ライブ会場に着いた頃にはすでに開演時間は過ぎていて、重たそうな扉を開けるとドッと音の波が襲った。
人影の向こうで光を浴びているバンドが隙間越しに見えた。このバンドメンバーが、清乃の出演するある映画の音楽を一挙に引き受けている。志保は以前、たまたま清乃と一緒にいる時に彼と顔を合わせたこともあり、清乃に誘われて一緒にお邪魔することにしたのだった。
ステージ照明頼りの二階席は関係者専用にされているようで、いわゆる業界人が多いのだろう。清乃に気付いた面々が、声が音の波に攫われてしまう代わりに目線やジェスチャーで挨拶を交わす。
空いていそうな場所を視線で探すと、こちらへ軽く手を上げる人影があった。清乃はそれに気付いて、ちらりとこちらを見た。その意図を汲み取るよりも先に、清乃はその人影へと向かうことにしたようで、その後ろを追った。
柵にそって並べられたカウンターチェアの、端から二つ目。近付いてみると、その人物には見覚えがあった。メディアで清乃の熱心なファンだと冗談のように公言している人気モデルの一人だ。会話という会話をかわしたことはないが、面識はある。
彼は清乃と頬を寄せていくつか会話すると、その席を立った。その様子を見ていた志保と目が合うと、彼はにこりと笑って清乃の隣、一番端の席を手で示した。清乃も、視線で促す。
志保が席に座ると、丁度曲の切れ目で音が収まった。
「ドリンク取ってくるから」
そう言う清乃にドリンクチケットを渡す。
清乃がドリンクカウンターへと離れている間、チラチラと近くの視線がこちらを窺うのがわかったけれど、全て無視してステージを見下ろした。押しも押されもしない人気俳優である神風清乃の連れ歩く女など、マスメディアじゃなくても興味をそそるものなのだろう。
けれどここにいる面々が主に業界の人間であるからだろうか、思ったほど不躾なものはなく、曲が始まれば関心はステージへと移った。その間に清乃も席へと戻り、会場内を眺める。
ステージは色とりどりのスポットに照らされて、バンドが楽しそうに音楽を鳴らす。ボーカル、ギター、ベースにドラム。確か、曲によってはキーボードも入るはず。
フロアにはぎっしりと、けれど自然と列をなすようにして客が踊っている。そう大きな会場ではないけれど、その分精鋭のファンが集まっている印象だ。二階席のゲストたちも、付き合いで来ているにしては各々体を揺らしステージに釘付けのようだった。
清乃も、そうなのだろうか。様々なジャンルにおいて情報通な清乃だけれど、それは職業柄で本人の興味のもとなのかは疑わしい。詳しかろうと仲良くしていようと、果たして彼らの音楽を清乃が好んでいるかはわからなかった。
チラリ、清乃の横顔を眺める。強い光に照らされて、陰影が強く出る。マスクをしていなければきっと、彫刻のように思うだろう。少し目を伏して、控えめながら曲に合わせて揺れている。いつも通りざっくりと結った髪が、それに合わせて揺れる。
ん? と、視線で振り向いた清乃が尋ねるのに、ふるふると首を振った。なんでもないわ。唇も動かさないのに、清乃はそう、とでも言うように小さく笑った。なんだか、機嫌が良さそうだ。もしかすると、本当にこのバンドを好きなのかもしれない。

そのまま何曲か終えると、がばりと清乃の背後から人が覆い被さった。勢いで清乃が柵に手をつく。思わず目を見開いて振り向いた先には、ステージからのおこぼれ照明でも映える白髪。
「ーー!」
何を言っているかはやっぱり聞こえない。けれど、彼は楽しそうに清乃の耳元で話す。彼も人気モデルの一人で、清乃に席を譲った彼と共に行動することが多く、二人揃って清乃大好きキャラを貫いている。そんな彼に、清乃はいっそ役者としてどうなのかと思うほど表情を変えずに答えている。と、思っていると、僅かに目を細めた。それはほんの小さな驚きと呆れ。それから一瞬の思案をして、視線。
清乃は白髪の彼を引き剥がして、唇の動きで待てをした。彼は拗ねたような顔をして、けれど意外にもちゃんと待っている。長身でスタイルの良い男性が子供のように拗ねて見せる様子が愛嬌を感じさせた。
清乃は素早くスマホで誰かにメッセージを打っていて、そうしている間に席を譲ってくれた彼が現れた。清乃は立ち上がって彼と二言三言、言葉を交わしてから、こちらへと寄った。
指が、志保の髪を掬って、爪先が耳の形をなぞる。唇が触れんばかりの距離で、淡々とした声が触れた。
「傑、覚えてる?」
「ええ」
「ニ、三曲分離れる」
「…ご自由に」
志保はわずかに身を引いたけれど、動揺も見せずに返した。この場を離れることやその理由に関心はなかったし、清乃の距離感などもう慣れたものだった。公私に渡って清乃を巻き込みたがる彼らがここにいるのだから、こんなこともあるだろう。特に気にせず視線を向けると、驚いた顔をしたモデル二人と目が合った。けれど、清乃がスタスタとその場を離れていくのに気付いてすぐに表情が変わる。白髪の彼は清乃を追いかけ、傑はおそらく「悪いね」なんて言って、志保の隣、清乃が座っていた席に腰掛けた。

丁度、曲の合間。
「清乃くんがこんなところにまで連れて来るなんて、本当に大事にされてるんだね」
いつか、清乃が彼らと共演した舞台の終演後に楽屋へ通された時が彼らとの初対面だった。そしてその時、透かさずからかおうとした彼らを止めるために盾にしたのが「一般人」ということと「俺が大事にしてる」ことだった。
この場に連れて来ることで大切にされていると解釈する理由が理解できなかったけれど、それを尋ねる気になるより、他の言葉を返すより先に、キィンと鳴ったハウリングの音に、ついステージへと視線が動いた。
「ほら。ほら、もう腹括んなよ。このままじゃ事故ンなっちゃうじゃん?」
ゴトゴトとマイク越しにノイズが入った後、にやついた声が会場に響いた。
「もう事故でしょ。完全にあんたが加害者だよ、悟くん」
続いた声は清乃だ。そして、悟くんと呼ばれたのはあの白髪のモデルで、その名が呼ばれた途端に会場が騒ついた。ステージではバンドメンバーが白々しく驚いたふりをしながら笑っている。
「はは、清乃にとっては事故かもね? でも残念、ちゃんと狙ってた!計画的犯行だよ」
「計画的ね。で? 計画では俺を殺せそう?」
声だけが続く。清乃の名に、今度はあちらこちらで叫び声すら上がる。
ひょっと、ステージの脇から長身痩躯の白髪男が飛び出した。瞬く間に割れんばかりの歓声と拍手が溢れる。
「お邪魔しまーす」なんて言いながら、マイクを通さずにバンドメンバーと軽く挨拶を交わしてから、自分が出てきた方を見てにやりと笑う。
「計画、お披露目してあげるから、まあまずおいでよ」
ズギャン、とギターが鳴らされて、それに続いてベースとドラムも加わった。観客は手拍子の歓迎ムードだ。ボーカルも手拍子をしながら、そわそわとステージ脇を窺っている。
少しの間を持たせて、清乃が現れた。嫌がる口振りを聞かせていた割には、堂々とした入場だ。そこが舞台上であることを感じさせない態度ではあったけれど、そこが事実舞台上である限りあの男は見えない仮面を付けていることを志保は知っている。
音楽はリズムを早め、手拍子も拍手へと変わっていく。盛り上がりをわかりやすくジャンッとまとめたバンドよりもこの時間は主役として求められていることを理解している清乃は、観客の手拍子を自らが指揮して三拍子で終わらせた。くすくすと会場に笑い声が漏れる。
ステージに飛び入り参加した悟と清乃は、どちらもバンドが音楽を手掛ける映画の出演者で、そしてその映画では彼らの曲を清乃が歌うシーンがある。本番では演奏は配役メンバーが弾くけれど、折角メンツが揃っているんだから本人生演奏で披露してはどうだろうか、という拒否権のない提案が悟の言う計画だそうだ。
悟と清乃は掛け合いで、映画の簡単なあらすじと自分達の演じる役の紹介をしてさらりと宣伝する。
「ど? 清乃は小細工よりも大雑把な計画の方が逃げらんないでしょ」
「別に逃げないよ」
「嘘は良くないなあ。僕らがどんなけ逃げられてるかチャンネル見てくれてるみんなは知ってるよねえ?」
「そこは俺の舞台じゃないからね」
「ここも清乃の舞台じゃないじゃん」
「うん? まだね。だからちょっと待って」
清乃はそう言って、上着を脱ぎスタッフに渡したり、ざっくりながら髪を結い直したりと自由に動く。バンドと悟がその様子をからかうのを眺めながら、志保は口を開いた。
「あの清乃が舞台へ上がるのに、一瞬でも躊躇させたあなたたちの方がよほど意識されてるんじゃない?」
今日、清乃は本当にオフの日だった。でなければ志保に知らせずに連れて来ることはないはずだ。かと言って、突然のオファーでも清乃は断ることをしない。舞台に立てる機会を彼が拒むことは滅多にないだろう。それでも清乃は悟に誘われた時、一瞬でも迷ったのはさまざまな非常識で清乃を構い続ける彼らからの提案だったからだろう。
志保の言葉を聞いて、彼は可笑そうに笑った。何がそれほど、と思いながらそれを尋ねる気もしなかった。
「悟くんもさ、歌えるよね」
「歌えるけど、いいの? お前に関しては若者を立てるとかしないよ?」
雑談の続きのように清乃が誘って、試すように悟が乗った。
「ーははッ」
高く短く笑う。ぞわり、と、その笑い声に鳥肌が立ったのはステージ上の人間だけではないだろう。一瞬だ。もう、その男の仮面は神風清乃ではない。
彼はスタンドマイクに口を寄せる。
「返り討ちにしてやるよ」
低く交戦的な声が響いた。その瞳にはぎらりと光が差して、悟を射抜いている。たまんないね、と悟が呟いたのはきっと誰にも聞こえていない。
ここからが、清乃の舞台だ。

二、三曲分と言った通り、清乃は茶番に加え二曲しっかり歌い終えてステージを降り、二階席に戻ってきた。さっきまでステージで歌っていたとは思えないほど、いつもの清乃だ。
「君ほんとに人間?」
再び席を代わりながら、傑が笑った。清乃は小首を傾げて見せてから、人差し指を唇に当てて、目を細めてにこりと微笑んだ。パッと、ステージのライトが偶然清乃を照らす。
底で燃えたぎるような熱さを見せたステージとは違う、妖しくどこか冷ややかな美しい笑み。
「えっっろ!てかずっる!!僕にもやって!!」
その笑みについ見惚れた周囲を割って声が飛んだ。今にも抱きかんばかりの悟を制して傑に引き渡すと、清乃はステージに向き直った。
「客が捌ける前に出るか、客が出切るの待つ?」
音が小さくなるタイミングで耳を打つ。
「どちらでも」
「じゃあ早めに出よう」
「挨拶、していかなくていいの」
「もうしてきたからいいよ」
はじめからそのつもりだったのなら、聞かなければいいのに。そう思ったけれど、清乃はいつだってそうだ。自分だけの問題でない場合、勝手に決めたりはしない。
誰にでも、そうなのだろうか。友人に見せる顔は、二人だけの時に見せることのない顔だけれど、志保の前で隠すわけでもない。自分の前でして見せる顔も、誰に隠すわけでもないのだろうか。
何者にでもなれる男の、本当の顔はきっと誰も知らない。どれが演技で、どれが仮面で、どれが清乃なのか。彼らのようにどれだけ熱心に彼を好いても、こうして肩が触れるほど近くにいて、何年も彼を見ていても、そうするほどにわからなくなっていく気がする。
「なんか食べて帰る?」
「そうね」
アンコールの曲が流れる中、客席を出た。ロビーで客の出を待つスタッフへの挨拶は視線だけで済ませるようだ。志保の歩幅に合わせて歩く清乃は、何も言わずに隣を歩く。
大音量に慣れた耳には、会場の外はやけに静かに思えた。






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