すれ違いざまに、つい目で追ったら目が合った。一方は確信的であり、一方は偶然だった。
闇に溶けるような黒いニット帽の男は、そのままバーへと入り、つい振り向いた青年は長い髪を指に絡めわしわしと頭をかいてから、その後を追うように渋々といった様子でバーのドアを潜った。ニット帽の男は入り口に背を向けるように座っていて、後に続いた青年はマスターに目線でだけ示しその、肌の色以外は黒づくめの男の隣に腰をかけた。
「ライ・ウィスキーを」
I.W.ハーパーをグラスに注いでいるマスターに声をかける。そのバーボン・ウイスキーはニット帽の男の前に出された。
ワイルドターキーのライが青年の前に出された。表の通りで視線がぶつかった以来、二人は目も合わせていない。互いに、グラスの縁を軽く合わせた。
「ベルモットを頼むとは思いませんか」
「酔って忘れたとでも言い訳ができるならな」
各々がグラスに口をつけ、淡々と口にした。奥のテーブル席で年配の男たちと若い女達の笑い声があがった。マスターも、彼らや彼らの手元の様子に気を取られている。
「死んだんじゃなかったの、赤井さん」
「ほう、君にも届いているか」
「聞こえてくるんだから仕方ないでしょ」
赤井はまるで感心したように口元を緩めた。
「さすが幹部候補生だけある」
「何の話」
「カミカゼの名を持ちながら謙遜か?」
神風と呼ばれた青年は、短く息を吐いた。神風は、彼の仕事上の、つまり俳優としての名だ。彼の属する組織では、酒の名を与えられることは地位を与えられることであり、その中でより突出したものは自ずと幹部的な役割を担う。しかし、神風の名にそういった意味合いはない。
「俺は下っ端の名無しですよ」
小さく息をついた青年は、神風清乃という名で、主に演劇の世界ではそれなりに名の知られる俳優だ。幼い頃から培われてきたその演技力の評価は高い。
「人知れずって言ったって、あんな騒動あれば立場はともかく、彼女のそばにいて把握できなきゃやってらんないでしょう」
清乃は再びグラスに口をつけながら、思考を巡らせる。彼には役者以外の顔があった。
世界を股にかける犯罪組織の一員としての顔だ。とはいえ、実力を認められたものだけが得られるコードネームも持たず、組織の具体的な目的も規模も知らぬままの末端の構成員に過ぎない。自分に目を掛けてくれているネームドからは、あの方、つまり組織のトップに掛け合ってコードネームをもらう話も提案されたことはあるが、清乃はその話を内々に断っていた。
「それで」
チラリと視線だけで赤井の手元を見る。乾杯の直後に火をつけた煙草が長い指先に挟まれて、じりじりと燃えている。
「ネタバレの反応でも窺いに?」
この黒ずくめのニット帽の男、赤井秀一は、組織の裏切者だ。裏切った、ということになってはいるが、そもそもから彼は敵だった。連邦捜査局の捜査官として組織に潜入し、小さなしくじりからスパイであることを組織に知られた。その時には逃げ延びたものの、少し前に仕留められたと風の噂は囁いていた。その仔細までは清乃の知るところではなかったし、特に興味もなかった。
彼が生きていて、その彼と今接触している。この状況にどんな意味があるのか、清乃はその様子を見せないままあらゆるパターンの思考を巡らせていた。
「シェリーをどう思う」
それはワインの名であり、組織に処分されたはずの女の名だった。清乃はグラスを傾けてぐるりと氷を回す。
「どうってまた曖昧だね」
「お前は仲が良かっただろう」
「何それ。明美さん情報?」
「ああ」
シェリーこと宮野志保は、組織の研究者だった。何の研究をしていたのかなんて知らないが、つんとした赤毛の美人だ。明美というのは彼女の姉で、志保ほど目立つ顔立ちではないが整っていて、明るくて気さくな人だったことを清乃は覚えている。シェリーは組織にとって重要な人物で、だから家族ですら面会には制限があったのだ。清乃は、彼女たち姉妹の面会の監視をしたことが何度かあった。
そして、姉の明美は、赤井が組織へと潜り込むために利用した構成員であり、口実であったとはいえ恋人だった女性だ。彼女はもう亡くなってしまった。シェリーも何をしたんだか、消されたと聞いている。
「彼女も実は生きてるって?」
「どう思う」
「さあ」
どうだっていいと言わんばかりの清乃の横顔を、赤井はじっと見つめている。かつて、武器や情報を運んできた少年の無感動な目を思い出す。直接関わりを持つことはなかったが、その演技力と身のこなしが気になって、少し調べてみたことがあった。表の顔の情報はあっさりと掴めたものの、それより深くは未だに一切掴めない男だ。
「ねえ赤井さん」
清乃は、肘を立て頬杖をつき、するりと赤井の視線に自分の視線を乗せた。微かに笑んだ目元はまるで上等な女のように妖しい。
「焦らされるのも嫌いじゃないけど、今はお互いの身を案じた方がよくはないかな」
ざわり、と、柔らかく確かに撫でられたような感覚。彼は少しも自分には触れていないというのに、赤井はその視線と声をきっかけに、清乃をどこか恐ろしくも感じた。
「まあ、興味がないわけじゃないよ。あなたにしても彼女にしても。それで、わざわざ目の前に現れてまで彼女の消息を教えてくれる理由は?」
すっとカウンターから肘を離し、背を持たれると、ガラリと雰囲気を変えて続けた。たった一瞬、舞台に引っ張り上げられたような気分だった。
「君なら、救える気がしてな」
赤井は動揺を見せることなく、静かに返す。彼は、彼女を守るつもりでいるし、その自信もある。しかし、守ることと救うことは別なのだ。それは、自分にはできないことだと思っていた。
清乃は不思議そうに赤井を見ている。彼は、自分に何を期待されているのかわからなかった。彼女が命をかけて逃げ出すほど嫌悪している組織の人間である自分が、彼女を救えると思われている理由がわからなかった。ただ、それほど多く知るわけではない赤井のことも、宮野志保のことも、清乃は決して嫌いではない。
「…あの二人ってさ、全然似てないのにめちゃくちゃ似てたよね」
清乃は小さく、楽しそうに笑った。彼女たちの護衛と監視。あの仕事はわりと好きだった。
志保のことを明美の口から聞いて知っていただけの赤井は、それほど姉妹への関わりはなく、そうか、と返すことしかできなかった。清乃は、そうだよ、と返して、グラスを煽りウィスキーを飲み干すと、どこから取り出したのか、ペンでコースターの裏側にすらすらと走り書きをした。
「ご馳走様」
清乃はまるで媚びた女がするように、ちょっと前かがみになって赤井を見上げるように覗き込み、まるでハートマークが飛ぶかのように囁いて、微かな香の香りだけを残して店を出て行った。
赤井はそれを見送りもせず、走り書きされた文字を目でなぞっていた。11桁の数字の羅列は、ご丁寧に3、4、4桁で区切られている。公には使われない法則の数字だが、電話番号とみて間違いはないだろう。
「逃げられてしまいましたかな」
穏やかに、マスターが彼のグラスを下げる。
「いや、脈はありそうだよ」
赤井は小さく笑って、少し多めに支払いを済ませると静かに店を出た。
繁華街よりも少し離れた路地の闇を、それぞれにふたつの影が消えた。




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