私たちは用意していたバンへと乗り込んだ。運転席には会長のお付きの黒服がハンドルを握っている。彼には会長秘書として随分とお世話になった。
後部座席には、ゆったりと会長が座っていた。
「会長、どうして」
「先に乗りなさい」
彼は過剰な接触を避けるために、現場には足を運ばないことにしようと決めていたはずだ。ジンは彼をチラリと睨んでから私を奥の席に押し込み、自分も乗り込んでさっさとドアを閉めた。車は動き出す。
「最後に一目、こやつに会っておこうと思ってな」
そう、彼はジンを眺め見た。ジンは視線だけ送り、言葉を返さない。ジンを幼い頃から知っていると言っていた会長だけれど、彼の視線は親しみではないように見える。冷たく、だけど怒りも見えるような、視線。
気にはなりながらも、私は用意していた着替えを車の奥から取り出す。あからさまな黒づくめでは一目でばれてしまうため別に服を用意していた。ジンに着替えるよう伝えると、じっと服を睨んで動かない。私が選んだんです、と付け足すと、渋々受け取ってくれた。ベルモットと一緒に、とまでは言わないことにした。
狭い車内でジンが着替えている間、もう何度も見たはずの彼の肌が露わになるのが恥ずかしくて、ずっと外も見えないのに窓を見つめていた。
「ふ。サマになるもんだな」
会長の言葉に、私は視線をジンへと戻す。細身のシンプルなスーツだ。相変わらず黒が似合うけれど、中に着たノーカラーの白いシャツが眩しい。普段の格好に比べると随分ラフで新鮮だった。
「ジンは何でも似合いますね」
そう見惚れていると、ジンは少しだけ目を細めた。何か言いたげに、でも口を開かない。
「どこへ向かっている」
「港です。会長が持っている客船に乗せてくれます」
「ウォッカにもベルモットから話がいっている。現地で合流だよ」
会長が言葉を足す。
ジンは疑いの眼差しを、彼に向けた。
「なぜお前がここまでする」
冷たい瞳だった。会長も、柔らかな表情を消し、鋭く彼を見つめる。
「お前を助けるわけじゃないさ。この子の思いを評価したまでだよ」
そう会長は腕を伸ばし、ジンの長い髪を一束掬い上げる。ぎゅっとその束を握りしめ、引き付けるように顔を合わせ、言葉を続けた。痛みのある程度ではないかもしれないが、髪の束が張る。
「愛しい者を守り抜けなかった老いぼれのエゴよ」
「ハ。こいつをあの女に重ねているのか」
「重ねて思うには、この子は強いさ」
誰の話をしているのかわからない。会長は愛しい者と言った。ジンはあの女と言った。あの方の旧友でありジンを幼い頃から知ると言う会長と、私と会う算段をおそらく会長の権限を使って仕組んでいながら、疑いの目を向けるジンの関係が、見えない。しかし、彼らを繋ぐものはあの方よりもその女性の存在かのようだった。
会長の手からジンの髪がするりと流れ落ちた。ジンが自分の髪をおもむろに束ねたせいだ。
次の瞬間、何本もの銀色の糸が、散らばった。
「…っジン」
私はつい声を上げる。車の振動で、銀糸は彼の肩から落ち、座席に床に落ち重なる。
彼の手には銀の束と、鈍く光るナイフ。
「髪、…」
「変装するなら手っ取り早いだろう」
「でも、」
「いい、構うな」
動揺する私の髪を、彼は撫でた。短くなり、疎らになった彼の髪に手を伸ばすと、はらはらと、絡んだ髪が落ちる。
「はっはっは。幾多の人間を殺めた手で、お前はその子を守りきれると思っているのか?」
会長は愉快そうに笑って、からかうように言った。
「俺はテメェとは違う」
ジンは鼻で笑ってそう告げた。そんな言い方をしなくていいのに、と思うけれど、会長は小さく、そうだなと呟いただけだった。視線の冷たさがなくなる。彼の瞳それは寂しげな色をしている。
「大丈夫です、会長」
彼らが誰の話をしているのかはわからない。いつの話をしているのかもわからない。けれどきっと二人ともにとって、大切な人だったんだろう。
「私もジンを守り抜きます」
言うと、会長は一拍おいてまた声を上げて笑った。ひとしきり笑ってから、そうか、と優しく微笑んだ。
車は海に近付き、少しだけ開けた窓からは潮の匂いがする。目的地はもう近い。私は疎らになったジンの髪に鋏を入れ、どうにか整える。髪が短くなったジンは、それはそれで格好よくて顔の良さっておそろしいな、なんて事を考えていた。
「切っちゃった髪でウィッグ作れそうですね」
「作ってどうすんだ」
「変装に使いますかね」
こんなものかな、とジンの髪を梳いて髪の切れ端を落とす。長く大量の髪の上に、細やかな髪が降る。車の後始末が大変そうだ。
「作って送ろう」
「本当ですか?」
「ああ、別に構わんよ」
私は嬉しくて、頭を下げた。そんなにも顔に出ていたのか、そんなに嬉しいか、と会長は苦々しく笑う。
「合法的に好きな人の体の一部を身に付けられるってすごいことじゃないですか」
ジンの服に付いた髪を払いながら言う。かつて日本では遊女が本気で好きになった相手に、剥がした爪や切断した小指をその想いの証として送ったという。囚われているわけでもないし、それほど自分や相手を犠牲にする必要はないと思うけれど、相手の一部を自分のものにするというのは心が繋がり合うのとはまた別の喜びだ。
「おそろしい女だ」
ああ、それは初めて言われたな、と思っているうちに、車が動きを止めた。目的地に着いたようだ。ウォッカとベルモットからの連絡はまだない。
会長とは、ここで本当にお別れだ。彼は作ったウィッグを送ってくれると言ったけれど、果たしてここを出て行き着く先がどこなのかはわからない。組織は世界に跨って活動していたというけれど、彼らを追うものが各国にいるということだ。
「会長、とてもお世話になりました」
車を降りる前に、深々と頭を下げた。
「それから、ギンをよろしくお願いします」
「ああ」
ギンは会長のお宅に譲ることになっていた。お世辞にも会長に懐いているとは言えなかったけれど彼は私の後をついてくることはなく、会長のお屋敷の門の前でじっと出て行く私を見つめていたのだ。自分はここに残る、と言っているように思えた。それに、動物の海外への輸送は、人間を運ぶことよりも少し面倒になるとのことだったので、私もギンの意思を尊重した。彼は妙なところがジンに似ているから、会長ともきっとうまくやる気がしている。
会長は、ゆっくりと私の左手をとって、指先にキスをした。
「幸せに生きなさい、なまえくん」
彼はそういうと、皺を濃くして、そして何かに耐えるように、優しく微笑んだ。
「はい。会長も、お元気で」
私も彼に応えるように微笑んで、ジンに手を取られて車を降りた。船への乗り場は、少し先だ。
私は人の腕に自分のを絡ませて歩く。ヒールの靴にも年月をかけて随分と慣れたものだった。私たちはまるでありふれた恋人同士という顔をして、客船に乗り込んだ。自分たちの部屋を確認し、それから船内のパンフレットを確認するように船内を見て回る。
「あっ!アニキ!」
賑わいに紛れた声にハッとして振り向くと、人ごみを縫うようにしてこちらへ向かうウォッカの姿が確認できた。彼もネクタイを締めず、いつもよりラフな新しいスーツを着ている。
「ど、どうしたんですかい!その髪…」
「見て分からねーか。切った」
「そ、そりゃあわかりますけど、なんで…」
ジンは答えずウォッカは狼狽えるばかりで、その様子があまりにもいつも通りで笑ってしまった。
「何笑ってるんすか、アネキ…」
「何でもないんです。でも、短くなっても格好いいでしょう」
ウォッカは、そりゃあそうですけど、と小さくため息をついた。
「それより、無事で良かったです」
「ええ、なまえのアネキも」
ありがとう、と私は返して、それからフロアの端から端までをぐるりと見渡した。
「ベルモットは、まだなんでしょうか」
彼女からの連絡も無ければ、姿も見かけない。変装していたとしてもジンが気付きそうなものだし、そうでなくても一応は安全の確保されているこの場所で、ベルモットが姿を現さない理由は思い当たらなかった。
「それが、この服のポケットにこんなものが」
そうウォッカがジンに手渡したのは、シンプルなカードだ。ジンはそれに目を通すと、フン、とつまらなさそうに鼻を鳴らし、それを私へと手渡した。
私は日本に残るわ。Good luck,Juliet of ProkoteyevProkofiev。
「これどういう意味ですか?」
「それはわからねえです」
私が首を傾げるのにつられるように、ウォッカも首を傾げた。
「プロコフィエフのジュリエット」
ジンは、手すりに寄りかかって口を開いた。いちいち絵になる人だなと思う。
「プロコフィティエフはロシアの作曲家だ。シェイクスピアのロミオとジュリエットに基づいて同名のバレエ音楽を作曲している。その中で奴はそれを悲劇ではなくした。男が死ぬ前に、女がただの仮死状態であることを知り、生きて女の息が吹き返すのを待ち再会する、お気楽な物語にしようとしたのさ」
彼はつまらなさそうに、じっとどこを見るでもなくフロアを眺めて一気に話すと、それからちらりとこちらを見た。
「それを言おうとしてるんだろう」
「お気楽な私たちですね」
「フン。プロコフィエフは結局元の悲劇に書き直したがな」
そこまで含めて皮肉めいていて、私は彼女らしくていいと思う。悲劇にならないようにしっかりと踊るのよ、とクスクスと笑う彼女が脳裏に浮かぶ。彼女にも何か大切なものがあって、日本に残るんだろう。心配ではあるけれど、彼女が決めた事に私が不安を持つ必要はない。最後にもっとちゃんと感謝を伝えておきたかったな、とも思うけれど、そういうのが彼女には煩わしくて言わなかったんだろうということもわかる。どこまでもいい女だ。
「ウォッカ。お前はまず自分の部屋に荷物を置いてこい。俺たちはもう少し回る。戻るまで部屋で待っていろ。確認が終わり次第戻る」
「わかりやした」
ウォッカは従順に頷いて、鞄を手に消えていった。ジンは寄りかかっていた手すりから背を離すと、行くぞと短く言って足を進める。私はその後ろへ着いて行く。彼は絶対にいつも、私が彼の腕を取るまで追いつけない速度では歩かない。誰にも信じてもらえないジンの優しさだ。
ジンは淡々と歩くけれど、その足の向かう先はどうやら船内の見回りというわけではもうなさそうだった。階段を上がり、デッキへと出る。
夜中のデッキは風が強く少し肌寒いためか、ほかに人はいない。
「ジン、?」
声をかけるけれど、彼は黙々と先へ進んでゆく。
「なまえ」
丁度風が避けられる位置まで連れられると、絡めていた腕を解かれるように手を取られた。左手のその指先に、彼の舌先が触れる。
「、っ」
再会の後だからだろうか、ひどく緊張していた。まるで会長がした指先へのキスに上塗りするみたいだ、なんて事を考える。それほどに独占されたいと思っている自分に驚き、恥ずかしくなり、だけど否定はできずに彼を見る。彼は、ちゅ、と音を立てて唇を離した。
「ジン。会長の言っていた、愛しい者って…、聞いてもいいですか?」
彼はじっと私を見つめる。
「あの男の昔の女だ。俺の保護者代わりだった」
瞬きをして、言葉を続ける。
「俺が殺した」
言葉の意味を、考えた。あの車の中でのやり取りを、会長の言葉を、表情を、ジンの返しを、口元の感情を、思い出す。
「元々は何も知らない女だった。ただ、偶然組織の情報を知って、命令が下った」
「大切な人だったんですね、あなたにとっても」
「…殺すなら、俺にと、たっての希望だ」
どうやら彼女も、随分とジンを大切にしていたんだ、と私は思う。保護者、というどこか距離のある表現をしてはいたけれど、つまり母親代わりということだ。彼女にとっても、もちろん、我が子のように思っていたんだろう。だから、彼女は彼の手にかかる事を望んだ。その相手が会長でなかった理由もわかる。彼に引き金は引けなかっただろう。
「俺が恐ろしいか?」
親のような存在を手に掛けて、彼はその罪を背負って生きている。
「何を、今更」
私は少しだけ、彼女の気持ちがわかる。恐ろしくなんて、全然ない。
「そういうところが、好きなんです」
どうせ逃げられないのなら、殺されてしまうのなら、最愛の人の手にかって死ねたら本望だ。彼はきっと今だって、私が望めばどんなに苦しくても引き金を引けるだろう。
「変な女だ、」
彼は私の言葉に小さく笑って、それからポケットから何かを取り出した。彼の手に簡単に収まってしまう小さな何かは、指の先で月明かりに照らされて煌めいて、躊躇いもなく私の薬指に通された。私は、彼の指先の動きを言葉もなく目で追い、見つめ、自分の指にはまるそのシルバーのリングをじっと凝視する。あまりにも自然にやってみせるから、理解が追いつかなくて開きかけた口を閉じる。言葉が出ない。
「ドレスも靴も、もう邪魔になるだろう」
ジンはそう言って、私の手のひらを掌を上に向かせてからころりともう一つ持っていた指輪をそこに落とした。彼は何も言わない。そうだ。そういうプライドというか、素直じゃなさを、彼は持っている。ロマンチストなのだ、本当は、とても。
私はゆっくりと、彼の手を取り、じっと指先を見つめながら俯き、口を開いた。
「幸せな、時も、」
すうっと息を吸ったら、やけに静かな気持ちになった。波の音が、心音を落ち着かせてゆく。
「困難な時も、」
彼の手の暖かさだけがやけに心地いい。
「富める時も、貧しき時も」
いつか、初めて結婚式に参列した時に、美しい言葉だなと思ったこの言葉を、まだ覚えていることが驚きだった。どこかで自分とは縁のない言葉だと思っていたのに。
「病める時も、健やかなる時も」
私は視線をあげ、じっとこちらを見つめる瞳とかち合った。
「死がふたりを分かつまで、愛し、慈しみ、貞節を守ることを、」
私は、つい自然と口元を緩ませる。
「ここに、誓います」
彼はフッと鼻で笑い、私はそんな彼の左手の薬指に指輪をはめた。月明かりに、二つのリングが鈍く輝いた。
「次は、」
珍しく、ジンが乗り気で笑う。
「誓いのキスか」
私はゆっくりと目を閉じて、彼と唇を合わせた。風の音と、波の音が全てで、夜の冷たさと、彼の腕の中の暖かさが全てだった。
海を渡ったところで、私たちにはきっと困難が多いだろうけれど、それでも私には彼がいて、彼には私がいる。
私たちはきっと、それでも二人で生きていく。たった二人の夜の中で、私たちは何度も何度も、唇を重ねた。
(闇に浮かぶ煌めきに誓う)
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