その日は朝からずっと雨が降り続いていた。昼休みも外へ出る気にもなれず、勤め先のビルに入っているコンビニで済ませてしまった。一時間だけ残業をして、まだちらほらと残る同僚たちに心ばかりのお菓子を配って回り、それから帰路に着いた。
しとしとと降る雨が街の灯りに照らされて、銀の糸のようで綺麗だ。傘を差して歩き出してしまえば、なかなか風情があって気分が乗った。職場から自宅まで、歩いて一時間弱だ。飽きたらタクシーでも拾おう決め、駅を通り過ぎる。
三十分ほど歩いた頃に、小さな声を聞きつけた。猫だ。声を追って、路地へ入り込む。
マンションの駐車場から、のろのろとずぶ濡れの黒猫が出てきた。足を引きずっている。私はゆっくりと近付いて、掠れた声で懸命に鳴くその子の鼻先に手を伸ばし、匂いを嗅がせる。ざらりとした舌が指先に触れた。大丈夫だな、と判断して、上着を脱いでそっとその子を抱きかかえた。
そのまま大通りでタクシーを拾って帰った。
家に帰ると猫をバスタオルで包みクッションに乗せ、さらにブランケットをかける。
そのまま家を出て、スーパーでキャットフードと猫砂を買い、また自宅へと向かう。ネコトイレは物置にまだあったはず。明日午前休を取って病院に連れて行こう。考えながら、玄関を開けた。
「…」
見慣れない男物の靴がある。さっきは絶対になかった。ビニール袋をがさがさと揺らしながら、リビングへ向かうと、黒服の男がしゃがみこんで猫をマジマジと見ている。
「また変なもの拾ってやがるな」
男はこちらを振り向いて、無表情でそう言った。
「…どうやって入ったんですか」
さすがに驚いた。一年前に拾った男だった。
「さあな」
彼はまた猫を眺めながら、どうでもいいことのように言った。
怪我をして路地で蹲っていたところを連れて帰り、警戒心しかない彼に簡単な手当てをしてどうにか寝付かせたあの日から、一年程経っている。あれから三日ほど滞在した後、彼は忽然と姿を消した。顔を見るのはそれ以来だ。
「今日は怪我なんてしてませんよね?」
私は小皿にお水とキャットフードを用意して、猫の側に置きながら彼の様子を伺う。
「あんなヘマはもうしねえよ」
フン、と鼻を鳴らした。
「元気ならいいです」
ふふ、と笑みが漏れた。口の悪さは相変わらずだけれど、以前ほどの警戒心はないように見受けられたのが嬉しかった。
猫は、タオルから顔を出してキャットフードを食べ始める。よかった、食欲はあるみたいだ。
「飼うのか」
「そうですねえ。首輪もしてないし、痩せてるので野良でしょうし。出て行かない限りは面倒見ますね」
「ハ。俺とこいつは同等か」
小さく笑った。彼は意外と良く笑う。人を小馬鹿にするように、だけれど。
「この子の方が可愛いもんですよ」
「言ってくれるじゃねえか」
私はご飯を食べ終えた猫の頭を撫でながら続ける。
「でも、似てますね。この子、黒猫にしては珍しく瞳が薄い青色なんです。グレーっぽく見えて、あなたに似てる」
猫のお尻側のタオルをめくって、引きずっていた足を確認する。左足が動かないようだ。外傷はない。痛そうなそぶりはあまりないので、骨折ではなく脱臼だろうか。癖になると怖いな。動物病院は何時からだったかな、と思いつつ痛くないよう心掛けながら体を撫でるようにして拭く。
タオル変えないと、と立ち上がろうと顔を上げると、グレーの瞳と視線がかち合った。
「……どうかしました?」
「変なオンナだな」
いつかも聞いた言葉だった。
「あなたに言われたくないです」
目を合わせたままそう言うと、予想外に彼は笑った。手のかかる子供のような印象があったけれど、その笑顔はなかなかずるいほどかっこよくて、驚いた。これだから造形の整った人は苦手だ。
「ご飯、食べますか?これから作るので、ちょっと待ってもらうことになりますけど」
「美味い店がある」
「この子を置いていくわけにはいかないので、外食は却下です」
すっと立ち上がると、彼は無言のまま私を睨んだ。この物言わぬ態度が子供じみていておかしい。
「急いで作るので、今日は私の手料理で我慢してください」
キッチンへ立って支度を始めても彼は無言でこちらを眺めている。何か言いたそうで言わない。怒っているのか、拗ねているのか、彼の表情は読み取りにくい。私も大概そうだから責められないけれど、何か言いたげな視線は居心地が悪かった。
仕方がないので、調理の手を止めて彼の前にしゃがみ込んだ。
「明日の朝、この子を病院に連れて行きます。午後は仕事がありますが、もしあなたにお時間があるなら夜ならいかがでしょうか」
「何時だ」
「……19時には確実に」
「わかった」
いいのか。突然いなくなるような人なので約束の意味があるのかはわからないけれど、了承してもらえたのなら約束として成り立ったんだろう。
「それから」
私はそっと彼のハットに手を伸ばして取り上げた。
「ハットとコートは、室内では脱いで下さい。座るならソファへ」
ハットをハンガーラックの角にひっかけ、ハンガーを手に取り手を差し出すと、ちょっと不服そうにしながらも立ち上がり、コートを脱いだ。差し出されたコートをハンガーにかけて、ラックへかける。長身な上にロングコートだから、高さがギリギリだ。
背後からごとりと音がして振り向くと、携帯やキーの束、腕時計と一緒に拳銃がテーブルに置いてあるのでギョッとした。身軽になった彼はソファに深く腰掛けた。以前同様、拳銃を身につけている可能性があるのはわかっていたが、不用心すぎないだろうか。しかしこれ以上あれこれと文句をつけるのも気が引けたので、あれはただのモデルガンだと思い込むことにして、キッチンへと戻った。
急いで作った野菜炒めと焼き魚、お味噌汁とご飯を前に、私たちはリビングで向かい合っていた。生活感などまったく感じられない彼が、自分の作ったとても大したことのない料理を口にしているのが意外だったし、この異様な状況が面白くもあった。ちなみに、前回は三日間とも手料理は食べてくれなくて、パウチなど包装されたものをさらに過度に確認して食べていた。毒を盛られる可能性があると思われていたんだろうか。
食べ方が綺麗だなあ、なんて思いながら彼を眺める。
「ところで、何しに来たんですか?」
口にしてから、なんだか冷たい言い方だったかな、と不安になったが、彼は口に含んでいた分を飲み込んでから同じくらいの温度で返した。
「特に用はない」
まさか食事に誘いに来たわけじゃないよなあ、とは思いながらも、用もなくなんだか訳ありの人がわざわざ一年越しに来るのも不思議だ。でも、そう言われてしまうと追及しようもない。
「お口に合いますか」
「…悪くない」
市販品は口に合わないとごっそり捨てられていたことを考えると、及第点はもらえたということなんだろう。心の中で小さくガッツポーズをする。しかし、本当にこの人は全面的に素直じゃないな。だから構ってしまうのかもしれないけれど。
「そういえば、お名前伺ってもいいですか?」
手が止まった。
「呼ぶのに不便なので」
「なんでもいい」
「じゃああなたが決めて下さい」
彼はまた手を動かし始める。機嫌を損ねたというよりは、おそらく本当に何でもいいんだろう。返答はない。
「私、ネーミングセンスないので面白い名前とかつけられないんです」
「面白い必要はない」
「どうせ何でもいいなら呼ばれたくなさそうな名前つけたくないですか」
「ない」
そりゃあそうだ。彼はペロリと食事を食べ終えた。悪くないと評したのはなかなか高評価だったのかもしれない。
「ちなみにあの子はクロかギンです」
私は視線で猫を指しながら言う。
「…安直だな」
「あなたはどっちがいいですか?」
「どっちの意味だ」
「どちらかが猫の名前になって、どちらかがあなたの名前になります」
私は最後の一口を食べ終えお茶を一口飲み、彼の分と合わせて食器を重ねる。彼は猫を眺めてから私を睨んだ。それを無視して食器を流しへと運ぶ。無難に生きてきた私には無難な名前しかつけられない。
煙草を取り出す仕草が見えたので、一年前に買ったままの灰皿を彼の前に置く。
「……ジン」
提案は却下されたようだ。それが本名なのか偽名なのか今考えただけなのかはわからない。ただ、もし本当に明日一緒に食事をするのなら、人前で名前を呼ぶのにクロやギンよりはそれらしい。
「じゃあ、この子はギンですね」
「クロじゃないのか」
「だって似てるじゃないですか。ジンと、ギン」
そう笑うと、ジンはやっぱり不服そうに私を睨んで、煙草の煙を吐いた。
(銀の雨降る夜だった)
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