キヨノは「雷」と手元の台本から顔も上げずに呟いた。聞き間違えをしたのかと思い、一拍遅れて聞き返そうとした時、窓の外でゴトゴトと空が鳴った。どの辺りだろうかと的確にその距離をこぼしながら、ようやく顔を上げる。冷たい蛍光灯に照らされたキヨノの顔は、見た目こそ若いが、造形の美しさのせいか血の熱さを感じない。どこか気怠げで掴み所のない彼は、女性にも男性にも見え、また生者にも死者にすらも見える瞬間がある。一筋縄ではいかない者ばかり周りにいる志保から見ても、キヨノは不思議な男だった。
彼はおもむろに、寄り掛かっていた窓を開け、夜の闇を仰ぎ見る。窓から吹き込む風に、彼の長い髪が揺れる。
「ああ」キヨノは少し嬉しさの滲む声で言う。「来るね」
何が、と問うより先に、一瞬の閃光と地鳴りのような振動、バリバリと空気を裂くような音が駆け抜けた。志保は思わず身を守るように肩を縮めた。
体の力が抜けるより早く、ゴロゴロと雷の名残を惜しみながら音は遠ざかり、代わりに涼やかな一陣の風が舞うと、空はバラバラと大きな雨粒を落とし始めた。
「止むまで待つ?」
キヨノはからからと窓を閉める。志保は、すっかり帰り支度の整っている鞄を見つめながら「…えぇ」と大人しく頷いた。
いかにも囚われの身と感じる仰々しい送迎から、キヨノを口実にして逃げられるようになったのは最近のことだった。コードネームも与えられていない彼はどうしてか組織からの信頼が厚く、志保の護衛と監視をひとえに任されている。さらに彼が口実となり得るのは、志保の研究の被験者であるからだ。自分の研究しているものが何を目的としているものなのか、志保は明確に理解しているわけではない。キヨノは、志保が研究に手をつける以前の、得体の知れない未完成の薬を服用した人物だと言う。それを知るのはコードネーム、ラムと呼ばれる謎の幹部と志保、そしてキヨノ本人だけだった。志保がそれを知って口実にしていることを、キヨノがわかっているかまでは志保にはわからない。
「すぐに止むよ」
まるで確信しているように言うと、キヨノはまた窓辺に腰を下ろした。手にしている台本は、もう閉じられている。雨音がノイズのように窓を叩く。
「…心象のはいいろはがねから、」
キヨノは、静かに呼吸した。

心象のはひいろはがねから
あけびのつるはくもにからまり
のばらのやぶや腐植の湿地
いちめんのいちめんの諂曲模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
いかりのにがさまた青さ
四月の気層の光の底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

立ち上る蒸した風と激しい雨音、匂う土と草、吹雪く散花と乱れる黒髪。ざわり、と、一瞬の景色が過ぎた。
瞬きの夢から残り佇むのはキヨノの姿だけで、あとは蛍光灯の青白さと空調の微かに唸る音だけだ。
「それ、演るの」
「ん、や。先週読んだ」
「そう」
静かにそれだけ言葉を交わすと、また二人は口を閉じる。志保は、纏わりつくような湿気を鬱陶しく感じて頬に触れる髪を耳にかけた。
キヨノは、手にしていた台本を、傍に放っていた鞄にしまうと、ぐるりと室内を見渡してから、そっと彼女に微笑みかけた。
「行こうか」
キヨノに送ってもらうのは、もう何度目だろうか。その間、危険な目に遭ったことはない。彼は組織に信用されているし、自分だってそれなりに判断して口実にしているはずだった。しかし、なぜかふと、それはとてもおそろしいことなのではないか、と、思えてしまう。彼は、ひとりの修羅なの、か。
「雨も止んでる」
窓の外を覗くようにして言うキヨノは、いつもと何ら変わりのない、穏やかで飄々としたただの二十歳の青年だ。いや、いつもと変わりがないことが、本当の姿というわけではない。姿形を変えずとも、何者にもなれてしまう男だ。
「迎えを呼ぶ?」
注意深い志保の視線を探るように、しかしさらりとキヨノは尋ねる。自分ではなく、他に頼むか、という意味だろう。彼は他人の機微に敏感だ。
「…いえ」
志保は、鞄を肩にかける。馬鹿馬鹿しい興味だ。この組織に属している人間に、信用できる相手などいないのだ。そんなことは、初めからわかっている。
「行きましょう」
志保は、いつも通りの冷ややかな声で言うと、キヨノと共に研究室を後にした。





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