穏やかな日々が続いていた。山奥にぽつりと立っている洋館で過ごし始めて一週間が経つ。都心からさほど離れてはいないはずだけれど、周囲に民家や商店は見渡す限り見えない。ただひたすらに木々が連なっているだけだ。しかし、キッチンに蓄えられた食材だけで数ヶ月は余裕で事足りることだろう。ギンのキャットフードもベルモットが大量に持ってきてくれていた。もはや籠城だな、とぼんやりと思う。今のところ、何に責められていると言うこともないけれど。
あの日、私が組織の手によって殺されたことになっていた裏側でベルモットの手によって匿われていた私は、その後ベルモットと合流してこの洋館を訪れていた。彼女は私に鍵の束だけ渡して、片付いたらまた来るわ、と言い残してひとり山を降りていった。放置プレイですね、と小さくなる背中に呟いてみてからため息をつき、鍵の束から玄関の鍵を探すことからのスタートだった。
時代を感じさせる洋館は、手入れが行き届いていた。定期的にメンテナンスをしているようだ。洗面所やキッチンなど水回りは不自然でない程度にリフォームされている。とりあえず手にある鍵がどこのものなのかを把握するために、ドアというドアを開けたり閉めたりして回った。ギンは気付いたらうろつく私の後を追ってきていて、餌にありつくと広い館内を私とは別に歩いて回っていた。ずっと室内飼いで運動不足だったから丁度いいのかもしれない。私にとっても十分すぎる運動になった。しかし、一週間経った今でも鍵の束の三分の一の用途は不明のままだ。
電気ガス水道になんの不便もないにはないが、テレビもなく、ラジオはマニュアル過ぎて周波が合わせられず、携帯電話はベルモットとの連絡手段でしかないためひたすらに時間を持て余した。外部からの情報はない。あの日の一件がどのように世の中に伝えられているのかも、自分の死がどのように扱われているのかも、知るすべはない。今はようやく三日前に探し当てた書斎の本棚にぎっしり詰まった古い本を読むことで一日の大半が終わって行くだけだ。
廊下から足音が聞こえる。
コツコツと、女性のヒール靴の足音だ。私は本をテーブルに置いて立ち上がる。廊下に顔を出すと、バイクスーツを着た彼女がこちらに向かって歩いてくる。体のラインが出ていてスタイルの良さがよくわかる。まるでランウェイを歩いているようだ。
「ベルモットさん、コーヒー飲みますか?」
「いらないわ。ちゃんと用意してあるから」
そう言って、手に持っていたワインの瓶をこちらに見せた。あなたも付き合いなさい、と彼女は私を押しのけるようにして部屋へと入った。
「あなたにはもうしばらく、ここにいてもらうわ」
バイクスーツからラフな格好に着替えた彼女はソファに座り足を組んだ。
「しばらく、とはどれくらいでしょう?」
クリスタルグラスに注がれた深紅のワインにそれぞれ口をつけ、重厚なリビングで向き合う。
「今のところは数ヶ月。それまで彼にも会わせられないわ」
「構いません。いつも通りです」
半年や一年会わないことだってあるのは、今が初めてではない。待つのは嫌いじゃなかった。
「ここ、見渡す限りの森なんですけど、外出は可能ですか?」
「食料も衣服も十分にあるはずよ。その辺うろつくくらい構わないけど、街に出たいというなら却下ね」
「ちなみに一番近いお店や民家までどれくらいです?」
「歩いて下るつもりならお勧めしないわよ。二人目のあなたまで遺体で発見されたくないでしょう」
それは遭難の末か、野生動物との遭遇の末か。どちらもありそうだ。つまりただ引き篭もるしかないようだった。
「死んだ人間が街をうろつくわけにはいかないわ」
「四十九日中なら許されそうじゃないです?」
「残念だけど、私日本の風習には明るくないの」
気楽なものね、ため息をついた。彼女に随分と働いてもらったことはわかっているけれど、そんな気遣いよりも美人の憂いため息は美しいな、とぼんやりと思う。同性であってもどきりとする。そういえば私、この唇にキスをされたのだ。思い出して、勝手に少しそわそわとした。
彼女に見惚れながらも、会ったら聞かねばと思っていたことを、ようやく口にする。
「ところで、ジンはこの件、知っているんですか?」
彼女はチラリとこちらをみてから、頬杖をついてにこりと微笑んだ。
「当然でしょう?何のためにあなたを救ったと思ってるの」
その笑顔は美しかったけれど、私は彼女に微笑み返すことは出来なかった。
「どうして嘘をつくんですか」
「どうして嘘だと思うの?」
心外ね、と彼女はまたワインを口に含む。この件は私が彼女に直接頼んだことで、あの作戦の説明にも渦中の音声にもジンは現れなかった。もしかしたら私の知らないところでジンが関わっていた可能性も考えたけれど、どうもしっくりこないのだ。理由を問われるとうまく言葉には出来ない。
「勘、じゃ納得してくれませんよね」
「そうね。女の勘は鋭いわ。でもそれじゃ説明にはならない」
彼女には確固たる自信がある。私の身代わりをしていた演技力を持っているのなら当然のことだろう。しかし、私が疑問を抱くのは彼女の振る舞いからではなかった。
「自惚れと言ってしまえばそれまでなんですけど」
私も、グラスに口をつける。
「ジンがこの事を知っているのなら、この一週間の間に、会いにくると思うんですよね」
そう、私が不思議に思うのは、彼の行動だ。いつだってなんの予告もなく現れる彼だけれど、それは私が確実にあの家にいるとわかっての場合であって、こんなイレギュラーな事態を放っておくとは思えない。いつかのように海外へ行っている可能性だってあるけれど、それなら彼女はそう説明したっていいはずだ。しかし、彼女は私が助けを求めてから一度もジンの事に触れもしない。
「…あなた、案外夢見がちなのね」
「そうかもしれません」
でも、だってそうじゃないか。私の知るジンなら、きっとこの場所を突き止めて、とっくに会いに来ているはずだ。
「私を攫いにくるか、私を殺しに、くるはずなんです」
彼は言ったのだ。私が望めば、連れ去るかもしくは自分の手にかけると。あれは、比喩でもなんでもない。何かあった時には、私と彼の間にはその二つしか選択肢はないのだ。まさか今更私が公安に寝返ったなんて勘違いをするわけもない。
彼女は諦めたように重たい口を開いた。
「…あなたは組織からも目をつけられているの」
「組織から?」
なぜ、組織が私のことを注視するのか。組織内の人間ではないのに彼の近くにいるからだろうか。組織に殺されたというスコッチとの面識があるから?それにバーボンという男も私に接触をしてきた。公安が一般人を利用してまで情報を得たい組織だ。それだけのことですら、本来は私が知っていいことではないのかもしれない。しかし、組織の仲間に引き入れるほどの突出した能力もないから、消してしまえばいいという判断だろうか。
「危険因子だと判断されているわ。今あなたが生きていると知れたら、真っ先に疑われるのは彼よ」
「じゃあ尚更ジンに会わせて下さい」
彼女はまたひとつため息をつく。
「あなた、ジンのことを愛してないの?」
「愛してるから、頼んでいます」
愛してるなんて、ジンの前でも言ったことはない。でも、きっとこれは愛なのだと思う。
「組織の判断ということは、あのお方、とあなたたちが呼ぶボスの判断ということですよね。それならジンはその判断を疑わない。ちゃんと、自分の手で私を殺すはずです」
それが彼の忠誠心で、私への愛だ。もし彼が疑われるようなことがあっても、その手で私を確実に始末することはその疑いを晴らすことにもなる。
「私はジュリエットほど夢を見ませんよ」
あの方が私の存在を否定したのなら、彼が一緒に逃げてくれるとは思っていない。一緒に死ぬなんて以ての外だ。それなら選択肢はもう二つじゃない。たった一つだけだ。
ただ、もし組織が私の存在に対してジンを信用していないのだとしたら、私が目をつけられているということ自体がジンに伝わっていない可能性もある。
「…そうならないように、あなたをここに連れて来たのよ」
彼女は少し寂しそうに目を伏せた。私には、それも不思議に思えて仕方ない。
仮に、ジンには内緒で私を殺す算段が組織にあるとするのなら、どうだろう。
「もう一つ、疑問があるんです」
じっと、目の前の美しい人を見つめる。
「どうしてあなたは、私に手を貸したんですか?あの方の判断に背いて私を生かすメリットがあるとは思えません」
むやみに人を信じることだってできるけれど、それで相手を危険にさらすのならそれは信条に反する。
ベルモットは今もこうして私を生かしている。なんなら、バーボンだって、もし直接あの方なり偉い人からの指示を受けていなかったとしても、私がやろうとしていることや組織の目論見やベルモットの作戦をわかった上で私を見逃したのだ。自分が望んで実行したことだけれど、なぜ今あの状況からここで生きてのんびりとしていられるのか。
彼女はじっと私を見つめ返して、それからふっと視線を外し、小さく微笑んだ。何かを思い出すような仕草。その微笑みは私に向けられたものではないような気がした。
「命を拾われるっていうのはね、特別なことなのよ、ジュリエット」
その表情は穏やかで、気高く妖艶な彼女を、無垢な女に見せた。
彼女はグラスを空にすると、すっと立ち上がって私に背を向ける。
「この話は終わりよ。私はあなたを気に入っているの。悪いようにはしないわ」
私は部屋で休むわ、とひらひらと手を振って、部屋を出て行ってしまった。その言葉まで疑う気持ちにはなれず、私はグラスに残ったワインを少しずつ飲みながら、ぼんやりとジンを思っていた。
(亡霊は白昼夢を見ない)
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