目が眩むほどの照明と、声も聞こえないほどの音楽が絶え間ないフロアから、扉の向こうへ逃れる。防音の分厚い扉がそこで音を遮っているのがよくわかるほど通路は静かだ。それとも、大音量に耐えられずに聴覚が麻痺しているのかもしれない。
「うるさいとこから静かなとこ移ると、夏の夜の遠い祭囃子とか思い出さない?」
振り返らず独り言のように言われて、ああと簡単に肯定した。その感覚は理解できたけれど、遠い祭囃子なんて記憶が彼にあるのかと思うと不思議に思えた。
個室につながる通路は、防ぎ切れない祭囃子と同じ程度のボリュームでクラシックが流れている。耳にしたことがあるような、ないような曲だ。残念ながら俺には曲名も作曲者もわからない。
個室は通路の手前と奥の二部屋。前を行く神風清乃は迷わず手前の部屋の扉を開け、小さく振り返って促した。ピンクを用いるというドレスコードに沿って、膝が隠れるほどのシャツとジャケット、それからシューズをパステルピンクで揃えている。マスクとパンツの黒で淡さとバランスを取っている、のだと思う。似たような服を雑誌で見かけたような気がする。お値段がちっとも可愛くなくて驚いたやつ。
「監視カメラは映像のみ。大した画質じゃない。音声録音は盗聴含めてないことを確認済みだからご安心を」
そのままファッションショーに出られそうな神風は、その整った顔立ちでお手本のように笑った。
慣れた様子で備え付けのラックからカップを取り出し、カプセル式のコーヒーメーカーでコーヒーを淹れる。
「ここはよく使うのか?」
「そうだね。バーイベだと定番の会場だし、人が集まる時ってノリでそのまま企画出ることあるから使って不審なこともないよ」
同年代の同業者の中で、神風は遊びの少ない男らしい。誘われればなるべく顔を出すようにはしているとは言うが、そもそもスケジュールに空きがない。出演舞台の稽古や公演、収録作品の撮影に加え、協力者としての働きを含めたら当然だ。どうして成り立っているのか、俺でもわからない。さらにその忙しさを、全くと言っていいほど顔に出すことがないから、尚更底が知れない。
「で、例のパーティーの同伴だけど、入る手立て以上のご依頼とか?」
かちゃりとカップとソーサーのセットでテーブルにコーヒーを置くと、早速本題に入った。雑談を多く交わす相手ではないがあまりにドライな対応もし難く、本人から切り出されるのはありがたかった。
「冴島レイカという名に聞き覚えは」
「大手企業の大奥様だね。綺麗な人だよ、容姿も遊び方も」
冴島家の外聞と会社の簡単な評価、それから冴島レイカ本人の出自や冴島家との関係など、スラスラと基本情報を口にする神風をつい凝視する。彼はどことなく上品な仕草で、コーヒーを飲んでいる。
「もしかして、知り合いか…?」
「面識はあるね。…といういう方をすると叱られそうだけど。友人と言っていいか」
どういう交友関係をお持ちで。特殊な経歴の持ち主とはわかっているが、それだけではない。この流れで彼女の名が出たことすら予想の範囲内という態度だ。
冴島は国外にいることが多いが、ある高級レストランの周年パーティに出席する可能性が高いことがわかっている。その完全招待制のパーティに神風は招待されている。
「ちなみに、その友人関係をこれを機に深めるっていうのは」
「まだ未発表だけど撮影決まってるから、スケジュールがねえ。俺の中ではいけるけど、大目玉くらいそうかなあ」
のんびりと言う様子は、全く困っているようには見えない。それに、と神風は続けた。
「俺は彼女のタイプじゃないんだよね。だから深めようにも時間がかかる。だったら、あなたが行ったほうが断然早い。彼女、見た目からして真面目そうな男性に弱いから」
真面目そう、だろうか。いや、真面目じゃなければこんな仕事をしちゃいないのだろうし、自覚もままあるのだけれど。見た目からして、とは。彼からすれば褒めるだの貶すだのという意図がないのはわかってはいる。
いや、今回の目的の手段として好条件となるのならば、彼の評価などはどうだっていい。元々自分が潜入するつもりだったのだ。
それから彼の知る冴島レイカの人柄や趣味趣向を共有し、当日までの大まかなスケジュールを連携する。
神風の人柄や印象は、経歴や諸々を考慮すると正直あまりいいものではない。犯罪組織に加担することも、警察組織に協力することも、彼の中では違いはないのだ。芸の肥やしだと彼は言う。演じるために生き、舞台に立つためならば世間の善悪など問題にならない。舞台の上で、スクリーンの中で、テレビの向こうで、彼は冷酷無比な殺人鬼になり、ありふれた恋をする学生になり、正義感に溢れた刑事になり、時には艶やかな籠の鳥にもなる。彼の姿をメディアで見かけるたび、彼の実像が混乱してしまう。
ただ、協力者という役の神風をそのまま受け入れてしまえば、これほど優秀な男はいない。彼の持つ情報量や人脈は侮れず、頭の回転が速く話が早い。積極的に潜入に使うことはないが、そうなったとしてその機転の良さは信用に値すると聞いている。
「それから、冴島への接触の目的だけど」
第一線から退いたとはいえ、彼女の資産は相当なものだ。そしてその資金の大部分は国外の銀行にあり、その一部が不審な動き方をしている。本来の目的はその先にあるが、取っ掛かりとして彼女を押さえておくことが必要と判断しての依頼だった。
「あー、それ必要なやつ?」
そう、協力者としての使い勝手の良さは、これだ。
「協力者だからって全部説明してくれなくていい。こっちが情報欲しい時は聞くし」
意図や目的を、彼は知ろうとしない。彼ならばおおよそ見当がついているのかも知れないが、それにしてもあまりに都合よく利用されてくれるのだ。リスクを負わないためとも取れるが、協力してもらうにあたり必要と判断した情報については程度に関係なく抵抗なく聞き入れる。
「そういうものでしょ。信用してもらわないと協力とは言えないけど、信頼は求めてないよ」
遠慮もいらないし親切にする必要もない。最低限の礼儀があればいい。遣うからには的確に遣ってくれ。
「俺はその中で得られるものを得るよ」
都合がいい一方で、油断ならない。纏う空気が一見緩やかであろうと、神風清乃は客席から見るより、スクリーンやテレビ越しに見るより、本人を目の前にした方がよほど遠い。聞いていたより砕けた態度を取るのでつい絆されそうになるが、印象の操作なんて彼の得意分野だ。
「そうだな…、今のところ必要はない。神風は冴島との接触をなるべく自然に誘導してくれれば」
「はい、りょーかい」
丁度区切りのついたところで、電話の着信音がけたたましく鳴った。神風は失礼、と短く断ってスマホを取り通話に出る。仕事中は緊急時以外は鳴らないように設定しているはずで、だから彼は迷わずに反応したのだけれど、多くはない対面の場で彼の携帯が鳴ったのは初めてだった。
「あー、それは緊急事態だね。了解、大丈夫逃げれると思う」
危機感はないが、代わりに煩わしそうにほんの僅かにため息を吐いた。これはおそらく、素の神風が見えたんじゃないだろうか。うん、うん、りょ、と短く電話に答えて、そうしている間にも立ち上がる。そうは見えないなりに、本当に緊急事態らしい。
「ちょっと面倒な人らが来そうなんで、俺は逃げます。諸伏さんも絡まれないようにした方がいいよ」
言いながら見せられたスマホ画面には、雑誌やテレビでよく見かける話題のモデル二人組が生配信している様子が映し出されている。どうやらこの店で行われているバースデーイベントに参加するつもりで向かっているところなのだけれど、彼らはイベントの主役よりも神風が顔を出しているという情報を聞き付けて、神風に会うことが目的のようだった。
「…前に共演してなかったか?」
「共演したらプライベートも親しくしなきゃいけない法はないでしょ」
「そういう付き合いには寛容だと思ってたけど」
「時と場合と相手によりますよ。彼らは俺とはまた別の常識が通用しないやつらだから」
神風にここまで言わしめる男二人は、神風に引けを取らない整った顔立ちで、まるで男子中学生のような会話を続けている。
「ああ、そうだ。今日のスタイリングもさすがだけど、当日はもっとめかし込んできてね。センスのいい堅物で頼むよ」
「え? …ああ、」
「ただし、」
神風はすでに歩き出して、丁度俺の座るソファの後ろを通るところ。立ちあがろうと腰を浮かせた俺の肩に軽く手が置かれ、振り向きかけた俺の耳元に息が触れる。男が纏うには瑞々しく妖しい花の香りが鼻先を掠めた。
「香りはもう少し男らしくていいね」
「…!」
つい身を引きそうになる間に、神風は何事もないように姿勢を戻して足を進めた。
「じゃあ、また」
部屋へ入った時と同じようにお手本のような微笑みを浮かべ、部屋を出て行った。部屋には相変わらず曲名のわからないクラシックが流れている。芳しいフローラルの残香が居心地を悪くさせる。
…色々と。色々と、不覚。
細く静かに息を吐いて、それからジャケットの胸元を引っ張って俯き、息を吸った。家を出た時とは違うけれど、愛しい香りが嗅覚に上塗りされる。
胸いっぱいに息を吸った分、はあっと今度こそ大きな息を吐いて、気を取り直した。
彼が注意するのだから、俺も早くここを出た方がいい。何より誰のせいか、なるべく早く家に帰りたい気持ちになってしまって、早々に部屋を出た。





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