エレベータのボタンを押し間違えたらしいことに、降りてから気付いた。ふと目の前の光景が違って振り向くと、もうエレベータのドアが閉まっていた。
すぐに矢印ボタンを押そうとしたけれど、くぐもったマイクの声と賑やかさに手を止める。レセプションホールのフロアであることを認めてから、つい軽く目を細め、案内板を眺める。見覚えるのある大手企業の周年祝賀パーティーのようだ。そういえば少し前、CM起用の話があった気がするが、知らぬ間に立ち消えたんだったな、とぼんやりと考える。
だからどうということもなく、下手に知人に会う前に部屋へ戻ろうと再びエレベータのボタンへ手を伸ばす。
「…清乃?」
ぽそりと呟くように名を呼ばれ、また手を止めた。声の方へと目を向けると、少女がハンカチで手を拭く仕草のまま、こちらを見上げている。
「…哀さんだ」
違う名を呼びかけて、留まった。
「あなたも来ていたの」
「あー、いや、俺は違うよ。ここ泊まってるだけ。哀さんは…江戸川くんの付き添いかい? それとも博士の?」
「どちらもね」
小さく哀が笑う。様子から手洗いに抜けているだけとはわかったけれど、そのわりにはすぐに会場へ向かう風もない。招待に含まれはしたのだろうけれど、まあ面白い集まりでもないのだろう。
「宿泊客がこのフロアに用?」
「ただボタンを押し間違えただけ」
「そ。あなたのことだから、知らぬ顔で参加者に混じって観察でもするつもりかと思ったわ」
「ああ、それもいいね」
清乃は今気付いたという顔をした。そんな清乃を、哀はジッと見上げる。
普段着でも和装の多い清乃が、今日はシンプルな黒のパンツに少し緩めの白いシャツという簡単な洋装だ。髪も結い上げはせず、纏める程度に留めているだけ。変装というほどでもない伊達眼鏡も、哀の知る清乃の中では珍しい。
ここのところ世間ではドラマ、映画、舞台と清乃の名に見覚えがある。
「お疲れのようね」
「え。そう見えるのはやだな」
「人気俳優は大変ね。追われでもしてるの?」
言葉の意図を探り、清乃はわざとらしく体ごと首を傾げる仕草をして見せた。そして、思い立った顔をしてから、反対側に首を傾げた。
「俺じゃないよ?」
仕事が忙しいのに、いや忙しいからか、家に帰らずホテルに泊まる理由を哀は知らない。単純に仕事の都合か、或いはファンや記者にでも追われているのか。なんてことを組織に身を置くことと重ねてからかっただけだった。
けれど、清乃の返しはつまり、清乃ではない誰か他に追われている人物がいると聞こえる。
「麻取の捜査協力でホテル住まいしてんの。監視も含まれてるんだろうけど、名目上は保護のためだね」
「…あなた、そんなこと、ペラペラ話していいの?」
「まあ、哀さんだし」
問題ないと言わんばかりに清乃は澱みなく答える。
俳優である清乃は、ある犯罪組織に属している。哀もかつてはその組織のもと薬品の研究を行っていたが、今は姿も変わり身を隠している。そのことを知りながら、清乃は組織へそれを伝えてもいなければ、例の薬の被験者であることを哀へ知らせ研究に協力し、さらにこうして平気な顔で自分の状況を教える。
もちろん哀も今のところ清乃を警察に突き出すような真似はしないけれど、それにしても信用し過ぎている。いや、信用なんて言葉をこの男に用いるものじゃない、とも哀は思う。ただ警察機関に伝えたところで、どうにもならない自信が彼にはあるのだ。証拠など、きっとどこにもない。まして組織からすれば末端の構成員でしかない清乃を警察に突き出したところで、本人が罪に問われようが問われまいが、その事によって哀の消息が組織に知られる可能性を思えば、組織を恐ろしさを知る聡い少女が行動を起こすとはないのだ。
清乃はそれを当然理解している。だが、それにしても、飄々とした彼の様子はどうも危機感に欠けている。組織の黒服の男たちの纏う殺気を、哀は清乃から感じることはない。
「あなたを見てると気が抜けるわ」
「へぇ、安心するってこと?」
「ずいぶん前向きな捉え方ね」
哀が呆れた顔をするのを見て、清乃はフッと笑う。そしてしゃがみ込み、哀と視線の高さを合わせた。
「だめだよ、気を許したら。俺は嬉しいけどね」
そう清乃は至って真面目な顔で、覗き込むようにこそりと言った。
「、」
ふわりと清乃の纏う香が香るほどの距離に、哀はつい半歩身を引く。他人から見れば小学生の少女でも、哀は十八歳の年頃の女の子だ。普段意識をしていなくても、つい身構える距離。
咄嗟に言葉に詰まりながらも文句の一つでも口から出そうになって口を開いたその瞬間。パッと視界が暗転した。
「…何?」
口から出た言葉は文句ではなく疑問の声で、宴会場からもざわりと声が上がる。
停電。どの程度の範囲のものかはわからない。
「ーー…すけてくれ…!違ーー!!」
僅かな、叫び声が聞こえた。
突然の暗闇に目が慣れる前に、清乃が動いた。哀の体を抱き上げ、その拍子に声をあげそうになる哀の口を塞ぐ。そしてエレベーターから離れるように移動し、ラウンジのソファの影に身を潜める。状況よりもその音のない身のこなしに驚きを感じながらも、そっと耳をそばだてると、会場のざわめきの中で、その場から動かないようにと注意を促す声が聞こえる。それに紛れてガタガタと何かの倒れる音。使用されている宴会場とは反対側の広間からか。
「ーーっ!」
届かない絶叫と、そして、パンッ、と空気を割く音。ぴくりと体を震わせた哀を落ち着かせるように、清乃は抱きかかえた哀の背を摩る。その音は、哀も清乃も知っていた。銃声だ。サイレンサーを装着した銃の音。
息を潜めながら、清乃は心中でため息を吐く。幸か不幸か招待客にはあの小さな名探偵がいて、このホテルは麻取の件もあって表立っては無理でも普段よりはまともな証言が出るはずで、下手に騒ぎが大きくなることはないと予測する。とはいえ、それなりのホテルを停電させての犯行ならそう簡単にもいかないかもしれない。
しかし、事件が名探偵を呼ぶより名探偵が事件を呼んでいるのかと疑いたくなる気分だ。
清乃はソファに寄りかかりながら、チラとガラス窓の向こうを眺める。
とほい空でぴすとるが鳴る。またぴすとるが鳴る。
何の詩だったか、と薄曇りの空を目だけで見上げた。
混乱、焦燥、懇願。最後の言葉はきっと、決して大きな声ではなく、呼吸よりは少し大きな漏れるような声だ。それでいて叫ぶような、急激な喉の乾きに掠れた悲鳴。清乃はその様子をありありと想像する。
そして知っている。その叫びが、懇願が、届くことはない。
ほら。パンッとまた、叫びの代わりに銃声が響いた。
「まだだめ」
身動ぐ哀の耳元で、清乃は囁く。
扉の開閉の音と、足音が続いた。足音は近付き、エレベーターを横切るようにして遠くなっていったその時、パッと灯りがついた。
清乃はゆっくりと瞬きを繰り返す。
すぐに会場からスタッフが何人か飛び出してきたが、会場内には悲鳴も銃声も聞こえていなかったのか混乱は大きくはないようだ。
だが、監視カメラの映像からホテル側はすぐに気が付くだろう。下手に誰かが発見しなければ宴会参加者が騒ぐことはないだろうが、殺人事件が起こったとなれば、ホテルは即時閉鎖か。
…殺人事件。ああ、「殺人事件」だ。萩原朔太郎。
先程思い出した詩のタイトルと作者に思い当たりながら、どう直接的に巻き込まれないよう動こうかと考える。
「ちょっと、いい加減離して」
「うん? ああ、」
冷たい声に、腕にすっぽりと抱えていた哀をようやく解放する。灰原?と聞き覚えのある声がしたと思えば、哀が探偵バッジに声を掛けている。手軽なものだ。
「どこに行くの」
哀を離してすぐに立ち上がり、エレベーターへ向かう清乃の背に、哀の冷ややかな声が刺さる。清乃は小さく振り向き、彼女の手にする探偵バッジを見て、人差し指を口元に当てた。コナンには自分がここにいたことを言うなということか。
「…バッジは切ってるわ」
そうバッジを見せてみても、清乃は小さく笑んだだけで、エレベーターボタンを押す。ここで関係のない顔をして部屋に戻ったところで、清乃は監視もついていれば監視カメラにも映っている。必要であれば証言するつもりでいるが、清乃の捜査協力の優先度は麻取の捜査にある。
「現場を、見てはいかないのね」
事件の騒ぎに巻き込まれたくない清乃の立場を理解しつつも、見聞や体験に貪欲な清乃が興味を示さないことに小さな疑問を口にした。
「哀さん、俺はね」
清乃はそんな哀を眺める。
「哀さんが思ってるよりずっと多く、屍体も殺人も見てきてんだよね」
普段と何ら変わりなく微笑んだ清乃の向こうで、エレベーターの扉が開いた。当然のように口にした言葉は、何の熱も持たず冷たさすらない。清乃にとって、悪意も殺意も計略も暴力も、感情を揺らすに値しないほど身近なものなのだ。彼が纏うものは殺気ではないけれど、どこか生温い、それは狂気に近い、何かのようにも、思う。
組織への明確な恐怖とは違う空恐ろしさを感じながら動けないでいる哀を置いて、じゃあね、とひらりと軽く手を挙げた清乃を乗せ、エレベーターの扉は閉まった。
人間の死際を、何度も見たことがある。
自らの手を汚すことはなくとも、それと等しいと自覚する程度には幾人もの人間を見殺しにし、その行為を幇助或いは教唆してきた。
その始まりは、あの日。芸で繋がり血で繋がった者を見殺しにしたあの日。ただ舞台を、芸を欲し生を欲したあの日だ。
死際、もがき苦しむ表情も肉体の反射や質感もも血の赤さも臭いも思い出せる。そこに至る物語は千差万別だ。ある程度のパターンはあれど、重要なのは物語の細部。けれど。
「大筋は単純な方がうけるよね」
ごろりと横になったまま、清乃は携帯に話し掛ける。
『麻取付きで仕事を避けてあげたのに、よくもそう面倒に巻き込まれるものね』
「そっちの仕事に比べれば大した面倒はないよ」
携帯から届く女性の呆れた声に返す。
清乃の捜査協力により、芸能界の一部に蔓延していた覚醒剤の出所が押さえられた。その捜査の中で、清乃とダブルキャストで舞台を控えていたある俳優が覚醒剤の使用中に錯乱し恋人を刺したことは、ニュースでもそれほど詳細には公表されていない。彼女は未だ入院中だ。
『彼の役のいくつかはあなたに回ってくるでしょうね』
「どうかな。スケジュール次第だろうけど」
『そこは調整させなさい。あなたの舞台は、煌びやかな表舞台だけじゃないんだから』
「煌びやかね」
この業界とて煌びやかじゃないことは彼女とて知っているはずだ。所詮、表だろうと裏だろうと欲望産業には変わりない。
『スポットライトの下だけが舞台ではないでしょう?』
からかうような声が笑う。そう、ライトが強ければ強いほど、闇は深まる。組織の漆黒は芸能界の闇など比較するまでもなく深い。
「ライトが当たらずとも舞台で気を抜くようなことはしないよ」
組織は見ている。ライトの下も、その外も、清乃の動きを常に審査している。気を抜けば舞台から引き摺り下ろされるだけだ。
『ああ、そうだわ。次から細かい仕事はバーボンが指示するからよろしく』
「………ああ、そう」
『あら、嫌そうね?』
「そんなことはないよ」
正直とても面倒だと思いながらも、言ってどうなることでもないと誤魔化した。
『気になることがあれば連絡しなさい』
「仰せのままに」
ぷつり、と通話が切れる。ひとつ欠伸をしながらグラスに手を伸ばしたら、掴み損ねてグラスが倒れた。珈琲がテーブルに広がるのを、ただ眺める。
刺された彼女の、生温かい血の感触を思い出す。久しぶりに触れた、生きた人間の血。
清乃の口角が緩やかに上がった。まだ僅かでも生理的な感情が残っているらしい。
わしわしと頭をかき、テーブルを片付ける気力もなく窓を眺める。窓に映る自分の顔が目について、哀に疲れていると言われたことを思い出した。自分の顔の違いには気付かないけれど、確かに少し、疲れていたかも知れない。
「…とほい空で、ぴすとるが鳴る」
とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍體のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。
しもつき上旬のある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路を曲つた。
十字港路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。
みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者はいつさんにすべつてゆく。
昔のことを思い出すのは、久しぶりだった。
窓の外へと焦点を移す。見覚えのある白いマツダが横切った。どうやら、ベルモットは早々にバーボンへこの場所を教えてしまったようだ。
安室の名で毛利小五郎と江戸川コナンに近付く男。ベルモットが重宝しながらも信用し切ってはいない美丈夫。
謎多き組織。末端構成員の俳優と上層部のハリウッド女優。例の薬で子供になってしまった高校生探偵に、組織から逃げ出し死に損ねた研究者。組織に潜入していた連邦捜査官に、探偵に扮する目的不明のネームド。
「伏線も見つけ切れてないのに」
複雑な物語は、容易に終えられなさそうだ。
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