つまらない。つまらないつまらないつまらない。つまるつまらないで務まる仕事ではないことはわかっている。しかし長年暗闇の世界いると、もう闇の怖さも体に馴染んでしまった。相変わらずどんなに目を凝らしても目の前は暗闇で、だけど目が開いているのか閉じているのかくらいはちゃんとわかるくらいに自分はいた。どこにターゲットがいるのか、どこから狙われているのか、見えなくても耳を澄ませばわかる。なんて、まるで少年誌で繰り広げられる修行の末の技、みたいに言ってみるけど全然面白くない。
波風が立たないことはよいことだ。世間で言う平穏とは程遠いけれど、私たちのような組織にとってもコトが荒立つということは命取りになる。なったとて、大事にならぬように立ち回るのも私たちの腕の見せ所だけれど、そう頻繁にあったら命がいくつあっても足らない。私たちは慎重だ。そう慎重に、じっくりと、慣れてしまった。盗むこと騙すこと殺すこと。
ガラスに覆われたビルの巨大なモニターでは、どのぞの国のいかめしい面をした男の顔写真とともに訃報が伝えられている。ああ、あれ、ジンって先週まで、行ってたよなあ。私は置いてけぼりだった。っていうかあの日時、そっか、私、デートをしていた。
相手は、ここ数年で密やかにのし上がったIT企業の取締役だ。あれはなかなか良かった。久しぶりに面白い男だと思った。技術はもちろん、教養があり、度胸があり、志があった。あれはきっと使える。ただ、扱いを間違えれば痛手を負うのはこちらだろう。ハニートラップなんて甘い響きで負うにはなかなか刺激的な任務だ。
早々に黄色い歌声がモニターから流れ出す頃には街の喧騒にまぎれ、摩天楼の片隅に佇む雨蛙を見つける。あの男はあのナリにこの車で潜む気はあるんだろうかといつも思う。それとも、私がただ見つけてしまうだけだろうか。必要以上に。暗闇の中でさえも。
「あら、ウォッカいないの」
「別件だ」
珍しく、ジンはひとりだった。そして相変わらず、車の中はいがいがとした煙のにおい。いつもウォッカが狭っこく座る助手席に体を滑り込ませた。この席に座れることは少ない。鼻筋のハイライトの曲線と、なかなかこちらを見ない深い翠、ハンドルを掴む無骨な指と肩から滑り落ちる銀の糸。
「何だ」
「別に。出して」
言われなくともという様子で車が動き出した。憎らしいくらいにこの男は、昔も今も美しい。いつでも私を退屈から救うのはこの男だったし、そもそも私はこの男を見ているだけでも楽しかった。慣れとは恐ろしいのだ。もはや見るだけでは、思うだけでは足らないのに、だけどジンはそうそう構ってはくれない。焦らされるのは好きじゃない。
「首尾は」
「上々。と言いたいところだけど、なかなか気が抜けなさそう」
「ぬかるなよ」
「わかってる。でも久々に面白そうよ。話の通じる男、久々」
ふふ、と笑みが漏れる。今日はデートではなく、秘書としての仕事だった。それから、軽くお茶だけ。プライベートなパートナーに選ばれるためには、仕事のパートナーとして認められなければならない。そういう意図を感じて、それに乗る。説明的な言葉選びをしなくても、意図を拾ってくれる会話は楽でいい。知識がきちんと返ってくるのは心地よい。そして、扱いにくいうえ、踏み込ませない絶妙な距離を保っているその危うさが、どこか誰かさんを連想させる。
「どこまで踏み込めるか楽しみ。駆け引きって、本気になるほど本気になっちゃいそうで好き。顔もね、なかなかいいの」
「テメェの好みなんざ知るか」
「あなたが知らなくたって、別に構わないもの。小さな楽しみを見つけるのが大切なのよ、退屈なんだもの、だってジンは今日だって本当に私の迎えだけして、さっさと下ろして、ひとりで帰るのよ」
つまらない、なんてつまらない。ジンにとって私が些細な存在だなんてことはわかっているし、その上でやっぱり彼を欲しいけれど、突き放しもしないで無関心だなんてつまらない。どうしたって私が自分から離れないと思っているんだろうか、いいえ、離れたって構わないと思っているんだろうか。なんて不毛なんだろう。やめちゃおっかな。
「ハ。ガキみてぇに」
「そのガキと寝てイったのはどこの男」
「テメェなァ」
「待って」
眉尻がぎゅんと上がった顔にそっぽを向いて、小さく震える電話に出た。ハニトラの師匠、ベルモットだ。簡単な労いの言葉とともに、遠回しな評価が下った。手強そうじゃない、とからかうように笑う彼女は私と同じようにゲームを楽しんでいる。
「でしょう?ねえ、使い捨てるには惜しい気がするの、もちろん彼次第だけど、結構本気。遊ぶのも楽しいけど、入れ込んでみようかしら」
くすくすと笑い合うけれど、ベルはにんまりと弧を描く唇が見えるような笑みを含んで、そんなのご主人様が許すのかしら、なんて煽った。なあにそれ誰のこと、なんてわかっているくせに鼻で笑い返す。首輪すらつけてくれないご主人様なんて。
「関係な」
「遊びでいい」
「い、…って、なに…っ」
言い終わる前に、携帯を奪われ勝手に通話を切られてしまった。何するの、とジンを見ると冷たい冷たい視線が私を貫く。なに、それ。ずるい。
車が動きを止める。私の家でもない、ジン部屋でもない、セーフハウス。ジンはふっと視線を外して先に下りると、こちら側へと回って助手席のドアを開け、私の腕を掴んで乱雑に引きずり出した。痛い、と訴えても目もくれない。何、そんなに、怒っているの。危機感のない態度が気に入らない?それとも嫉妬でもしているの?そんなことある?
部屋に入ると靴も脱がないでそのままベッドへと放られる。なあにガキ扱いしておいてまた私を抱くの?頭では平静に文句をつけるけれど、声は出ないし心臓はどくどくと鳴る。怖い。それと同時に、嬉しさが湧き上がる。ジンのこの眼が好き、支配されて張り詰めたこの空気が好き、美しい鬼のような男。その感情が私に向かっている。
「テメェがどこで誰とどう遊ぼうが知ったこっちゃねえ」
長い白銀の睫毛に縁取られた氷点下の視線が私の瞳に刺さって、動けない。
「だが忘れるな」
そっと頬に指先が触れる。優しくなんて全然ない。押し付けるように肌を滑った親指が、乱暴に唇を撫でた。
「お前は俺の女だ」





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