呼ばれて、楽屋前の通路まで出て行くと、彼女は監督と何やら話をしているようだった。こちらの姿を認めて、彼女はこちらの名前を呼び、にこりと微笑む。会話を止められて薄く不機嫌を滲ませる監督に小さくため息をついて、片手を上げて挨拶を返した。
「あと十分だけ待って。顔、落とすから」
舞台化粧のままの自分の顔を指すと、彼女よりも先に監督が声をあげた。
「お前、こんなとこで待たせるわけにはいかんだろう」
「あー、じゃ、入って。大人しくしててね」
ドアを開けて示すと、彼女は監督に何か一言だけ残して、俺の後についてドアを抜けた。
「本人はともかく、いいものを書く監督じゃない。あなたの使い方をわかってる」
「そういうのはね、本人に言ってやれよ」
まるで日本語わかりませんという顔でいたくせに、二人になると途端に日本語が流暢になる。日本人はただでさえブロンド美人に気圧されがちだというのに、このひとはその威圧になんて気付かないふりして面倒がるところがある。
「いいの?スキャンダルの相手を楽屋なんかに入れて」
「影響あるのはそっちじゃないの。追い返した方が問題でしょ。只中に遊びに来てよく言う」
「いい宣伝になるでしょう? 裏に記者が張ってたわよ」
「そりゃあご苦労さま…」
拭うように化粧を落とし、簪を抜いて髪を解き、タオルで体を拭き直して、シャツを着た。ガシガシと髪の中に空気を入れるようにしてから、ざっと手櫛でまとめてくくり終えると、丁度十分で立ち上がる。
「クリス」
振り向くと、彼女はにっこりと微笑んで、さあ行くわよと言わんばかりに髪を揺らして楽屋を出た。
今は亡きアカデミー賞受賞女優の母を持ち、自身も演技派のハリウッド女優であるクリスと、実力は認められつつあるけれど所詮はしがない舞台俳優である自分のスキャンダルが騒がれるのは一瞬のことだろう。結果的には売名のように公演期間は延び、世の中としてはミステリアスな者同士の男女をまるで神秘的に持ち上げて盛り上がっているのはなかなか興味深かった。
俺たちは堂々と二人並んで会場を後にした。

とある店のVIPルームで、三人顔を突き合わせた。
先に店内で待っていた男は褐色の肌に碧眼と金色の髪を持つ二枚目で、組織の中ではバーボンと呼ばれている。組織には表立った階級こそ明確にはないが、コードネームを持つか持たざるかという決定的な境界があった。秀でた能力を持つことに加え、あの方への忠誠を伴ってそれは与えられる。バーボンは組織への所属から、眼を見張る早さでコードネームを手に入れ、その見目の良さと情報収集能力の高さを買われたのか、クリスがよく使うようになった。
バーボンは、スラスラと情報の詳細と幾人かの動向を口頭で報告する。クリスはその正面で、足を組み煙草の煙を燻らせながら、たまに相槌や質問を口にするだけで主に黙って聞いていた。
「どうします? ベルモット」
一通りの報告を終えた彼は、クリスにそう声をかけた。ベルモット、それがクリスのコードネームだ。ネームドの中でもあの方に近いとされ、単独行動をも許される謎の多い女。
「計画通り行くわ」
クリスの目がこちらに流れた。
では、とバーボンがテーブルに乗せた紙切れを、拾い上げて一読する。一見無意味なアルファベットと数字、簡単な図は、計画に必要な具体的なものことを示す暗号だ。情報のやり取りによく使う手であるが、この男は推理好きなのか、俺を試しているかの如く回を重ねるごとに複雑にしてくる。全くもって面倒な男だと思う。俺はそれを記憶し解読を終えると、灰皿の上でそれを燃やして席を立った。
「あら、もう帰るの?」
「送りましょう」
「いいよ」
「スキャンダルに気をつけるのよ」
「四谷のほうでしたね」
「…わかったよ」
クリスが俺をからかうのに合わせるように、バーボンまで俺への態度が図々しくなっていく。この男は常に演じているけれど、おそらくその性質に関しては根のものだろう。それすら演じられたものなら、俺は尊敬してしまうと思う。

組織の人間は国外の血の通ったものが多い。国外での活動も活発なようだから、むしろ日本の血が混じったものが多い、という観点が正しいのかもしれないが、この組織の全容など把握できたものじゃないことだけははっきりとわかる。
「詳しいんですね」
よく舌の回る男だとは思っていたが、車に乗った途端に饒舌さが増し、俺の過去に出演した芝居を観たとかで殺陣だの立ち回りだの和装での仕草だの、武士の心意気だの忍びの忠義だの女郎の人情だの町娘の意地らしさだの、次から次へと高い評価を口にした。
「この国の文化は素晴らしいと思っているよ」
やけに誇らしげに言った。外国人観光客が侍や忍者や芸者に興奮するのに似ていると思ったが、それにしては本気過ぎておそろしい。
「君は梨園の出なんだってね」
「まさか」
「血は争えないだろう」
「そんなもんと争う気はないよ」
その気になれば調べるのは難しいことではないだろう。歌舞伎の名代だった祖父は老いた身で外に子をもうけた。早くに妻を亡くした祖父はかつてからの色男として有名で、おそらく血を受け継ぐ者は世に知れぬだけで何人ともあっておかしくはない。そんな男が最後に愛した女が俺の母で、生まれ落ちた俺をあろうことか実子の息子、つまり孫として届けを出し梨園へと引き込もうとした。
しかしその実子は芝居にしても詰まらぬ馬鹿息子で、芝居の道を早々に外れ、果てにはこの組織との関わりさえ持った。そして、夫婦揃ってどころか親父も巻き込み消されたのだ。仔細は今更確かめようもないけれど、そりゃあ呆気ないものだっただろう。実の母も気付けば死んでいた。自殺と聞いたが真相は確かめようとも思わなかった。
「なぜ君は、親の仇とも言える組織に」
事情聴取されているようだな、と感じながらも、この男の疑問も理解ができて素直に答える。
「芸の肥やし」
コードネームを持たない俺が、結果的に人の命を奪うことになったとしても直接的に人を殺めることはない。しかし、だからこそじっくりと観察できることの多さを、幼い俺はどこかでわかっていたんじゃないかと思うほど、芸に囚われていた。
「そりゃ武士なら仇討ちかもしれないけど、俺はガキなりに役者だったってことかね。十二のガキが目の前で、一応は親と思っていた人間を殺されて思ったのが『ああ、これが人間の死に際か』だ」
言葉にもならない命乞いの叫び、妻を置いて逃げようとしながらもバタつくだけの四肢、恐怖と後悔、涙と唾液、血と硝煙の匂い。撃たれた人間の崩れ方、刺された人間の身の庇い方、追い詰める声音、殴り慣れた呼吸、咄嗟の動きの間の悪さも立ち去る際の段取りの良さも、全て頭に記憶された物語の場面に置き換えられた。
「自分の手も汚さずか」
平静を装った声音は、装ったことがわかっても、それが怒りなのか悲しみなのか同情なのか軽蔑なのかまではわからなかった。或いは、その全てかもしれない。
「必要な体験は観察だよ。死ななきゃ死体になれなきゃ芸じゃない」
「他人の死をもって芸を得るのか」
「そう。芸のために見殺しにするし、見殺したがために芸を磨くことになる」
囚われているのは何も、ガキの時分だけの話じゃないんだろう。
バーボンが大人しくなったころ、車は駅の近くに止まった。彼は努めて冷静を装って、興味深い話だったよと微笑んで、俺はそう、とだけ返して車を降りた。信号が変わる前に車は動き出し、白い悪魔は闇を進む。
「あんたこそ、何でこんなところにいるんだろうな」
本人を前に問う気になれなかった言葉を落として、その場を離れた。




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