次の舞台は重苦しい時代背景の中での、呆れるほどの純愛ドラマだ。清乃が演じる青年が、敵対する政治勢力幹部の一人娘に一目惚れされ、互いに立場を知らぬまま好意を抱くところから展開する。
インタビュアはまるで当然のように、清乃を一目惚れされる側として扱ったし、本人は気にもかけないがそれは事実だった。
「神風さんは、一目惚れなんてしちゃうことあるんですか?」
気さくさを装いながら、まるでファンみたいに視線の落ち着かないインタビュアに、清乃は少しだけ前のめりになって、まるで内緒話をするように口を開いた。
「ありますよ、一度だけ」
その距離感に驚いたのか、緊張で固まってしまったインタビュアを可愛く思うように、清乃は姿勢を戻しながら小さく微笑んだ。
「たった一度、それ以来会えてはいないんですけどね」
そこに、インタビュアは、そして読者はどんなロマンスを見るだろうか。事実は小説より奇なりなんて言うけれど、清乃はそれでもきっと他人の想像の物語の方が奇妙だと思っていた。ただ、想像には事実という知識と体験という糧が必要なことを知っている。
清乃は、部屋の隅に控えるアシスタントの女性を見た。色が白く大きな瞳は黒々とした華奢な女性。誰かに似ている気がしながら、思い巡らせることもなかったが、インタビュアの質問で、清乃はその誰かを何年ぶりかに思い出していた。

誰彼から聞く話や彼女の素振りを見て、まるで「ナオミ」だな、なんてことを思いながら彼女を眺めていたのが初めて彼女を目にした時の清乃の感想だった。元々の出は大したことはないが、気紛れな男に見染められて好き放題している。ナオミと違うのは、その男が君子などでもそこらの堅実なサラリーマンでもなく、商社の重役というところか。それで言うと、「ユカ」でもいい。そんな風に物語の女たちと似通う点を彼女に見ながら、では自分はどんな役回りだろうかと考えているうちに、気が付けば清乃は彼女のお気に入りというポジションでそばに置かれるようになっていた。
「心配はしていないけど、気をつけるのよ、ほどほどに」
基本的には何事もイケイケどんどんとこちらの感覚よりも飛ばしてくるのに、珍しく小言を言われたことを、後で思えばなるほど気にしているべきだったけれど、まだ十代の清乃はまだそれに気付きはしなかった。
公演期間中、周囲の目を盗んで向かった雑居ビルのカフェバーは、彼女の「パパ」とは別の男が持つ店のひとつだ。商社のパパは彼女を自分のものと思い、この店の「オーナー」は誰かのものである彼女を奪える立場を楽しみ、当の彼女は二人の手をもすり抜けて清乃というペットを欲しがっている。清乃にとっての彼女にまつわる認識はそんなところだ。
たった一度共にした夜を、肌を合わせることなく過ごしたということが、彼女の興味をそそった。海外から戻ったばかりの麗しい年下の俳優を、彼女はコントロールしたがった。清乃が大人しくそれに付き合っているのは、今まで関係を持ったり好意を抱かれた相手にここまであからさまな人間がいなかったからだ。さらに言うと、彼女のパパの持つコネと財力、店のオーナーが掌握する人脈とあらゆるもののルートに興味を持ったから。
しかし、ありふれたこの手の世界で肩書きもなく上手くやるのは、案外難しい。
「…引き際、」
と、いうものを計りかねた。諦めに近いため息と共に吐かれた言葉は口元で呟かれるに留まった。
ビルのそばにはオーナーの車が停まっている。本人のものだ。取り巻きの姿は外にはない。しかし、さり気なく周囲に配置されている人の往来は、オーナーとは別の団体様のものだろう。さり気なくとは言っても、明らかにそのビルを包囲しており、わかる人間にはわかるよう威圧している。
清乃は呟いてすぐに携帯を取り出し、すでに何十件と着信とメールが溜まっているのを全て無視して、もうすぐ、と素っ気なくメールを送った。どれだけ簡易でもそれがいいと喜ぶくせに、それだけでも連絡をしないと喚き散らすのだ。清乃はそれも気にはしないが、以前他の舞台を控えた時期に、グラスを投げられ顔に傷が付いた時には、瞬時にいかに彼女を陥れられるかを考えてしまった。祟られぬように宥める面倒など、芸の道を失うことに比べれば些細なことだ。
清乃はいつも通り、普段とは違う使い古した成れの果てのダメージジーンズに両手を突っ込んで、売れないデザイナーのロンTにポニーテール、大きすぎる黒縁の伊達眼鏡をかけてビルの階段を上がっていく。何の音も流れていないイヤホンを耳に詰め込んだ清乃は何も聞こえない振りをして、密やかに集まる視線を甘んじて受けた。清乃はこの後の展開を何パターンも想定する。そしてどう逃れるか、あるいは最悪の場合でもどう被害者に留まれるかを考えている。
まだ日が高く、周囲のほとんどが営業も活動も始めていない穏やかな街の片隅で、張り詰めた空気の中を何も知らない顔で渦中へと飛び込んでいく清乃の姿は、本人が思うよりも異常だった。よほどの馬鹿か、よほどの曲者か、周囲を取り囲む鋭い視線は絡み合う。
重くも軽くもない足取りで店の入り口へと立った清乃は、店のドアを開けた。

少し前。黒いハットに襟の高い黒のコート、中に着たトップスもスラックスも、磨かれた革靴も黒い長身の男が、倒れた幾人もの男たちの隙間でスラリと立っていた。手元では拾い上げた携帯の端子に媒体を差し込み、小さなライトの点滅を見てそれを抜く。倒れている人数より、その作業は狙ったように少ない。いくつかの端末から情報を抜き取ると、奥の部屋の物音に視線を動かした。まだ、外に状況は漏れていないはずだ。出入りできる場所は二ヶ所あるが、そのどちらからも侵入は確認していない。情報に抜かりはないはずだったが、初めから情報外の鼠が潜んでいたか。男が瞬時に思考を巡らせているうちに、もうひとつの例外の足音がした。階段を上がってくる気配だ。アニキ、と耳元のイヤホンから潜めた声が届く。
対象は若い、おそらく男。今回のターゲットが飼う女が飼っている男だろう。ということは、奥の部屋にいるのは女か。
足音が近付き、その手がドアに伸びる頃には、男は物音ひとつ立てずにキッチンの奥へと姿を潜めた。
ドアは躊躇なく開かれた。男は、身を隠しながらもその様子を窺うと、現れたのは少年と呼んでいい年齢の男だった。長い髪は結っていて、線の細い体と整った顔つきは一見性別が分かりにくいが、細部の作りは男性のそれだ。男は、微かに目を細めた。少年は、ドアを入ったところで少し驚いた顔をしたものの、ぐるりと店内を見回しただけで、平然と足を進めた。
倒れている男たちの体を避けて通り、しゃがんだり腰を折ったりしながら男たちの顔を確認し、軽くジャケットやスラックスのポケットを探る。何かを探しているというほどの仕草ではなく、事態の把握をしているだけのようだった。主要人物を確認した少年は、一旦考えるように立ち尽くしたあと、そっと奥の個室へと向かう。あの部屋には、女がいるはずで、少年は彼女に会いにきた男のはずだ。男は息を潜め、このまま姿を消すべきか思案したあと、その場に留まった。その時、耳元から先ほどの、相棒とも呼べる仲間の男とは別の女の声が囁かれて、小さく舌打ちをした。

清乃は、裏口の階段を降りながら表が騒ついているのを感じ、振り返りそうになってやめた。視界の端に、見覚えのあるバイクが停まっているのを確認して、軽く手を上げる。表の様子とは打って変わって、本来より固められているはずの裏口は人払いがされているかのように静かだ。
「ほどほどって難しいね」
バイクスーツの女性が放ったヘルメットを受け取りながら、清乃は反省の色もなく肩を竦めて見せた。
「女を侮るからよ」
彼女はヘルメットを被ったまま、そう清乃を嗜めた。彼女がバイクのエンジンをかけた、その音に掻き消えそうな音に、清乃はふいと振り向いた。足音とその気配。
視線は一瞬彷徨って、すぐに一点に止まった。清乃が今降りてきたばかりの階段を、長い人影が降りてくる。
清乃は目を凝らしてそれを見上げ、目で追った。帽子もロングコートもコートから伸びたパンツの裾も靴も全て黒だ。改まったものではないが上質なものと想像出来る。黒を纏うその男の肌は亡霊のように白く、しかし帽子のツバで陰った眼元に光る双眸は冷たくも獣の様にギラりと燃えていた。男が歩く動きに合わせて、銀色の長い髪が揺れる。気高き白狼、数多くの人間を喰らってきた真神。清乃は静かに心を震わせた。
男は階段を降り切り、視線だけで清乃を通り越して彼女をチラリと見、彼女は何か簡単な労いの言葉を掛けた。清乃はそれを聴き取ろうともせず、彼の仕草や視線の機微を見つめている。
彼は、彼女の言葉に微かに目を細めただけで、すぐに背を向けた。路地に停まったポルシェにその長身を折って乗り込み、まるで何事もなかったかのように車は発車した。
「私たちも行くわよ」
彼女に促され、清乃はヘルメットを被り軽々と彼女の愛車に跨って、細い腰に手を回す。間髪入れずに、バイクは発車した。その瞬間、爆発音が響いた。
「まじか」
銃声の比じゃない巨大な破裂音の衝撃に、清乃はわざとではなく肩を竦めて、片手を彼女から離して腰から振り返った。
先ほどの店のあるフロアの窓から火が噴き、煙が立ち昇っている。何に引火したのか、さらに爆発音が続く。ビルの倒壊もあり得そうだ。
「爆発物なんて見つけらんなかった」
「何言ってるの。まさか、あなたデータ消してないなんてことないわよね?」
「え? いや、データは消して…、あーもしかして」
ビルを囲む空気の悪さに気付いた時に、彼女に送ったメールには、一定時間を超えると宛先の端末から差出人に纏わる情報が全て消えるよう細工されたプログラムが仕込まれている。
「起爆なんて仕込めるのかよ」
「お勉強が足りないわね。とはいえ、あの勢いはガスでも足してるんじゃない?」
「…まじか」
角を曲がる頃にはきちんと体重移動を合わせた清乃の心意は計れない。彼女は、視線は前を向けど、意識は後ろに乗せた少年に向けていた。もう組織に所属して幾年か経ち、情報収集や交渉、組織内での伝達役として重宝されているが、彼の動きが直接、人の命に関わったことはない。人の死や暴力を目の前で見ていたとして、清乃は未だその当事者ではなかった。
想像ではなく体験することの、その大き過ぎる事実をどう感じるのか。彼女は、組織の人間として以上に、芸を売る人間として興味があったし、心配をしていた。
「よかった」
だから、普段と変わらぬ声音で聞こえたその言葉に、少なからず驚いた。
「何?」
「あの子、クスリやってたから。日本じゃそこと関係したら結構終わりじゃん」
つい先日会った頃までは、そんなことはなかったはずだった。パパが持ち出した話なのか、オーナーが言い出した話なのかわからないが、あの子はきっと貢物か何かだったんだろうか。まったく反吐が出る趣味だが、いちいち気にしていられないほどにはよくある話だった。
「パパとオーナーの他に、最近アジア圏で流通してるトコの幹部がいたし、俺の情報消したところでとは思ってたんだよね」
「あなたね、あんなに堂々と表から姿現しておいて」
「だってクスリが関わってくるなんて思ってねえもん。この格好じゃ俺ってわかんないし、シャロンだってこの事態予測してたんでしょ」
「今はその名前で呼ばないで」
「うん」
清乃は、自分のために平然とあの子を切って捨てたようだけれど、それでもどこか上の空だ。この、特殊な境遇の子供の考えることはわからない。
「…クリス、一目惚れとかするタイプ?」
「何よ急に」
呼び直したその名が今、正しいのかどうかなんてどうでもよかった。清乃が小さく笑みを浮かべているのは、クリスからは見えない。
「俺は今、初めて経験したよ」
楽しげな声音が滲んで、クリスはまさかと脳裏にあの男の姿を思い浮かべた。組織に忠実でありながらどこまでも冷徹な翠色の瞳。
「本当、いい趣味ねあなた」
「クリスほどじゃあねえよ」
片や呆れたため息を含み、片や楽しげな笑みを含んだ声は、ようやく駆けつけたサイレンの音に紛れた。




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