事情が変わったわ。そう連絡を受けたのは、私が身を隠してから半年後のことだった。初めて、彼女から与えられた携帯に電話がかかってきたのだ。どうやら着信を受けることだけは出来るらしい。彼女は愛車を運転中なのか、その声の向こうでは風の音や雑音が多く、私は耳をすませてスピーカー部分に耳を押し当てその声を聞いた。
『二階の私の部屋、クローゼットの裏に金庫がついてるわ。そこにあなたの身分証と一緒に偽造された身分証がある。どちらを使うかは選ばせてあげる』
言っている意味がわからなかった。私は携帯を耳に当てたまま階段を上がり、彼女の使っていた部屋へと向かう。部屋の奥に置かれたクローゼットにもたれて体重をかけ、少しずつずらしていく。
『本当に必要なものだけ持ちなさい。裏の車庫にガソリンがあるから、部屋中に撒くのよ。今そっちに向かってるから、なるべく早く』
クローゼットを動かし切ると、壁に埋め込まれた金庫の扉が出てくる。私は手に持った鍵の束を順に鍵穴にさしていく。何本目かの鍵が奥までささり、捻ると重たい音が鳴った。扉を開ける。見覚えのあるみょうじなまえの保険証や免許証やなんかと、もうワンセット同じような知らぬ名前の身分証が束ねてある。
「それってお断りできるんですか」
説明不足の彼女に、私はいつもの調子を装って尋ねた。
『ふざけたこと言ってるんじゃないわよ。逃げろって言ってるのがわからない!?』
ふざけているのはあなたの方だ、と、口を開きかけて、閉じた。わかっている。急を要することくらい、着信があった時点で、彼女の声音を聞いた時点でわかっているのだ。
「…どうしてですか」
『もう組織の存在自体が危ないのよ。あなたをどうこうするどころじゃないの。いいから早く、言うことを聞いて』
組織の存在が危ない。それはつまり、組織という名の犯罪集団が、危機に追い込まれているということだ。なぜ。
私はあの風見という刑事を、スコッチを、そしてバーボンを思い出す。定かではないが、日本の警察が優秀だったということだろうか。
「追われてるんですか」
『そうね。でも今まさにってわけじゃないわ。そうならないために、お願いだから言ったようにして』
「わかりました。もし話していられるなら、概要を教えてもらえませんか?」
私は金庫の中身をひっつかんで、適当に鞄を拾いその中に入れる。鞄を持って階段を降り、車庫へと向かう。
彼女はため息をついてから、仕方ないとでもいうように話を続けた。
追っ手の主格は公安警察で、その捜査にはFBIも協力していること。FBIには以前組織に潜入していたキレものの男がいること。そしてこの一年組織を追い続けている若き探偵に導かれ、組織の中枢が壊滅状態に追い込まれたという事実。
『証拠は揃ってないけど、おそらくバーボンはノックよ。味方にしておけば使えるけど、敵には回したくない相手ね』
ああ、ほら、やっぱりだ。悪になりきれない、強い目をしていたのを覚えている。
私は聞きながら、ガソリンの入ったタンクをひとつずつ運び、二階から順に撒いていく。
公安との交渉中に、本来は伝えないであろうスコッチの存在や結末を私に漏らしたのはなぜなんだろうか。そして、正義を裏切った私をあの時見逃したのは、なぜだろう。
バーボンがノック、つまりスパイだったのなら、私が生き延びていることは知られているということだ。
一階のほとんどにガソリンを撒き終えたところで、表からバイクの音がした。私はタンクを放って、玄関へと向かう。少し離れた場所で、バイクから降りる男がいる。一瞬首をかしげるが、乗っているバイクはいつものハーレーだ。変装している。
「ほとんど撒き終えました」
「持つものは持ったの?」
「はい」
すらりとした男は、ベルモットの声だ。私は小さな鞄を提げて、彼女に歩み寄った。彼女は、私のヘルメットをこちらへと差し出す。私は、素直にそれに手を伸ばせなかった。
「ジンはどこですか」
彼女は私の顔を凝視する。
「まさか死んだなんて言いませんよね」
組織の中枢が壊滅状態だと彼女は言った。それは物理的な意味だろうか。それとも、中枢である人物の話だろうか。
「ジンは、どこにいるんですか」
「…あなたは、どちらで生きていくことにしたのかしら」
彼女は、私の質問を無視して、視線で私の鞄を示した。私のまま生き返るか、他人として生まれ変わるかの選択。
「それを選ぶために聞いています」
もし。もしもジンが彼らに捕まるようなことがあれば、彼ならきっと自害を選ぶだろうと思っていた。拳銃や爆弾を使うような組織を相手にするのなら、いくら日本の警察と言っても生死は問わない可能性もある。命が助かったとしても捕らえられてしまえば、終身刑や死刑だって考えられる。
「……生きているはずよ」
「はず、ですか」
歯切れの悪い物言いだった。
「…わからないのよ。嘘じゃないわ。施設でやりあった時には生きていた。でも、そのあとのことはわからないわ。どこかに潜んでいるのか、奴らに見つかったか」
それがどれほど前の話なのか、どういう状況下であったのか、それを聞くのは今じゃないだろう。可能性があるなら掛けるしかない。私はようやくヘルメットに手を伸ばした。
私たちは館に火を点け、みるみると燃え上がる洋館を後にした。ジャンパーで体格を隠し、彼女の後ろに乗って普段あまり使われていないであろう道を抜けていく。
組織の拠点であった施設は警察に抑えられた。そこにある資料や設備により組織のいろいろな悪事や思惑が露顕することとなり、続々と他の拠点や仲間たちも検挙されているという。逃げられる能力のあるものだけが生き延びているが、こうしている今もその人数は減っているだろう。

山を下って街へと出た。高級住宅地の中でもさらに敷居の高そうな屋敷に、彼女は躊躇なく乗り込んだ。彼女が手元のリモコンを操作すると扉が開き、門を潜るとその扉は閉まった。奥まった車庫へと向かい、そこでバイクを降りた。彼女のイメージとは違う日本家屋だ。屋敷も広そうだが庭も広く、日本庭園の作りをしていた。
この場所はなんなんだろう。
ジャケットのお腹に潜ませていたギンが、もぞもぞと動くのでジャケットのジッパーを下ろすと、ぴょんと地面に着地して伸びをした。彼は無闇に飛び出ていかないので、好きなようにさせておく。
「久しいな」
聞き覚えのある声に振り向く。私はつい目を見張った。そこには杖をついた老紳士が立っている。
「…、会長」
彼は目尻のシワを濃くした。
「お久しぶりですわ」
ベルモットは彼へと歩み寄り、相変わらず美しい、と彼は彼女の手を取って指先にキスをした。彼はベルモットのパトロンだったんだろうか。いや、ベルモットというよりは、組織の、だろうか。
「みょうじくん。君も、よく生きていてくれたね」
そう会長は微笑んで、それから庭園の奥にある離れへと案内した。
モダンな雰囲気の離れで私たちは高級そうなソファに腰をかけて向き合った。彼はあの方の古い友人だと言う。
「ジンのことは、子供の頃から知っていてね。あれは可哀想な子だったよ。しかし、賢く冷静でな。純粋すぎた」
使用人の運んできた紅茶を飲みながら、彼は昔を懐かしむように話した。ジンにも子供だった時代があるのだと、当たり前のことを不思議に感じながら私もティーカップに口をつける。
「組織内でも敵の多い男だろう。私はもはや直接関わることはなかったが、気にはかかっていてな。そもそもいつ死ぬかわからん世界に生きているとはいえ、独りのまま死んでゆくのかと思うと遣る瀬無い気持ちになったものだよ。だから、」
会長は私を見つめて、少しだけ嬉しそうな色を滲ませた。
「あれが君を気に入っているのが、意外だった。そして同時に嬉しくも思ったよ」
彼の知るジンも、スコッチやベルモットの言うように、鋭く冷く非情な男だった。利用価値のなくなったもの、組織への疑いを持つもの、あの方を危険に晒す可能性のあるものは、それが幹部であっても長年の在籍者であっても躊躇なく手を下してきた。自分の全てをあの方に捧げてきたのだ。
「最初は君に隠された能力でもあるのかと思ったんだが」
「…まさか」
「ああ。仕事面では優秀で容姿も悪くないが、あまりに普通だった。君をスカウトするメリットは組織にはないだろう」
調べられていたのか。そりゃあそうか。しかし、自分でもわかっていたが、他人から見てもやはり私はそう見えているのだな、と改めて思う。
「なおさら不思議だったよ。そんな君にあのジンが、心を奪われるなんてなあ」
「あら。案外いい女よ、この子」
「ほう、人はわからんものだな」
ベルモットがすくりと笑う。私だって、ジンが私を好んでくれることやベルモットがこれほど私に協力してくれるほどの自分の価値はわからない。
私は微笑む二人の穏やかさを心地よく思いながらも、気になっていたことをようやく口にする。
「会長は、警察に疑われてはいませんか」
ベルモットからの視線を受けながら、会長の言葉を待つ。
「私は大丈夫だよ。彼らは私には手を出せないからな。疑いを持つものもあるだろうが、何の証拠もないさ」
彼は変わらず穏やかに答えた。その様子を見て、ああ私はきっととんでもない人と今お話をさせて頂いているのだと感じた。掛けられた疑いなどほんの些細なことに出来てしまうほどの何かがあるのだろう。警察にも揺るがせられない何か。
「よかった、」
私はひとまずホッとする。
「そんなことより、ジンのことを聞きたいんじゃあないのかね」
「もし、何か知っていることがあれば伺いたいです。ただ、それで会長が警察に疑われる可能性があるのなら、無理にとは言いません」
ベルモットが、お人好しね、と呟いた。呆れているのだろうか。その割には、口元は緩んでいるので、まさか褒められたんだろうか。
「はっはっは、なるほどな。そういうところか」
「え?」
「ああ、いや。残念ながら、現状では大した情報はないんだよ」
彼は眉を下げた。しかし、その目には諦めや悲しみの色はない。
「だが、死んではおらんだろう。捕まったという話も聞かんしな。警察も居場所を突き止めてはおらんようだ」
「そうですか」
生きていてくれればそれでいい。しかし、捕まってしまっても困る。組織の人間としてのジンをあまりにも知らないせいで、探すにしても心当たりなどは皆無だ。
「ベルモット、ジンは私のことは」
「それが、伝えられていないのよ。その前に、それどころじゃなくなっちゃって。何度か連絡しようとはしてみたんだけど、通じないの」
彼の身に何かあったんだろうか。それとも、ベルモットのことすら疑って連絡を取らないのか、足がつくのを恐れて連絡手段を放棄してしまったか。
「あれにはダイヤモンドリリィを送ってある」
「…ダイヤモンドリリィ、ですか?」
「花言葉は、また会う日を楽しみに、ね」
「じゃあ、」
「だが、タイミングが悪くてな。ちゃんと受け取ったかどうかはわからん」
「十分です、ありがとうございます」
もしジンがそれを受け取っているなら、意味は伝わっているだろうか。伝わったとして、彼に伝えずにいたことを怒るだろうか。それとも、それどころじゃないと手離すだろうか。それでも私は彼を探し出して、会いたい。
「しかし、いいのか。まだあれに関わると、本当に後には返せんよ、みょうじくん」
「構いません」
彼を拾ったあの日から、後悔など一度もない。彼がまだ生きているのなら、彼と一緒に生きる以外、彼の手で死ぬ他に私が今生きている意味はない。だから、もう一度だけでも、彼に会わなければいけないのだ。
会長は参ったという顔で微笑み、それにベルモットもほくそ笑む。
「私の秘書の件、今なら承諾してくれるかい?」
私は驚いて、それからベルモットを見た。好きにしなさい、と彼女は言う。
「でも、私はもう死んだことに…」
「あなた、その鞄の中身は?」
私はとっさに、膝に抱えた鞄に触れる。結局私は、この後の展開を読めずにどちらの身分証も持ってきている。
「警察には名前や経歴しか変えられないけど、私は顔も変えられる」
「、」
そうだ。彼女は変装のプロ。
彼の近くにいれば、警察や人の情報が手に入る可能性は高い。私には、彼らのような技術も人脈もない。迷う理由などないのだ。
「よろしくお願いします」
私は立ち上がって、頭を下げた。涙が出そうで、堪えるのに必死だった。




(黄昏に醒める光を見た)



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