走り出そうとした手から、軽やかにスケートボードを取り上げ止めた相手の顔を見上げて、コナンはギョッとした。差し込む街頭の明かりが浮き上がらせたのはまるで舞台化粧の黒い狐面で、ぼんやりと路地の暗闇に溶けるそれは、妙に鮮やかに見えた。
「放っておいてくれないか」
その声には聞き覚えがある。かさついた夜の街なのに、深く湿った樹々に似た匂いが鼻先を漂う。
コナンは、大通りで発進した車のエンジン音で、急に襲った非現実感からハッと我に帰った。
「っしま…!」
「だからだめだって」
通りへと飛び出たコナンが見つめる先で、お目当ての車がどんどん小さくなって、角を曲がった。狐は呆れたように息を吐きながら、スケートボードを小脇に抱えてひょろりと立ち上がる。
「何で止めるんだ! 今止めないとあの人は…っ」
「そう喚くなよ、あの人はわかってるんだから」
「っえ?」
コナンは踏み込んだ姿勢から少しだけ力を抜いて、狐に向かい合う。狐は相変わらず面を脱がないまま、闇に浮かんで見える。
「齋藤氏は犯人がわかってるし、この後の展開も読めてる。脚本は出来てるわけ」
先ほど車で帰路へ着いたあの人、つまり齋藤基弘はコナンが解決しようとしている事件の次の被害者だった。おそらくこの後、自宅へ帰るまでの間に犯人と対峙することになることは、コナンの推理から必至のことだ。
「それをわかって!?」
「あれは因果だからね。他人の介入は野暮だよ」
「だからって襲われると知って黙って見逃せって言うのかよ!」
「そうだよ」
さらりと溢したその言葉はひどく冷たく響いた。狐は再びストンと腰を落として、面はコナンの目の前に浮かび、影の中で微かに縁取られた目の玉の向こうで硝子玉が鈍く光った。瞬間、するりと白い指がコナンの細い首を撫で、柔らかく掴むようにして親指が円を描きながら喉を滑る。
「君が止めて、彼らは彼らの事情をどこに落ち着ければいいんだい」
犯人と目星をつけている人物と、彼が手を下そうと狙う人物の因縁もほとんど調べはついていた。狐の言わんとしていることはコナンとて解らぬことではないが、しかし法が侵され人命が掛かっている事態に、個人の事情は些細なことではないかとつい浅はかに考える。真実を解き明かし、罪を暴くことに疑問はない。
「今、どちらの彼を止めてもらっても困るんだよ。明日が何の日か知ってるでしょ」
「明日…?」
「星祭」
星祭とは、ある地区の伝統的な祭事だ。土地の神を祭り、代々伝えられてきた神楽舞と能が奉納される一大行事。齋藤氏はこの土地に縁があり、代々この日の舞台を取り仕切ってきた能の流派の次期宗家である。
今年の星祭の開催については取り止めを要求する脅迫状が届き、齋藤氏の依頼で毛利小五郎が調査に入っているが、事故と判断されたものの関係者に死者がすでに出ている。一昨日前には明らかに能楽師への殺害予告と見える、衣装を着せられた人形が神木に吊るされた状態で発見された。
それでも祭が中止へと向かないのは、地元の人々の願いであることと、それからこの祭のシーンをメインに取り入れられた企画ドラマの撮影のためであることが大きかった。
「このタイミングを逃せば、彼は明日の星祭中に事を起こすでしょ。祭を中止にするわけにはいかないし、切羽詰まって何を誰を巻き込むかも知れたもんじゃない」
「じゃあ尚更今のうちに止め…」
「なあ、わからねんなら引っ掻き回さねえでくれないか名探偵」
コナンの喉を撫でる親指に力が入る。ゴクリと唾を飲んだのが、喉元への感覚をより強めた。狐の声音は低く、苛立ちを滲ませている。普段の温和すぎる彼とは違いすぎて、役に入っているのか、これが彼という人物なのか迷う。
「…清乃、さん…?」
名を読んでも、狐はぴくりとも反応しない。じっと鈍く光る双眸がコナンを見つめ、喉元に触れる指先にいつ力が入らないともわからない。
「…俺はね、今回の祭は中止にするべきじゃないと思ってんの」
色んな言葉を飲み込んだと、コナンにもわかった。その意図は読めない。
清乃はするりとコナンの首から手を離し、それから掌を握って開いて、自分の首へと持っていく。
「あなたは、何を知って…」
ゆっくりと呼吸しながらコナンが見上げた先で、清乃は人差し指と親指で半円を作ってみたり、自分の喉をなぞったりと不可解な動きをしている。
「き、清乃さん?」
「簡単に折れそうだと思ったけど流石に無理そう、潰すくらいか?」
「え、と、何を」
「いや、感覚を確かめたかっただけでそれ以上は別に」
「…人の話を聞けよ」
「はは、うん」
さっきまでの様子とは違って、何も背負っていないような振る舞いにコナンは呆気に取られる。なんとも掴めない男だ。聞きたいことは何も聞けていない。
「こわい顔するなよ。佐山はだァれも殺しちゃいないし齋藤氏を殺せない、星祭は開催するし無事に終わる、そのまま撮影もクライマックス。明日になれば全部わからあな」
まるで何かの台詞のように言うと、ふらりと闇の中に身を引いた。狐面の曲線が再び溶ける。
途端に、コナンくーん? と耳慣れた声が街の喧騒に混じって聞こえた。コナンは咄嗟に大通りを振り向く。
「君の活躍を期待しているよ、江戸川くん」
「待っ…!」
再び路地へと目を向けた時にはもう清乃の姿はない。引き留め掛けた声は暗闇に虚しく響き、伸ばした手は空を掴むばかりだ。
「あっコナンくん!良かったあ…!」
「蘭…姉ちゃん…」
「もう!全然帰ってこないんだから心配したじゃない」
息を切らした蘭がしゃがみ込んで、コナンの手を取り眉を下げる。清乃のマネージャーから、コナンを見かけたけど大丈夫かと連絡があったと言う。清乃の差し金だろうか。言い訳も程々に、コナンは蘭に手を取られ、渋々帰路に着く。さり気なく振り向いたところで、清乃はもう気配すらない。側のビル、非常階段の手摺りにもたれる清乃の吐く煙草の香りも届かない。
舞台の上の清乃を見たのは二度目だった。コナンは、つい言葉を止めて振り返り、その男に魅入ってしまう。蘭も、彼の前に舞台に上がっていた囃子方の佐山も、刑事たちも皆一様に顔を上げ、舞台を真正面に見つめた。
齋藤が立つはずの舞台に、齋藤に扮して清乃が立っていた。幽閉されていることを知るコナンと、それから一連の脅迫騒動の犯人である佐山が目を見開いて能舞台を、能面を見つめる。
体型の差異を衣装で隠した清乃は、齋藤の癖ごとゆっくりとした動作で舞う。秋の深まる小春日和、月のない星空のもと、風と葉の囁く音すらも遠くなる気がした。シュ、と緩慢な動きの中で、急に鋭く足袋が滑り髪の先が踊ったかと思えば、ピタリと時が止まり、そして優雅に袖を広げる。シュルシュルと足袋が流れ、時にドンッと力強く床を弾く。
踊っている、と思うほどに柔らかく、唄っていると感じる程に伸びやかに、齋藤を演じる清乃はゆらゆらと舞台を囲うように焚かれた薪の炎に照らされ浮かび上がる。
こういうことか、とコナンは声もなく口元だけで笑う。大したものだ、齋藤の誘拐を止めず、この祭を中止にはさせないと言い切るだけあった。
佐山には妹がいた。二人は星祭での神楽の担い手で、兄である佐山は囃子として笛を吹き、妹は舞を踊り、幼い頃から舞台に上がっていた。佐山は、血の繋がる兄妹でありながら妹を愛していた。
十代も終わる頃、妹は一生の恋に落ちた。星祭の日、新月の夜、相手は宗家である父とワキとして舞台に上がった齋藤だ。二人は真剣だった。真剣だったけれど、当時から次期宗家と謳われていた男と地方の舞の踊り子の縁は、周囲の大人たちにいとも簡単に切られてしまうことになる。
彼女はその頃、突然行方をくらませた。齋藤は両親が決めたひとと婚姻した。佐山は、妹の失踪を齋藤のせいだと思ったし、齋藤の婚姻におそらく妹本人よりも憤っていた。
それから一年ほど経ったある日、妹の死が告げられた。呆気ないものだった。妹は東京の小さなアパートで暮らしていて、病に伏して遂に身罷ったのだ。佐山は、死に目に合うこともなく、最愛の妹を失った。齋藤が殺したようなものだと思った。
そして此度、あの日以来の新月の星祭で、ついに次期宗家として齋藤がシテとして舞台に立つ。幼少からこの地域の伝統を担い、その中でも特別な舞台である新月の星祭で、最愛の妹を見殺しにした男が舞うことなど許せなかった。それは殺意と言っていい感情だったと佐山も認めている。
明確な殺意を、それでも佐山は押し隠した。舞台に上らせたくない、それだけでも叶えばそれで良かったが、齋藤は屈しなかった。ドラマに星祭が取り入れられることを喜び、しかし代々宗家のみがシテを許される舞台に対し慢心せず、能楽師役として出演する清乃の稽古も行いながら、いくつもの脅迫に決して開催の意志を曲げなかった。佐山の苛立ちは募る。
齋藤の誘拐は最後の手段だった。齋藤が憎くてたまらなかった。手を下すつもりだったのだ。かわいい妹を騙すようにして死に至らしめた男が、ご立派な身分で兄妹が愛した舞台に立ち、のうのうと生きていることがどうしても許せなかった。
「でも、手を下せなかったのね。殺そうと思えば殺せたでしょう」
哀はお盆に急須と湯呑みをふたつ載せて、静かにテーブルに置き、ソファに腰を下ろす。
齋藤夫人と警察の協力のもと、齋藤誘拐が表沙汰にならないまま迎えられた星祭の舞台には、齋藤と見せ掛けて清乃が上がった。眠りの小五郎の推理を聞かされていた佐山は、それを目の当たりにして観念したように自供を始め、警察の手によって蔵に閉じ込められていた齋藤は救出され、傍目には星祭もつつがなく終えられることとなった。
「齋藤には息子がいてね」
清乃は、向かいのソファに腰掛けたまま腕を伸ばし、片手で急須を持ち上げ交互に湯呑みに茶を注ぐ。清乃が持ち込んだ茶っ葉の、品の良い柔らかな香りが立ち上る。
「妹さんはそもそも体も強いほうじゃなかったし、出産に耐えられなかったみたいだよ」
「…齋藤の子だったの?」
湯気の立つ湯呑みをひとつ哀の前に寄せ、それからもうひとつを手に取って、一口啜る。
「どうかね、時期的には齋藤の子でもおかしくないけど、その辺って妹さんもちょっと自暴自棄になってたみたいだし」
「あえて検査はしていないってわけね。よく奥さんが許したわね、家もだけれど」
「それは上手いことやったんだよ」
齋藤の妻となった女性は、妊娠ができない体質だった。それは齋藤家のみならず自分の親にも隠していたため縁談が上がったわけだが、彼女は齋藤には正直に話したという。そして齋藤は、その告白に対するように他に愛する人がいることを告げた。二人は恋に落ちたわけではなかったけれど、どこかで分かり合った。
「相手が誰かはともかく、自分の愛した人の子であることは確かで、そして彼女の遺言でもあったんだよ、齋藤が認知したし。妊娠が発覚してすぐ三人の間で計画されたってことにはなってる」
「事実はさておき、ね」
「まあそこまで明らかにする必要もないでしょ」
「佐山は、妹が命がけで産んだ子の親を殺すことはできなかった、ということ」
「その程度の憎しみ、それ程の愛かねえ」
感嘆するようで、何の思い入れもなく清乃は茶を啜る。哀は両手で湯呑みを包んだまま、じっと清乃を見つめる。この男は、自ら口にしたふたつの感情のどちらにも共感など出来ないのだろうと思えた。何を秘めているのか底知れないところがあるが、哀は目にした限りでは舞台の上の他で、清乃が感情的になることなどなかった。どんな状況でもただひたすらに穏やかだった。気味の悪いほど。
あまりに清乃を見つめていた哀の視線が、ふと顔を上げた清乃の視線とぶつかったタイミングで、玄関の扉が開いた。
「博士ー…っと、居ねえのか?」
無遠慮に姿を現したのはコナンだった。哀の姿を見て口を開けた瞬間に、清乃の姿を見つけつい小さく「ゲ」と呟いた。清乃はソファの背に片腕を掛けて振り向き、その呟きにあからさまな笑顔を返した。コナンは、しまったと思いながら引きつった笑顔を返す。
「博士はご近所さんに呼ばれて発明品の修理に出てるわ」
「そ、そうか…。ええ、と、じゃあ、出直そうかなあ…?」
「俺はもう時間切れだから、お構いなく」
清乃はそう言うと、湯呑みに残った茶を飲み干してソファから腰を上げた。
「あら、まだお菓子を開けてないわよ」
「土産なんだから、哀さんと博士で食べてよ」
「そうね。どうせ仕事抜け出して来てるんでしょうし」
「うん」
清乃がソファに投げ出していた羽織を肩に掛けたところで、哀もソファから立ち上がり、さらりと出て行った清乃を見送った。コナンは気まずそうな顔のまま、家の中からそれを眺めていた。
「何しに来てたんだよ、あいつ」
「齋藤氏脅迫、誘拐事件の土産話とドラマロケのお土産を持って、診察に」
落ち着き払って、哀はもうひとつ湯呑みを手にしてテーブルに戻る。不可解な顔のままコナンは清乃がいたソファに腰掛け、哀が茶を注ぐのを大人しく待つ。
「診察って」
「あら、言ってなかったかしら。彼、組織の被験体なのよ」
「被験体って、あの薬のかよ!?」
「そうよ。もっとも、摂取したのは未完成のプロトタイプということと、今は実年齢の身体であること以外は私も知らないけど」
哀が取り乱すでもなく知らないと言い切るからには、本当に知らないか或いは教えてなどくれないということだ。コナンも、組織につながる人物であることは確かとはいえ、何となく清乃に苦手意識があり、今は彼に深入りするつもりはなかった。
「…関わりたくねえってのに」
「あら、あなた気に入られてるわよ」
ぽそりと呟いた言葉に、哀は小さく笑い、コナンは言い返せずに口をへの字に曲げたまま、つい自分の首元を摩った。
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