顎の先からぽたりと雫が垂れた。暑い。日頃空調の効いた場所での作業ばかりの私にとって、何日分の汗をかいているのだろうという程の汗だ。家を出る前に摂った水分は全て流れ出てしまった気がする。駅からたった十分の距離で、もうぼんやりとしている。ああどうしてこんな日に、わざわざ外で、とも思うが、彼に任せられている仕事しかほとんど仕事らしい仕事をしていない私が多忙な彼に合わせるのは当然のことだ。それに、渡すべくデータはできればネットを介することを避けたい。
せめて日陰に、とスペースを確保して、まるで待ち合わせと思われないように、忙しそうにスマホを触ってみたりなどする。頬に張り付く髪をかきあげる。ぽたりと、流れた汗が液晶画面に落ちた、そのタイミングで、俯く視界によくある革靴が見えた。顔を上げる。
「、ふ…、いや、あ、ええと」
どの名前を呼ぶべきだろうか、舌が回らない。そもそも、声を発するべきなのだろうか。外で会う時は、会うというよりすれ違う程度だと決めている。必要とあれば多少の会話はするが、あくまで他人としてだ。情報のやり取りをするに当たり、それ以上の必要はないからだった。
だから、こんなにもあからさまに私に向かい合っていることに、単純に驚いてしまったし、驚きのあまり取り繕うこともできなかった。
ぼんやりと、ああれーさんも暑さでやられてるのかな、なんてことを思う。自分こそ頭が回っていないことは自覚している。
私が顔をあげて、たった一拍程度の間だった。
「え」
彼は私の腕を掴んだ。汗ばんだ肌に触れた彼の手は熱い。彼は何も言わずに、私の手を引いて日陰から出る。抵抗するべきかわからず、手を引かれるまま彼について行く。熱風に吹かれて、彼の髪が靡く。陽に当たって透けるようだ。今日の彼は流石にジャケットは脱いでいるけれど、腕捲りしているとはいえ長袖のシャツだ。肌に触れる髪は汗で濡れて、束になっている。歩く揺れに合わせて、汗の雫が首筋を伝う、顎の先から落ちる。ああれーさんも人間なんだなあと思う。
少し離れた場所に停めていた彼の愛車まで連れて行かれると、助手席のドアを開けられた。乗れということだろう。車を置いていたのは少しのことだろうけれど、もう車内の温度は上がっている。戸惑いながらも乗り込むと彼はドアを閉め、回り込んで運転席に座ると、すぐにエンジンをかけエアコンを最大にした。間も無く車は動き出す。
「れーさん、大丈夫ですか?」
「君こそ大丈夫か」
「ええと、?」
何に対してだろうか。思い当たらず、答えに迷う。車はぐんぐん進んでいく。エアコンの風が少し寒いくらいだけれど、火照った肌を冷ましていく。汗はなかなか引かない。
車はあるマンションの地下駐車場へと入り、彼はそこに車を停めた。ろくな会話もないままに私たちは車を降り、彼の先導でエレベータを上がりマンションの一室へと入る。キープハウスのひとつだろうか。その部屋は清潔に保たれているが、生活感はない。
「れーさん?」
彼はすぐにエアコンをつけ、それから私にタオルを差し出した。
「体調は」
「え?…特に、普通ですけど」
「目眩や吐き気は」
「ないです」
受け取ったタオルで、汗を拭きながら答える。そこでもしかしたらと気付く。熱中症でも疑われているんだろう。しかし、そんなにぼんやりとしていただろうか。確かに、汗はひどいけれど。
彼は私の言葉に、安堵したように息を吐いた。
「れーさん、心配性ですね」
「ああ、あー、いや、それももちろんあるんだが」
彼には珍しく、歯切れが悪い。小首を傾げて彼を見ていると、諦めたように視線をそらしてから、また私を見つめる。指先が、私の汗濡れた髪を耳にかけた。
「水の垂れるようないい女、という表現がある」
部屋はゆっくりとエアコンによって涼しくなってきた。にもかかわらず、私たちは熱に浮かされたように見つめ合う。
「すまない、その、」
彼は少し考えて、言葉を選んでいるようだけれど、なかなか正解を見つけられないようだった。私はその様子に、驚き、戸惑い、落ち着いてきた体温がまた上がるのを感じている。
「君を人目に晒しておくことに、抵抗を、覚えて」
彼は顔を隠すように覆う。まさかそんなことを彼が思うとは思えないながら、その様子と言葉を察せないほど私は鈍くはなかった。
「れーさん、あの、私も」
思っていたのだ。ああ、この人はこんな色っぽい姿を見せて出歩いているのか、なんてことを。
「水も滴るいい男、だなと、思ったりなんかして、ですね」
彼は瞬きをして、きゅっと唇を閉じた。私はそろそろと、少し迷いながら彼のしたように、肌に張り付くその金色の髪を耳にかけるように避けた。その手を彼の手が掴む。
「誘っているのか?」
「へ?」
そのまま手を引かれ、彼の腕が私の体を捕まえた。人の熱に包まれる。
「え、や、あの、汗かいてますし、れいさ、」
肩に熱い吐息がかかったけれど、迷ったように行き場を失った唇は閉じられて、私たちはしばらくそのまま、欲情に耐えるように動けなかった。



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