憶えていなくても、君が小石川君を憶えているじゃないか。
二人で色んな話をして、色んな所に行って、新しく思い出を作ればいい。
それが、今の君が、彼のために出来ることなんじゃないかな?」
跡部の手をほどきながら、やんわりと微笑む幸村。
「行きなよ。君の思いを伝えに」
小さく頷いて、その場を後にした。早く健二郎に触れたかった。
「お前にしては、随分とお優しいじゃねぇの、アーン?」
「フフッ だって、あのままだったら、跡部は仁王を殴ってただろ?」
「分かってたんなら止めんなよ。
大切な部員を傷つけさせはしないってか?」
「いや、もし仁王があのまま泣き言を言ってたら、俺が殴ってたよ」
「なら…」
どうして止めた、という跡部の言葉を遮って幸村は言った。
「けど、腫れた顔じゃ小石川君に心配をかけてしまう」
「あくまで小石川への配慮ってわけか」
「もちろん。仁王は、合宿が終わったら一週間、立海三強特製地獄のスペシャルメニューだよ♪」
「…そうか」
それを聞いた跡部は、自分がやるわけではないにも関わらず、背中を嫌な汗が伝っていた。
中から微かな人の気配のする病室。聞こえる程度に小さくノックをした。
『どうぞ』と、か細い声が聞こえた。大好きな健二郎の声。
「入るぞ」
中には、先程と同じようにベッドで上体を起こしている健二郎と、椅子に腰掛けている白石。
二人でどんな話をしていたのか。そんなことを考えながら、白石に席を外してくれと頼んだ。
受け入れてくれた白石に小さく礼を述べ、白石の座っていた椅子に腰掛ける。
今は他人となってしまった俺を、健二郎はどう見るのか。あるのは小さな期待と、大きな恐怖。
「えっと、仁王…やんな?」
「! あぁ」
呼び捨てにされたことに、少なからず驚いた。けど、それ以上に嬉しかった。
「ホントは、さん付けとかしたほうがえぇんやろうけど、なんや、仁王はこの方が呼びやすい!…仁王?」
いつもの笑顔を向けてくる健二郎がたまらなく愛しくて、抱きしめた。
「……ごめんな」
「え…」
耳に届いたのは短い謝罪。なぜ謝るのか。今、この状況で謝るべきは自分ではないのか。
見ず知らずの他人に抱きつかれて、気分の良いわけがない。
「なんで謝るんじゃ?お前さんは、何もしとらんじゃろ?」
「…白石から聞いてん…仁王と俺の関係」
「!…そうか…驚いたじゃろ?男と付き合ってたなんて」
普通に考えたら、気持ち悪いと思うだろう。けど、隠すつもりはない。
好きだから。
「確かに、最初は驚いたけど、それ以上に…嬉しかった」
「嬉しかった…?」
「おん。白石が話してくれる仁王は、俺のこと、いっちゃん大事にしてくれとった。
やから、めっちゃ嬉しかった。けど…それを自分が忘れてるんや、って思うたら…っ」
健二郎の手が、俺の服を掴んだ。その手は震えていて、とても弱かった。
身体を離して、その手をそっと握った。
「健二郎、好きじゃ」
「! やけど、俺はお前のこと…」
「そんなことは関係ない。俺がお前さんを好きなんじゃ。
健二郎、俺と付き合ってくれ…そして、また一緒の時間を作ってくれんか?」
「……えぇの?無意識にお前のこと、傷つけてまうかも知れへんで?」
不安げな表情の健二郎。確かに、そういう事にもなるかもしれないけど…
「お前が俺以外の隣で笑っとる方が嫌じゃ」
「にぉ『雅治』えっ…」
「名前、呼んでくれんかの?」
『仁王』という呼び方は、本能的に覚えていたもの。だから僅かな希望を持って願う。
一度も呼んでもらえなかった名前を、と。
「まさ…は、る」
「! けん、じろ…」
「なんや、めっちゃハズいんやけど…」
顔を真っ赤に染める健二郎。それはそうだ。なにせ、初めて呼んでくれたんだから。
「ククッ 相変わらず可愛い奴じゃ」
「うるさい……これから、またよろしゅう…雅治」
「こちらこそ」
微笑んで手を差し出す健二郎。その手をそっと握り返した。
「愛しとぉよ、健二郎」
仁王雅治と、小石川健二郎の、新たな始まり。
刹那の喪失
また新たに刻んでいこう。
君との大切な時間を。
END
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