乾いた風吹く夜だった。
もう、何年になるだろう。頭の中で指折り数える。あの日も、こんな夜だった。
私は繁華街で、有名な花屋に寄って二輪だけ花を買う。簡単にラッピングしてもらった花を受け取って店を出た。そろそろ見慣れてきた自分の顔を、ガラスに映る姿で確認をして、意図的とはいえ特徴のないその顔に心の中だけで小さく笑った。

会長からの連絡があったのは三日前のことだった。名ばかりの会長室の整理をしていた時だ。すぐに屋敷に戻るように指示があった。急いで戻ると、あの離れに案内をされ、そこには会長とともにベルモットもいた。
どきりと、心臓が跳ねる。
「落ち着いて聞け」
落ち着き払った会長の前で取り乱すつもりはなかったが、ぐっと息を飲み込みながら、心臓の音が次第に大きくなるのを感じていた。いつもの様子ではない。わざわざ私とベルモットをここへ呼んだのだ。ジンの情報に間違いないだろう。問題は、その内容だ。吉報か、訃報か。
私は、はい、と返事をしながら、声が震えそうになるのを耐える。
「お犬様がジンの居場所を突き止めたようだよ」
彼の言うお犬様とは、公安警察のことだ。彼らが、ジンの居場所を大まか手間はあるが検討をつけたという。それはつまり、ジンは生きていて、そしてまだ彼らの手には落ちていないということだ。だが、時間の問題だと言う意味でもある。
「大丈夫かい」
会長は私を見据えて声をかける。私は無言のまま、こくりと頷いた。それを確認してから、彼は言葉を続ける。
「情報から予想して考えると、おそらく動くのなら一週間以内と踏んでいる。タイミングがあれば事前に接触を試みたいところだが、奴らの動きと合わせて混乱に乗じるという手もあるな」
「不自然じゃないかしら、彼にしては詰めが甘いわ」
ベルモットはタブレットを手に、難しい顔をして画面を睨んでいる。おそらくそこに、会長のもとに集まった情報が詰まっている。情報源はどことは言えない、非正規のものだ。しかし、信憑性はほぼ公式と言ってもいい。
「ああ、これじゃ奴らが突き止めたというよりは、あれが知らせたようなもんだ」
「確実に尻尾をつかんだわけじゃないみたいだし、おそらく公安が動くのもジンに合わせる形になりそうね」
私は立ちすくんだまま、深呼吸を繰り返す。心臓が落ち着かない。ジンが、生きている。待ち望んだその朗報に、私の頭は既に情報過多だ。冷静になれ。自分に言い聞かせる。ジンに、会える。
「何か策があるのかしら」
「…もしくは、最後の花火をあげるつもりか」
「組織亡き今、ないとは言えないわね」
「あの徹底教育の賜物だな。情報を丸呑みして消えるつもりか、」
私は、深く、息を吸った。
「それはないです」
私が静かに呟くと、二人は言葉を止めた。会長は怒りと取ったのか、バツの悪い顔をしている。私は淡々と、続けた。
「すみません。でも、ジンはそんな投げやりな人じゃありません」
「…そうね。あれで諦めの悪い男だもの」
「は。そうだな」
ベルモットは、小さく笑った。彼も彼女も、ジンとの付き合いが長い。きっと私なんかより彼のことを知っているのだろうけれど、私の言葉に耳を傾けてくれる。
私だけではなく、二人も喜んで、戸惑って、いるのだろうか。
「動きがジン次第となると、逆に厄介ね」
「ああ。今までこちらに連絡がないということは、おそらくあの花も手に渡っとらん可能性が高いだろう。相変わらずこちらからの連絡手段もない」
「そうね。そうなると、直接接触をするしかないけど、ジンの考えがわからない以上は下手に動いたら向こうに感づかれるわ」
二人はタブレットを見つめながら、あれこれと審議する。どういう理由で、このタイミングではないか。いや、しかしそれでは早急すぎる。しかし時間が過ぎるほどあちら側に有利になる。話している内容は、半分は理解出来る。半分は、私の頭ではわからない。けれど、私はじっと二人を眺めながら、そんな議論が必要ないことを知っている。
「彼がもし陽動しようとするなら、三日後です」
ベルモットは驚いた顔で、断言する私を見る。
「どうして?」
私は彼女の瞳に視線を返しながら、言葉を返さない。どうしてって、そんなの。確信しているけれど、わざわざ伝えることではないかと、口をつぐむ。
「心当たりがあるのか」
心当たりなんてものじゃない。このタイミングで、彼が仕掛けてきたのなら、考える必要なんてないのだ。
「わかります」
二人は顔を見合わせて、それからまた私を見る。異論はない。
「その日、ジンに会いに行きます、私」
私は表情を保ったまま、耐えきれずに涙を一筋溢した。声が震える。
「お願いします。もう、お世話になるのはこれで最後になると思います。どうか、お力を貸してください」
そう頭を下げると、彼らは何を今更、と微笑んだ。

果たして今日、私は懐かしさを感じる道を歩いている。通い慣れた道だった。たった一年やそこら離れていただけで、随分と久しく感じる。隣町では、大規模な交通規制が張られているという。ジンが仕組んだことだ。そして、それをさらにベルモットがややこしくしている。
バーボンという仮面を脱いだ彼や、噂に聞く幼い名探偵とやらも活躍しているところだろう。彼らのことは、ベルモットから聞く以外は文字としての情報しか知らず、私は彼らに危機感を感じはしなかった。どんなトリックをも解いてしまう頭脳を持ってしても、他人の記憶を辿ることはできない。今日という日を選ぶ理由も、向かう場所だって。
だから、私たちが考えるべきはそこへ向かうためにジンが仕組むだろう目眩しが、どこで行われるかだけだった。その内容を会長やベルモットが予測して、ベルモットはその作戦をさらに複雑にするべく色々と仕込んでいるようだ。それが今、功を奏している。私に出来ることは少なく、彼らにはただ心の準備をしなさいと言われ、いつもの日々と変わらず雑用程度の仕事をこなしながら過ごした。
人ごみに紛れて、その流れに沿うように大通りを進む。事件の多いこの街では、隣町での騒ぎについてのざわつきは多少のことで、みんな忙しなさそうに行き交う。パトカーが続々と大通りを駆け抜けていく。サイレンの音がビルに反響する。その騒ぎの中、私は迷いなく路地へと入っていく。
会社からの帰り道だった。大通りの賑わいや車の列が苦手で、細く入り組んだ路地を歩くのが好きだった。店が一気に減り、ビルや倉庫、廃墟のようなマンションが並ぶ。表の賑わいが嘘のように色褪せた道を進んだ。
気持ちがはやる。歩みのテンポが不自然に早くなってしまうのを、ゆっくりと呼吸をすることで防ぐ。角を曲がる。二つ目の倉庫と、その向こうのビルの間。ゆっくりと進む。視界の端に注意を払う。足を止める。闇の中、微かに影が動く。まるで、知らなかったように、今気付いただけのように、首を傾げてその暗闇へと足を伸ばす。
「大丈夫、じゃなさそうですね」
頭の中で、あの日が再生される。じっと一点を見つめるように立っていた影は、こちらを睨んだ。
「…誰だ、テメェ」
そう口にした彼は、私を見て口元だけで笑った。見知らぬ顔をした私を彼は見つめて、分かりきっていると言わんばかりに、懐かしい瞳を少し細めた。
「警察を呼びますか?救急を、?」
なるべく淡々と言うはずだったのに、声が震える。目頭が熱い。胸が苦しい。
「っ、…それとも、私と一緒に、生きてくれますか、?」
涙が溢れる。上手く息が出来ない。目の前に、ジンがいる。
私が手を伸ばす、その前に、彼は暗闇から手を伸ばして、私を引き寄せた。
「ジン、」
彼は私を抱きしめ、目元に、頬に、唇に、その唇で触れた。確かめるように、優しく、壊れ物を扱うように。
「勝手にしろ」
そう言った彼は、腕の力を強め、私は縋るように彼の背中へと手を回した。銀色の長い髪が指先に絡む。煙草の匂いが薫る。抱いた背中は広く、でも少し痩せたかもしれない。今日は、怪我はしていないようだ。
私はジンを見上げて、ぐっと背伸びをして、その唇を奪った。
「お帰りなさい、ジン」
「ああ、…なまえ」
彼は小さく小さく、ただいま、と呟いた。そしてまた唇を合わせる。何度も何度も、確かめるように、埋め合うように。ああ、どうしてこんなにも愛しい。どれくらいそうしていたかわからない。
漸く唇を離して、そっと告げる。
「会長とベルモットが協力してくれています」
「やっぱりあの狸か」
「彼も心配していましたよ」
彼はわかっていたのか、フン、と鼻を鳴らした。私とジン彼は指を絡め、そっと闇の中から抜ける。この先に、彼が用意してくれた車がある。
「あ、待って下さい」
私はするりと指を離し、踵を返した。指を手にしていた二輪の花を、ジンが潜んでいた場所に供えるように置く。
「黒薔薇か」
「はい。彼がこれを見つけてくれるかわかりませんけど」
「彼?」
「バーボンです」
彼はきっと、私の行方をそれなりに心配してくれていた。小さな罪悪感は、持っているのだ、これでも。だけど、それはここに置いていこうと思う。黒薔薇の花言葉は決して滅びることのない愛。二本のバラは、この世界に二人だけ、という意味があるらしい。私はジンと二人で生きていく。
全てを捨てて、裏切っても、私は何度でもジンと拾うし、いつまでも愛している。スコッチの望んだ結果でも、バーボンが期待した結果でもないかもしれないけれど、これが私の答えだった。彼ならこの意味にきっと気付くだろう。
「行くぞ、なまえ」
私は彼の声に視線を返し、再び彼の指に自分のを絡め、その場を後にした。




(世界に二花の夜のこと)



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