君とは一度くらい話をしてもいいと思っていた、と向かい側に座る会長は重たそうに口を開いた。別にこちらとしては一生口をきくこともなく終わってもよかったんだけどな、と思いながら、思うだけに留まる。
「そりゃあ、…光栄ですね」
「思ってもないことを言わんで良い」
「爪の先程度には思ってますよ」
「いらぬところばかり似おって」
「気のせいでしょう」
清乃は会長を一瞥もすることはない。
清乃が会長と認識しているこの年老いた老人が、何の会長であるか清乃は知らない。仕事柄知っておこうかと思ったこともあるが、遠い記憶を思い出してやめた。この男が亡き祖父であり父である青次と共に写った写真を見たことがあった。よほど懇意にしていたのだろうと察しがつく。その時点で手を引いた。
今更あの男に関連する人間関係などごめんだった。青次だけではなく母とも関わりがあったことも、シャロンの、そしてベルモットのパトロンであることも、また強大なカネと権力を未だ所持していることも、清乃には関係ない。
「君が帰国してすぐの頃、一度だけ舞台を観たことがある」
それはまだ清乃が十代だった頃の話だ。
「…なぜ、神風を名乗った」
神風は梨園からはみ出した、まさに傾奇者であった青次が自ら名乗ったものだ。この国でその響きが連想されるもののように、その身を賭して真っ先に柵という敵陣を切り込むという意味だと言われている。本人は一代限りのつもりだった名だ。
「ああ、それはほら、売名ですかね」
業界では忘れ去られた男とされている神風青次だが、実際のところそんなことはなかった。あんな俳優を、忘れられるはずがない。
「そりゃ表立っては誰も言いませんけど、神風の名で、見る人が見りゃわかる青次の後継者らしき役者が出てきたなら注目しないはずがない」
「それが枷になるとは思わなんだか」
「俺は物心ついた時から神風清乃として稽古を受けてましたしね」
他人から比較して見られることも期待されることも理解していた。そんなものは散々青次にされてきたことで、シャロンを悩ませたことで、自分自身もしてきたことだ。
「それに、同じ舞台に立ってみたかったんですよ」
それは本心か、建前か。清乃の薄い唇の端は持ち上がっている。
同じ舞台に立ったとて、名に負ける気はなかったか。
「あの男は百年早ェと笑ったろうよ」
「はは。まあ、それは正直後付けですね。あの人の演技は身に染みてるが、だからこそそう意識するこたなかったですよ」
「そう言ってやるな」
会長の目尻の皺が少しだけ深まる。
「あんなで男でも、憧れた連中は五万といたのさ」
遠い昔を懐かしむような目だった。

おわあ。と、鳴き声した。生温かく柔らかいものが足元に擦り寄る。
「"おわあ、こんばんは"」
清乃は椅子を引いて、こちらを見上げる一匹の黒猫に手を差し出した。猫はすんすんと清乃の手の甲を嗅ぐと、なあともう一声鳴いてその手に額を押し付けた。
その頭を撫で回して、失礼、と声を掛けて胸元から掬い上げる。
「"おわああ、ここの家の主人は病気です"」
「失礼なやつだ」
「あら、珍しい、ギンが抱っこされてる」
黒猫を両手で顔の前に持っていき、ある詩の台詞を当てる清乃の背後に、明るい声が笑った。されるがままにでろんと伸びている猫を床に下ろすと、ギンと呼ばれた黒猫はさっさとその声の主へと擦り寄った。心なしか先程より視線が鋭い。淡いブルーグレーの瞳。
「お話中でした?」
「いえ、大した話はしてませんよ。なかなか本題に入っちゃくれなくて」
猫から視線を上げると、その女性は大きなお腹を撫でながらにこやかにしている。目立つタイプの顔立ちではないが、清乃の目に留まる程度に雰囲気のある女性だ。
突然の妊婦の登場に、清乃はくるっと振り返り会長をジトリと見つめる。いい歳して若い娘を孕ませるような所業まで憧れたとでもいうのか。
「年寄りの思い出語りなぞ付き合えんようだから本題に入ってやろう。それの父親のことだ。言うておくが私じゃあないぞ」
「そりゃあよかった」
わざとらしく安堵したように息を吐いて笑いながら、清乃は立ち上がり彼女に椅子を引いてやる。ありがとうと彼女が椅子へ腰掛けると、清乃も座り直して「で?」と本題を促した。
「その子の父親、つまり彼女の夫は今国外にいてな。出産も間近だ、来週帰国予定なんだが、一段落したら雇ってみないか」
「雇う?一介の役者に頼むことじゃないでしょう」
「独立の目処は立っているんだろう。先のことにはなるが、子供の手が離れれば彼女もな。惜しみたいほど優秀だぞ。君は事務所運営を任せて俳優業に専念できる」
「ちょっと話が見えないんだけど」
突然過ぎる。親しげではあるが、親族という空気ではどうやらない。会長が家に置いているほどなのだから、それなりの縁があってのことだろう。優秀と言うからにはその仕事ぶりも知っている。だが、関係性が漠然としている上、なぜそんな話を突然振ってくるのか。
逡巡する清乃を眺めながら、会長は口を開く。
「近々、米国から凶悪犯の引き渡しがあることは知っているか」
「いや、知るわけないでしょう」
「来週、FBIから日本の公安に男が一人引き渡される。ある国際犯罪組織の元幹部…君も馴染み深い例の組織のだよ」
「へえ」
それがどうしたと言うのか。その情報の真偽はきっと疑うだけ時間の無駄だろう。なぜ彼が知り得ることができたかなどという疑問も愚問だ。どうりで最近降谷が清乃を野放しにしているわけかと納得をするほどだけれど、上が何を理由にどう動いているのかなど、今も昔も清乃には関心がない。
「引渡しの場を見てみたくはないか」
それが、男の面倒との対価のようだ。正直、興味はある。組織の元幹部で、あの時公安の手から落ち延びた男。
清乃は胸がざわめくのを抑えながら、考える。そして、ちらと傍で大きなお腹を抱えるように座る彼女へと視線を向けた。
「あなたはいいんです?俺みたいな小僧に旦那を任せることになる上、旦那をこんな取引材料にされて」
「え、全然、むしろ私がお願いしたというか」
「は」
彼女は目を大きくしたかと思えば、にっこりとして続けた。
「もちろん、提案は会長やベル…クリスからでしたが、私が是非と」
なるほど、会長のみならずクリスとも親しいとなれば、仔細はともかくそういう話が出てくるのはわからなくはない。清乃は彼女への心当たりなど何もないけれど、こちらの情報など二人から聞き及べば世間の情報よりよほど十分だろう。組織の幹部と夫婦になるような女性だ。彼女が判断したのなら、それを問う必要性は感じなかった。
会長としても、彼女のみならともかくその男を匿うにはリスクが大きいか。
「まあ正直俺には断る理由はない話なんだよなあ」
「じゃあ、!」
「呑みますよ。そちらの気が変わったら言ってください。俺の事務所云々じゃなくても、やりようはある」
「ありがとうございます」
安堵し微笑む彼女を見る会長の眦が緩む。ああ、家族ではなくとも似たようなものなのだ。
とても陳腐だ。けれど刻まれているのはその皺だけではないことはわかる。いつか彼の物語を聞き出してみるのも面白いかもしれない。
しかし、まずはこの不思議な夫婦だ。
「ところで、一応聞きますけど、あなたは何者なんでしょう」
椅子に背をもたれ、彼女に視線を向ける。にこやかな中に探る意図を彼女も感じ取ったようで、少し考えてから清乃と目を合わせた。
「…黒澤と申します」
「、」
やはり、そうだ。清乃は一気に高揚した気持ちを抑え込んだ。組織の元主要幹部、組織壊滅の際に国外逃亡しかつ各国の警察組織から逃げ切ったと思われていた男。
黒澤陣。コードネーム、ジンの本名とされている。
「…はは、」
思わず高揚が漏れた。
十代の頃、ジンとは知らず彼を見たことがある。あの容姿、佇まい、気迫。言葉を発するまでもない存在感。その時、清乃は彼に惚れた。
「すげえな。冷酷無慙な徹底主義者と言われた男が各国政府からの駆け落ちとは」
清乃はくつくつと楽しそうに笑う。ジンがジンであるだけで興味深いのに、そんな男が一緒に連れて逃げるほど、そして逃げた先で子を成し出産に向けて日本へ戻すほどに人を愛したなど。
さらに、もっと面白いのは目の前の女性だ。おそらく彼女は根がこちら側の人間ではない。そんな彼女がどうしてジンと出会ってそんな関係になれたのか。こちら側ではない人間が、組織や会長に付き合い切れるものじゃない。これほど澄んだ瞳のまま。
「失礼。いや、興味深いね。あなた方の気が変わらないよう努力しますよ」
丁寧な、人の良さそうな笑みの中で、ギラリと瞳に光が見えた。鈍く鋭いそれは、まるで獲物を見つけた猛獣のそれだ。
役者として、あるいは公安の協力者としてではなく、あくまでプライベートを装って親しげに崩した態度を見せていた清乃だったけれど、それでも頭からずっと繕われた神風清乃としてここにいた。どこにいても、誰と接していても清乃の見せる素顔は信用しきれない。けれど、その瞳にみせる光こそはきっと彼の本質だ。
「ああ、じゃ、そろそろお暇します」
「そうか。詳細は追って連絡しよう」
「そうしてください。まあ、どうやら根回しは済んでいるみたいですから、おおよそのことは把握できそうですけど」
そう取り出してみせた清乃のスマートフォンは、音もなく画面が光り続け、通知が次々と表示されている。
「こんなお願いをした身ですが、どうかお体にお気をつけて」
にこりと微笑む彼女は、清乃に怯むことはない。それがまた清乃には好感が持てた。
「うん、あなたこそ。あなたの身に何かあれば、会長も俺もきっと命はないからね」
「…そんなことは」
「そうかな。俺はジンを知らないけど、きっとあなたがいなきゃ彼はいつまでもあの組織の冷徹な元幹部のままなんじゃないかな」
ふっと、会長が笑う。
「君は逃げ切れても、私は真っ先に殺りにくるだろうな」
「やだよ。ジンに狙われながら舞台に立つなんて、俺が良くても他の誰かが死ぬじゃん」
楽しげに笑う会長に、清乃は苦々しく返した。和らいだ空気に、彼女は驚きながらもつい笑ってしまう。
「ふふ。そうですね、そうならないために大人しくしてます」
「ぜひそうしてください」
柔らかな微笑みを残して、清乃は席を立った。

会長の家の者に見送られて屋敷を出ると「Hi」と上機嫌なバイカーが待ち構えていた。
「シャロン」
「彼女、いい子でしょう」
「そうだね」
放られたヘルメットをキャッチして、呆れ顔で答える。ヘルメットを被ると、さっさとシャロンの後ろへ跨った。
「家でいいの?」
「いや、四谷。公安とFBI両方から連絡入ってるから呼び出されやすいとこいる。あとなぜか名探偵と志保さんからも連絡入ってるけど。勘弁してほしい」
「人気者は辛いわね」
シャロンは鼻で笑って、バイクを発進させた。国外で大人しくしているはずのシャロンまで日本にいるんだから、彼女はよほど愛されている。
「シャロン、新一くんに言わないでね」
「なぜ?」
「十中八九志保さんに伝わるから」
「嫌なの?」
「嫌だよ」
何がとは言わなかったし、シャロンもそれ以上は聞かなかった。静かに笑みを浮かべただけだ。
いかに面白い展開へと運ばせられるか、必要な情報とキャスティングに思いを巡らせていた清乃は、その優しい笑みに気付くことはない。




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