夏が始まる。
梅雨明けを知らせるニュースが聞こえ、湿気を残したまま陽射しの威力が増す。完全に衣替えを終えて、夏祭りの話題もちらほらと聞こえ始めた。
薄着じゃないと耐えられないのに、うっすらと汗をかいた体にスーパーの冷房は寒過ぎて辛い。夏野菜の彩りに目を奪われて、つい手を伸ばす。
ガツ、とカゴがぶつかった。
「ああ、すみません」
「あ、いえー、こちらこそ」
相手は背の高い男性だった。昼間から買い物カゴを持つ男性が珍しくて、遠ざかる背中を眺める。ひとりのようだった。学生というほど若くはなく、しかし所帯を持っているようにも見えなかった。自分だって社会人のくせに平日休みで買い物に来ているのだから、似たようなものだろう、と買い物を再開した。
会計を済ませて、カゴから袋へと食材を移す。隣に立つ人がさっきの男性だと気付くと同時に、彼が籠を返却するために台を離れた瞬間に、置かれたままの口の閉じていない袋が、台からはみ出た部分からこぼれ落ちそうになっているのに気付いて咄嗟に手を伸ばした。
ガサッと落ちそうになったところになんとか間に合ったものの、開いた袋の口からいくつか野菜がこぼれ落ちる。
「ああっ」
ひとり声を上げて、慌てて袋を台に乗せ直して、しゃがみ込み、野菜を拾い上げる。
「ああ、先程に続いて、すみません」
「いえ、でも野菜が」
「それくらい構いませんよ」
床に落ちた部分が潰れて柔らかくなってしまった茄子を私の手から受け取り、彼は無造作に袋へと戻した。チラリと見ると、なんとも意図の見えない入れ方をしている。
「あの、失礼ですが、もしよければ袋に入れ直しても…?」
「え?」
「入れる順番が、その、気になって」
重さも柔らかさも形状も気にしていないであろう袋の中身が気になって、不思議そうに首を傾げながらもどうぞと言った言葉に甘えて、彼の荷物を袋詰めし直した。彼はホウ、と感心したように眺めて、ありがとうございますと微笑んだ。几帳面そうな容姿とその不器用さが面白い人だった。
その後、私は彼と肩を並べて帰り道を歩いている。
「すみません、夏野菜が出てきてて浮かれて買いすぎちゃって」
「いえいえ。通り道ですし、僕はこれだけでふから」
片手でも余裕で持てる量の食材の入ったビニール袋を持ち上げた。袋詰めをし終えたとき、やたらと多い私の荷物を見兼ねて荷物持ちを買って出てくれたのだ。
沖矢昴さん。彼は東都大学の大学院生だという。使っていない知人の家を借りて住んでいるそうだ。東都大出でこのルックス、この物腰なら随分とモテそうだ。ご近所付き合いもいいようで、今時珍しい人だなと思う。
「二丁目でご近所付き合いって楽しそうですね」
「どうしてですか?」
「ほら、ミステリー作家の工藤先生のお宅もあるし、お隣の阿笠さんは発明品をご近所の方に提供しているみたいですし」
「ああ、阿笠博士とは僕も親しくして頂いていますよ。それを言うなら五丁目も毛利探偵事務所がありますね」
「そうですね。たまに探偵事務所の下の喫茶店に行くんですけど、時々お見かけしますよ」
何でもない会話をしながら歩く。口数が多いわけでも少ないわけでもなく、独特ではあるけれど突出しない話し方をする。何だかどこかで、そんな話し方を聞いたことがあるような気がするけれど、思い出せない。
車が何台か通り、それを避けて私は彼の前を歩く。
「下がって下さい」
「えっ?」
ぼんやりしていたところに声をかけられ、咄嗟に反応出来ずに止まれずに足を踏み出すと同時に、冷たいものが上から降った。
「わっ」
パシャシャっと音を立てて水が道路に降るのを見た。私の髪や肩から水滴が滴り落ちる。服がぺたりと肌にはりつく。
「えええ、なぜ…」
快晴の空を見上げる。側のお宅が賑やかで、水の音が聞こえる。子供たちが水遊びでもしているのだろうか。塀と木々で様子は見えない。
「大丈夫ですか?」
「あっ来ちゃダメです!」
僕がもっと早く声をかけていれば、と言いながら駆け寄る昴さんの頭上で、キラキラと光が反射したと思ったら、もれなく私と共に昴さんも水を滴らせることとなった。二人して呆然とお互いの顔を見合う。
「…参りましたね」
「…ふふふ、本当ですね?」
買い物袋を大量にぶら下げた大の大人が二人、こんな晴天の下でずぶ濡れになっているのが可笑しくて、つい笑った。彼はそんな私を見て驚いているようだった。
「ふふ、すみません。家、もうすぐなので、寄って行ってください」
濡れて頬に張り付いた髪を避けて、私はまた歩き出す。彼は少し迷ってから、ではお言葉に甘えて、とまた歩みを進めた。その笑みがなにかを企むようなものだったなんて事には、私は気付かない。
今朝勢いで掃除しておいて良かった、と玄関まで来てから噛み締める。洗濯物も、見られて困るものは寝室に干してあるから大丈夫、と頭の中で部屋の状態を点検しながら鍵を開けた。
「どうぞ」
先に入り、スリッパを出す。お邪魔します、と彼はさりげなく様子を伺いながら中へ入った。リビングに案内し、私はバスタオルを脱衣所から持ってきて彼へと差し出す。
「先に着替えてきてください、風邪を引きますよ」
「大丈夫ですよ、乾いてきてますし少しくらい…」
「駄目です。そんな姿で」
そっと彼の指が私の頬に触れた。
「出会って間もない男の前にいて、何をされても」
そっと耳元で囁く。
「言い訳できませんよ?」
低い声が、吐息が耳にかかる。突然のことに動転して、咄嗟に体を離した。ばっと彼を見ると、首を傾げてこちらを見ている。
「おや、顔が赤いですよ。本格的に風邪を引かないうちに」
「は、い。すみません、じゃあ、少し、お待たせしますね、?」
ええ、お構いなく、とにこりと微笑んだ。なんて人だ。この人は間違いなくモテる、というか、女に慣れている。恐ろしい人を家に上げてしまったのかもしれない。
私はバタバタと寝室へと駆け込み、さっさと服を着替えた。耳元を押さえる。その手は、首筋に降り、肩へ移し、ぎゅっと自分の肩を掴む。もう痣も傷も残っていないけれど、緩やかな痛みを思い出す。凍えるような寒さと、熱い体温、雨の音と滴る雫。
「あの、ご迷惑でなければ、これを」
私はリビングへ戻り、彼と少し距離を取りながらテーブルにそれを置いた。男物のサマーニットだ。
「これは?」
「ええと、私以前首元を怪我して、夏物のハイネックをいくつか買ったんですけど、思いの外気に入って買い漁ったら間違えてメンズサイズ買っちゃって」
「そうなんですか」
「昴さん、夏なのにハイネックだから、似たような理由があるか拘りがあるのかと思って、その、濡れたまま帰すのも忍びないので」
彼は服を広げると、少し考えてから、ではありがたくお借りします、と脱衣所へ向かった。もうさっきのような妖しい雰囲気はない。私はほっとして、彼の着替えている間に買い物袋から食材を取り出し冷蔵庫にしまい、それからお茶を二人分注いだ。お茶くらいご馳走しても不用意ではない、よね、と自問自答する。妙なことに巻き込まれるのはもう懲り懲りだが、親切にしてもらっておいて冷たく帰すのも後味が悪い。
昴さんが着替え終えてリビングへ戻ってくると、私たちはテーブルに向かい合って少しお茶をすることにした。
「先程言っていた、首元の怪我、というのは?」
「去年の春先に、海外旅行に行ったんです。その時、事故に巻き込まれて」
大惨事で現場の様子はよくわからないまま、偶然向こうの警察に助けられてたので、大事はなかったのだとざっくりと説明する。私を救ってくれたのはFBIだったけれど、その事故が事件であったことも、私が見た色々なことも口止めされていたし、私を救った彼と救助を待つ間のことは、私はFBIの事情聴取ですら口にしていない。
救助を待つ間、ほとんど裸で抱き合っていたことや、首筋を噛まれ口付けを交わしたなど、他人に言えるわけがない。
「…その時、全身に打撲とか擦り傷をして、首回りのそれがなかなか治らなくて、」
「へぇ。首元を打つなんて、ひどい事故だったんですね」
「え、ええ、そう、ですね」
不自然だと言いたいんだろう。私はこれ以上突っ込まれたらどうしようかと思いながらドキドキしていた。
「でも、よかったですね。ずっと残ってしまうような傷にならなくて」
「はい、」
にこりと笑った彼に、私はうまく頷けなくて自分でも驚いた。消えてしまった傷跡を、惜しんでいるとでも言うんだろうか、私。
似ているのだ。どことなく。目の前の彼が、あの時の彼に。見た目も、雰囲気も違うのに、どうしてか。
無理やり共通点を探しても、精々背丈が一緒かなと思うくらい。それから、あの日以前に街であった時の、彼曰く目立たず悪意を持たれにくいという話し方が、似ている気がするのだ。どちらも曖昧で、だからこそ気にかかる。
「…長居をしてしまいましたね。僕は、そろそろ」
「引き止めてしまってすみませ、わっ」
先に席を立った昴さんを見送るために、遅れて席を立とうとして、椅子に足を引っ掛ける。テーブル側に倒れればすぐに手をつけるのに、そううまく体重移動なんてできないで床へダイブする、はずが。
「おっと、」
昴さんの腕の中へダイブしていた。
「す、すみませんっ」
ばっと体を離そうと彼の胸を押すが、ビクともしない。どういうことだ。彼は私を抱き留めたまま離さない。
「す、昴さ…っ」
すっと彼の指が私の首筋をなぞった。ぞわぞわと、くすぐったいような、もどかしいものが体を走る。
「水滴が付いていたもので」
なんの理由にもならないことを、当然のように言って彼は腕を緩めた。
「心にはしっかり、残っているようですね」
彼はフッと笑って体を離し、自分の分のビニール袋を持ち上げる。
その顔を見て、思い出す。あの時も彼は、そう笑っていた。
「…あかいさん、?」
ぽつりと、口にしていた。あの日私を救った、あの時のことを別の意味で忘れられない日にした、彼の名前。
昴さんは、ゆっくりとこちらを振り向く。
「何か言いましたか?」
「……いえ、何でもないです」
そんなはずはない。彼はFBIと言ったし、私が狙われたかもしれないという疑いもあの後晴れたはず。彼がここにいる理由はないし、どことなく似ている気がするだけで、昴さんは彼とは別人じゃないか。見た目も、声も、名前も。
「そうだ、連絡先を教えて頂いても?」
「え、」
玄関先で振り向いて、彼は携帯を取り出した。家にまで上げておいてなんだけれど、連絡先の交換というのを最近仕事以外でなかなかする事がなく戸惑う。
「服、洗ってお返しします」
「もらっちゃって下さい、私は着ませんし」
捨てられもせず余っていたものだ。わざわざ手間を掛けさせるようなものじゃない。
彼は少し眉を下げて私を見る。
「困りました。それじゃあ会う口実がなくなってしまいます」
「へ?」
何てことを平然というのが、この人は。
私が返す言葉に迷っていると、彼は靴箱の上に宅配のサイン用に置いてあるボールペンを見つけ、自分の手帳の一ページを破いてさらさらと何かをメモした。
「では、また荷物持ちが必要になった時にでも連絡を下さい」
そう、ペンと一緒にその紙を靴箱の上に置いた。そこには彼のであろう番号とアドレスが記されている。
「もしくは、その痛みを思い出したくなったら」
そう彼は、ハイネックの首元を指先で示して、またあの顔でフッと笑って、それでは、と玄関から出て行った。
ゆっくりとドアが閉まるのを見て、それから彼の置いて行ったメモを手に取る。
嘘。まさか。まさか、ね?
私は混乱する頭で、自分の憶測を否定しながら、随分とそこに立ち尽くしていた。
謎は、謎のままがいい。
(滴り記憶にのこる痕のこと)
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