保護者不在で会場へ入ろうとした小学生二人のためにスタッフに呼ばれ、清乃は裸足のまま控え室を出ようとしてマネージャーに引っ掴まれて止められた。開演前に客の前に出て、混雑でも起こせば遅延が起こる。つい一年も前までは平気でロビーを出歩いていたというのに、人気とはわからないものである。じゃあどうしろってんだ、と頭を掻きながら、こそっとドアの隙間から様子を伺うと、例の小学生の姿が見えた。低学年だろう、男の子と女の子の姿が見える。誰かを招待した覚えはなかったが、判断に迷いはなかった。
「ああ、入れてあげなよ」
清乃は二人の姿を確認するとあっさりと答えた。知り合いか? というマネージャーの訝しげな視線が投げられるが、そんな視線は扇子一振りで打ち返す。
「有希子さんの代理だろ。そう言ってなかった?」
舞台関係者に繋がりのある人がいたはずだ。マネージャーに睨まれたスタッフは、コクコクと首を縦に振った。しかし気掛かりは、彼女の息子はもう高校生であるはずで、二人目がいた話は聞いたことがないことだ。スタッフ曰く、親戚の男の子と、その友達だという。ふうん、と清乃は微かに目を細める。それから、口元だけ小さく微笑んだ。

ほとんどの客にとって、公演は何事もなく終えたように見えた。幕が降りたあと、会場内に残されたのは劇場スタッフおよびキャストの面々。客の代わりに品定めをするのは警察だ。
劇中に使われた小道具から大道具にまで細工がされており、裏方とキャストが怪我をしたのだ。どの怪我も大したことはなく、打撲や擦り傷程度のもので、上演はキャストのアドリブにより続行され、客はそれらに気付くことなく無事終演した。それでもなお一課の顔ぶれが並ぶのは、殺人未遂事件とされたからだ。大道具の倒壊と、刃物が使われたことが大きいのだろう。一歩間違えば死者が出てもおかしくはなく、さらに明らかに人為的な仕込みが見えた。
唯一、刃物により負傷した清乃が、出演者スタッフ一同の中で、一番他人事のように捜査の様子を眺めていた。清乃には犯人の心当たりもあり、さまざまな小賢しい仕掛けも見当はついている。この町の警察が無能でないことは、日頃のニュースを見ていてわかっているが、ただもう少し時間が必要だろう。例の小学生はあの毛利小五郎のところに厄介になっている子だとかで、警察とも顔見知りらしく器用にヒントを与えている様子はなかなか興味深かった。このままなら順調に解決するだろう、と清乃はそっとホールを抜け出した。

関係者がみなホールへと集められている中、コナンとともに入場を許された灰原は人気のない廊下を抜けて、周囲を気にしながらそっと楽屋口から中へと入る。終演後、片付けも何もしないうちの検証のため、楽屋内は雑然としている。いくつかのドアを開けながら中の伺う姿は、明らかに何かを探している様子だ。次のドアを少しだけ開けたところで、灰原は一瞬躊躇して、それから慎重にドアを開けると中へ入った。穏やかに香が香るその部屋が、彼女のお目当だった。
壁際には深い臙脂の長羽織がかかり、化粧台にはメイク道具の傍に簪が無造作に置かれている。その傍には煙草盆が置かれ、炭には灰が被せてあった。間違いない。灰原はそれをひとつひとつ目視で確認し、そして部屋の隅にある鞄のいくつかに目をつけた。そういえば、彼が荷物を持っているところをほとんど見たことがない。いくらただの俳優として過ごす場所だからといって、それほどに無防備だろうかと伺いながらも、ゆっくりと鞄のひとつに手を伸ばしかけた、その時。
「それはスタイリストの私物」
背後から、緩やかに声がかかった。咄嗟に振り向くと、楽屋の入り口で壁に寄りかかり灰原を見下ろしている。
「…傷は」
「ん? ああ、浅いし平気」
「肩は、大丈夫なの」
「しばらく痣が残るくらいかなあ」
ほとんどの演者が舞台衣装のまま聴取を受けたが、刃物で脇を刺され、倒壊した大道具から他の演者を庇い木材の下敷きになりかけた清乃だけ、怪我の手当てと衣装の修復のために着替えていた。落としきっていない化粧に単衣の着流し、乱れたままの猫っ毛が首元に垂れて気怠げで、物語から抜け出してきたかのようだ。
「…どうして避けなかったの、あれくらい」
「イレギュラーだったもん、避けらんないよ」
「嘘」
「うん。でも台本では刺されて傷を負っているし、あそこはあれくらい張り詰めるとこだったでしょ」
清乃は緩やかにそう言い訳し、その表情は少しだけ笑んで見える。灰原の表情は硬いまま、ジッと清乃を睨むように見つめていた。清乃はもたれていた壁から体を離し、裸足で突っかけた草履を擦りながら化粧台に近付く。灰原は、いつでも動ける態勢を取りながら、その動きを目で追った。
「半分は本当だよ。でもそれ、知りたい?」
舞台用の髪留めを外してわしわしと頭をかき、そのまま手櫛でざっくりと纏めて自分の簪で留める。その仕草はいつかと変わらないのに、記憶ではまだ少年だった清乃が随分と大人に見えた。灰原は、灰原という姿で彼の前に現れてしまったことを少しだけ後悔した。
「言わないよ、きっと怒るから」
「…彼女が、生身の人間を物理的に傷付けるところが見たかった、」
「あー、うん、そうだけどさ」
清乃は言葉だけは苦々しそうに言って、どこからともなく取り出した煙管を指先で弄ぶ。ご明察だ。清乃に包丁を向けて怪我をさせる役である女性は犯人の共犯者だろう。すり替えられた本物の包丁を、そうとわかって清乃に向けた。覚悟を持って、何処ぞの愛し人のためにと奮った刃で浅くとも生身の人間の肌を割いたのだ。その動揺や恐怖や歓喜や達成感、その瞳や呼吸や震えや小さな悲鳴や冷や汗の一粒。いい観察対象だった。
「相変わらずね、神風清乃」
「志保さんもね」
清乃は灰原の本当の名を呼んだ。彼は宮野志保を知っていて、灰原がそうであるとわかっている。灰原は気付かれるとわかっていたし、それで良いと賭けている。
「で」
清乃は煙草盆の灰の中から炭を取り出しながら、灰原に視線も向けずに尋ねる。
「そんなことを確かめに」
煙管に煙草を詰める。そんなことを確かめにきたわけじゃないんでしょう、と最後までは言わなかった。炭に煙管の火皿を寄せて火をつける様子を睨みながら、灰原もわざわざ違うとは返さなかった。
「…あなたは、舞台に立てればいいんでしょう」
すっと煙を吸って、そっぽを向いてからフッと吐き出した。ただそれだけで絵になる男だ。
「そして面倒は嫌い」
「うん」
志保をわかると言うことは、あの薬の例外を知っているということだ。そのことを口外する利点は、清乃にはないだろう。
「敵になるつもりはないけど」
しかし味方をする利点もない。清乃は何よりも芸に生きている。立つのは舞台でなくてもいいほど、演じていたい。役者というものがどういう存在なのか、芸の道とは何なのか、そればかりで生きているし、そういう風にしか生きられない。
「志保さん?」
カン、と煙管の灰を落として、思い詰めた顔をする少女を見る。彼女はひとつ瞬きをすると、途端にフッと何かを諦めたように、呆れたように、笑った。
「今は、灰原よ。灰原哀」
微かに瞳が揺らいだのを、清乃は見逃さなかった。ただ、それにつられたわけではない。
「志保さん」
清乃はなおも彼女の本当の名で呼んだ。彼女は自分の名を捨てたわけでなはなく、ただ一時的に捨てさせられているのだ。自分とは違う。役者でもないのに、演じなければならない日常に置かれる寂しさなど、清乃には想像でしかない。しかし想像をわが身に落とし込むのが、役者だ。

「渡そうと思っていたものがあってね」
清乃は、言うと煙草盆へと手を伸ばした。彼の指が継ぎ目の見えない木の肌を撫でると、カタンカタンと木片が押し込まれ押し出された。煙草盆の下部は、積木細工になっているようだった。そうして取り出されたのは、一本の簪だ。
「明美さんの」
「っお姉ちゃんの…!?」
「俺が付き合って買いに行ったことあるでしょ。揃いのピアスは、まだ持ってる?」
志保は恐る恐る手を伸ばし、そして奪うように簪を受け取ると、透けるほおずきの飾りを細い指先で撫でた。大きな瞳が揺れる。小さな肩が震えそうだ。
「っ!」
清乃は、そんな彼女の髪を軽く撫でた。驚いて顔を上げた志保の目尻から、勢い余って涙が溢れたのを見て、清乃は柔らかに目を細めた。彼にとって、彼女は姿が変わってしまう前からずっと小さくて可愛い女性だ。
「もうそろそろクライマックスだろうから俺は戻るよ。終演したら適当に出ておいで」
咄嗟に涙を隠す志保に対し、清乃は楽屋内のモニターの電源をつけてから、本当にそのまま出て行ってしまった。モニターには舞台が映されていて、簡単なトリックの実演をして見せている演者と警察、そして小さな名探偵の姿が見える。
志保は、モニターの確認もしないで、懐かしい簪をその手に大切に包み小さな嗚咽を漏らしながら、ひとり姉を呼び涙を流した。




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