冷たい風が頬を刺す。
幼い彼の瞳には、轟々と光がうねる。頬の痛みとは対照的に燃え盛る炎が、屋敷を飲み込んで暴れている。
時代錯誤な木造の屋敷が、次々に炎に喰われていくのを、じっと見ていた。客間のある離れが崩れ落ちた。両親と祖父の亡骸までもよく燃えるだろうか。正しくは、父と兄夫婦だったが、彼にはどちらでもよかった。

兄嫁は正確に脳天を撃ち抜かれた。女は煩いからだと黒い男が言っていた。兄はまず左耳を撃たれた。聞いたことのない声で叫んだ。一瞬の間があいていた。次は右の太腿だった。耳の痛みを忘れたように足を庇った。黒い男は何かを探しているようで、その在り処を兄に尋ねていた。黒い男には焦りも動揺もなく、ただただ無感情に見えた。左の太腿も撃ち抜かれた。涙と鼻水と汗が垂れた。燻んだ匂いがした。奥歯からじわりと唾が出たのを飲み込んだ。跪くように膝を折り体を折り呻くだけの兄に、黒い男は少しだけ感情を見せ、苛立って見えた。
黒い男は父に向かって笑いかけた。それは嘲笑うという種類の笑みだと感じた。父は客間の奥に胡座を組みただ黙って黒い男と自分の息子を見つめていた。黒い男は探している何かについて尋ねた。「知らんな」といつもの抑揚のない声で全く興味がないと言わんばかりに答えた。黒い男は「そうかい」と返し、その瞬間に兄の後頭部を撃ち抜いた。反射的な体の弾みとしばらくの痙攣。
「その女が隠すなら宿坊の自室か水回り、馬鹿息子が身につけてないなら納屋か通いの店だろう。俺なら寝室の金庫だ。金もそこにある。家に伝わるものなら蔵にいくらでもある。好きにしろ」
兄のせいで半分が赤く染まった部屋で、淡々と父だけがいつもの姿で黒い男を見つめている。黒い男は黙ったままだ。
兄嫁の肌は白さを通り越して色がくすんでいる。兄の全身を濡らした血は鮮明さを欠き茶を帯び、座布団や畳は黒く沈む。
「他に教えられることはない。あとは好きにしろ」
父がはっきりと言ったのを聞いて、彼は既に死体となった兄の観察をやめ、そっと父を見た。
「そうかい」
黒い男の笑みの含まれた声を合図に、彼はそっと身を引いた。最期まで見ていたいという気持ちもあった。父であり師である男の最期をこの目で見たかった。しかし、ここでこのタイミングを逃せば命がない。お気楽な物語ではないのだ。死ねば、今見た光景を無駄にする。倒れ方も撃ち方も叫び声も血の匂いも、自分の中で再現できなくなる。そんなことは許されない。つまらない。
床下へと抜ける隙間に体を滑り込ませ、銃声の一瞬と重ねて戸を閉じ、緩んだ腰紐を解き肌蹴た着物を女着のように端折って合わせ着直し、腰を屈めて密やかに駆け出した。

裏庭の木々を抜け吹き曝しの丘へ立っていた。駆け抜ける背後から煙の匂いと木の弾ける音がして足を止めたまま、炎が全身で屋敷を抱くのを眺めていた。
雲が赤く照らされている。煙が渦巻き、巻かれた灰が踊る。
「空には、灰が…」
彼は頭の中で一冊の本を取り出し、正確にそのページを開き、すっとなぞる。屋敷の燃えゆく様を見つめ、まるで自分の言葉のようにそらんじる。
「空には灰を吹きたてたれば、火の光に映じて、あまねく紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる炎、飛ぶが如くして、一、二町を越えつつ移りゆく」
その声音は淡々と、色を付けずに口元で囁く。
「その中の人、うつし心あらんや。あるいは、煙にむせびて倒れ臥し、あるいは炎にまぐれてたちまちに死ぬ。あるいは身一つ辛うじてのがるるも、」
瞬きひとつせず、身に染むように紡いだ一節が止まった。敷地のほぼ全てを覆う炎から目を離さないまま、背後に集中する。
「日本の古い言葉使いね」
どこかで聞いたことのある声だ。彼は目を閉じ、瞼の裏の残像が薄まるのを待って、ゆっくりと振り向いた。暗闇に目立たぬようにか黒い服に身を包んだ女が彼を見つめている。
「鴨長明の方丈記。1177年…安元の大火の部分」
「ふぅん」
「あの中には正気の者どころかすでに死者しかいない…」
微かに悔やむような色を見せた彼を見て、彼女は哀れみを感じた。彼の家族があの怒り狂うような炎の中で焼き尽くされていることを彼女は知っている。
「神風青次は死んだみたい」
床下を抜け裏庭を駆けて乱れた着物にようやく気付いたように、彼は軽く着崩れを直した。
「もう教えることはないって言った。あの神風青次が」
それは肉体の死を迎える前に、彼の中の師が死んだのと同じなのかもしれない。彼女はじっと、彼を見据える。彼女は、数年前にこの少年とその祖父であり父である青次と顔を合わせている。彼が、以前より幼い姿であることの理由を、彼女は思い当たっていた。
「舞台に立っていたい?」
彼は、腰紐を締め直すとゆっくりと彼女を見上げた。彼女と会った時のことは、もちろん覚えている。ハリウッド女優としての彼女の姿とその技術。
「演り続けたい」
その言葉は誰かの言葉ではなく、彼の言葉だった。真っ直ぐな視線と強い意志を、彼女は静かに見つめ返す。
「人としての道を踏み外してでも?」
「構わない」
そもそも生まれからして人の道を外れているのだ。芸の道にいられれば、それ以外のことなど何も要らないし、持っていない。
「私のところへ来る気はない?キヨノ」
笑みのひとつも浮かべない彼女の顔が、半分は女優ではないことはキヨノにもわかったけれど、その問いへの答えはイエスしか思い浮かばなかった。





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