さよならの前に覚えておきたい、なんて事を本人には言えないまま、私は今まで以上に彼を誘い出す。トロピカルランドに行きたい、水族館もいいな、キャンプに行こう、夏祭りには浴衣だよね、たまにはお家でゆっくりしよう。
彼の時間を奪うようにあれこれと提案しては、彼は面倒臭そうに煙草をふかしながら、仕方ねえなと笑って付き合ってくれた。素直じゃないだけで、とても優しい人だと私は知っている。

「警察学校はどう?」
「ま、ボチボチ。面白ぇやつはいる」
「大事にするんだよ。あんたなんかに付き合ってくれる友達なんて珍しいんだから」
「るせぇ」
私の頭を彼はぐりぐりと乱暴に撫でる。
「おめぇみたいな物好きだけで十分だよ」
フン、と楽しそうに鼻で笑った彼に私は笑い返した。まるで特別扱いみたいなそういう言葉を向けられることに、素直に喜べたらどんなに良かっただろう。頭の片隅に確かに残るこの世界の物語を、まだ私はうまく受け止められずにいた。
それが書き換えられない物語なのだと確信したのは、彼と二人、殉職した友人の葬儀に参列した時だ。彼の警察学校での同期であり、配属先での同僚だった。プライベートでも親しくしていたし、私も何度も一緒に遊んだ。浮気しないように俺がちゃあんと見張っとくからな、なんて笑って、俺とこいつがいりゃあ爆弾犯の好きにゃさせないよ、と自信を見せていたのを覚えている。二人が戯れているのを見るのが好きだった。彼は今、棺に閉じ込められて、爆発に巻き込まれて爛れた顔を見せられもせず眠っている。
静かに復讐を誓う彼の鋭い眼差しを見た。震える彼の拳に気付きながらも、その横顔を見つめていることしか出来なかった。こうなることがわかっていたなんていうことは出来ず、こうなることがわかっていながら何もできなかった私に、彼にかけられる言葉は一つもなかった。

「くそ、」
ガン、と彼はテーブルを殴りつけた。彼の葬儀の直後に提出した転属希望は却下され、捜査一課への配属が決まったと言う。納得がいかない、これじゃ爆弾事件を追えない、と彼は声を荒げた。
「陣平、」
「何でだよ!」
私は打ち付けたその拳に手を伸ばす。
「陣平、聞いて」
「ンだよ、!」
勢いに任せて払った手の指先が、私の頬を掠めた。彼は、ハッとした顔をして、悪い、と私の頬を撫でた。ピリピリとした痛みが頬に走る。
「大丈夫だから」
私は彼の手に自分の手を重ねた。これくらいの痛みは、彼の心に残る傷に比べたら何でもない。
「陣平が、やるべきことなら、どこにいたってチャンスはやってくるよ」
だから、もう少しの辛抱だから。あなたはちゃんと、思いを遂げられるから。
「お前に慰められてちゃ世話ねぇな」
彼は赤く腫れた私の頬に唇を落とし、そのまま強くその腕で抱きしめた。私は彼が思いを遂げるその日まで、彼を側で支えることを心に決めた。さよならの日まで、柔らかな癖毛の髪も、サングラスの隙間から覗く視線も、私を掴むその手も、撫でる指先も、名前を呼ぶ声も、寝起きの不機嫌な顔も、夜の意地悪な笑みも、重ねた肌の温かさも、全部全部、ひとつも取りこぼさないように、日々を重ねる。
彼はつまらなさそうに新たな配属先で仕事をこなしながら、それでも日が経つにつれ愚痴が減り、面倒くさい上司がいると楽しそうに言うようになった。私の知る物語を辿りながらぼんやりと、彼の気持ちが揺らぐんじゃないかと様子を見ていた。けれど、上司への気持ちはあくまで仕事仲間としての好意であるらしく、私に対する態度に変化はなかった。そして今更になって、私という存在がこの世界に与える影響を、その時初めて考えた。
私の知る物語に、私は本来存在しない。

「ようやくあいつの仇が取れる」
そう、嬉しそうに苦しそうに彼は言った。
「無茶はしないで」
「バーカ。俺がいつ無茶したんだよ」
「いつもだよばか」
フッと彼は笑って、それに私も笑って返した。電話を切ってすぐ、私はソファに座り込んで目を閉じる。考えろ、思い出せ。ようやく私は気付いたのだ。彼の死を回避する方法。なんで今まで気付かなかったんだろう。記憶なんて曖昧じゃない。自分の中に深く潜る。あやふやな書籍のページを必死にめくる。
ボリュームを下げたテレビから、爆破予告のニュースが流れる。十一月七日。萩原くんの命日だ。私は朝のうちに墓参りを済ませ、それからは家でじっと、彼ら警察学校の同期で写る写真を見つめている。きっともう警視庁や現場は大変な騒ぎになっているはずだ。そして彼は爆弾の仕掛けられた場所を突き止める。彼が爆弾を処理出来なかったのは、より大きな被害を出さないためだ。その場所はどこだった?思い出せ、探せ。息を吸って、吐く。
私は立ち上がり、急いで杯戸町のショッピングモールへと急いだ。
「佐藤刑事!」
人だかりを抜け、警察の手を振り払って、私は携帯電話を握りしめて立ちすくむ彼女に縋るように手を伸ばした。
「っあなたは、松田くんの、」
「米花中央病院!」
驚く彼女の言葉を無視して、息を切らせながら、私は叫ぶ。
「急いで!はやく爆弾処理班を向かわせてください」
「どうしてあなたがそんなことを」
「いいからはやく!お願いだから!じゃなきゃ、陣平がっ」
死んでしまう、なんて、口に出来なかった。
彼女は息を飲むと、私の必死の様子を受け止め、他の刑事たちに指示を出してくれた。もう、爆破の時間まで十分を切っている。彼らが爆弾を見つけるのが先か、タイムリミットが先か。或いは、この世界の異変がその答えを変えてしまっている可能性だってある。
お願い、お願いよ、神様がいるのなら、どうかあの人を救って。時計の針だけが、残酷に淡々と時を刻むのを感じながら、私は祈るように両手を合わせ、そっと目を閉じた。



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