寂れたビルの一室でひとり、パイプ椅子に座り一台の携帯電話を握りしめていた。イヤホンからは、見知った声とともに聞きなれない自分の声が聞こえる。自分の声を他人として聞くのは初めてだ。体に響かずに聞くとこんな声をしているのか、と不思議だった。
イヤホンの向こうでは今、公安によるジンの誘き出し作戦と組織による私の殺害計画が進行している。
そう、私は今夜殺されるのだ。
公安から作戦の知らせが届いたのは先週の事だった。組織が犯行を起こすであろう事案を公安が嗅ぎつけたことにより事態は動いた。そこで私を出会そうという算段だ。付近に私がいるとなると、以前のように接触がある可能性が高いと判断したのだ。しかし、実際にはそもそも組織が関係するであろう事件というもの自体が組織側が公安を誘き出し私を巻き込ませるため、犯行を予測しただけの全く関わりのない事件に意図的に組織を匂わせただけのものだ。そこで私は組織のものに捕らわれた末に消されてしまうというストーリーになっている。
そして私は実際にその現場に赴き、見事事件に巻き込まれているところだ。表向きには。
「渦中にいるはずのお姫様が、随分と見窄らしいところでお控えですね」
声が、コンクリートに囲まれた部屋に響いた。今の今まで人の気配など全くなかったのに。私は勢いよく顔を上げ、その声の主を確認する。
金色の髪に青い瞳、褐色の肌。彼女、ベルモットから、彼には気をつけて、と伝えられていたその人だ。すらりとした彼は、見た目だけなら随分と若く見えるが、その様子に隙はない。
「…バーボン、さん、ですね」
彼は穏やかな笑みを浮かべながら、一歩一歩こちらに近付いてくる。耳元では、私が表立った事件の裏で組織に捕らえられたところだ。
「二段構えとは、用意周到ですね。それとも偶然か」
彼も状況を把握しているようだった。その様子は刻一刻と変わってゆく。私は耳元に集中しながらも、彼への既視感を感じていた。
「…バーボンさん、私、あなたに会ったことありますか」
「さぁ。初対面だと思いますけど?」
「そうですか」
どこかで見たような覚えがあるが、思い出せない。ううん、と首をひねる。
彼はふっと息を吐いた。わかりやすいため息だ。そのため息によく似合う呆れ顔をしている。
「危機感がありませんね」
「そんなことないですよ。驚いています」
「そう淡々と言われると説得力がない」
「じゃあ泣き喚いてベルモットにでも助けを呼びかけましょうか」
「できるものなら」
フン、と鼻であしらわれてしまった。自分で言っておいてなんだが、泣き喚くなんて醜態を晒せない程度の羞恥心は持ち合わせているし、ベルモットの邪魔こそできない。
彼女こそ、今渦中で私の姿で動いてくれているのだ。
「予定では私、ひとりでいるはずなんです今」
ただ彼女からの連絡をここで待て、ということだった。そして、ここに来る人間がいれば誰も信用するなとも言われている。
「あなたはどうしてここにいるんですか?」
「暇つぶし、ですかね。彼女があなたのような人にここまでしてやる理由がわからなくて」
「そうですね」
私にもそれはわからない。わからないけど、私は彼女を頼ったし、彼女はそれに応えてくれている。その関係はなんとなく知っているものだ。立場がいつもと逆なだけ。
「しかし、あなたのような人が公安を欺くなんて、驚きましたよ」
「私もです」
人を疑え、信用するなと言われてそれは出来ないと思うのに、自分を信用してくれようとした警察官たちを私は裏切ったのだ。誰かを好きになるって怖いことだなと思う。
しかし、彼は私のことをよく知っているような口ぶりだ。組織の中でも曲者だとベルモットから聞いていたけれど、こういうところだろうか。
「それに、ベルモットがあなたに連絡先を教えてたなんて」
「知りませんよ」
私は自分の手元を見つめる。私の唯一の切り札だ。それは古いタイプの携帯電話。
「これ、一か所にしか連絡取れないんです。それもメールだけ。アドレスは表示されません」
以前ベルモットが家に侵入した際に置いていったものだった。自分でも数日気付かないまま過ごしていたけれど、ふと職場のデスクに置いてある貰い物のぬいぐるみが、自宅にあることに気付いた。同じシリーズのものがいくつか自宅にもあったので気付くのが遅くなったけれど、それが彼女の置き土産だと思ったのはただの勘だ。いつか大切なものの隠し場所としてジンに教えてもらった方法の中のひとつを思い出したのだ。私は職場に置いていたものと彼女の置いていったものを入れ替えておいた。何かあった時に家を探されたらバレてしまうし、会社に疑いがかかった場合は私のような末端の社員まで捜査の手が伸びるまで時間がかかると踏んだからだ。
そのぬいぐるみが何なのかは知らなかった。公安に呼び出されたあとにそのぬいぐるみを思い出しよく調べると、中に何かが入っていることがわかった。取り出した結果がこの携帯だ。
「なるほど。それで彼女に連絡を」
「そう。本当は、私に会いにくるのはもう危険だってジンに伝えて欲しかっただけなんですが、彼女は私を生かしておく計画を立ててくれました」
「それがわからないな」
「そうですね」
でも、私にしたらもしもう一度ジンに会えるなら、もしこれからも彼と一緒にいられるならと思ったら、選択肢はなかった。
不思議なものだ。私が拾ったはずの彼に私を捨てて欲しいと提案し、拾うばかりだった私を彼女は拾ってくれると言う。
「私も自分にそんな価値があるのかわかりません。でも、価値って一つの視点から一概に決められるものでもないことはわかります」
私がリスクを負ってもジンに声をかけたのも、ギンを連れて帰ったのも、誰かにとっては理解のできない行動だろう。
それに、私は人を疑うことが苦手だ。
「ジンと一緒にいた方がいいって言ってくれた人がいるんです」
いたずらっ子みたいに笑う、優しくて冷たい青年。それに、ベルモットだってそう判断したからこうして動いてくれている。ジンがどれだけ間を空けても会いに来てくれるのだってそうだ。私はその好意を信じたい。
「…スコッチ。って、知ってますか?」
彼の瞳が揺らいだのを私は見逃さなかった。
「…ええ、とても、よく」
噛みしめるように言った。彼は、もしかしたら親しかったのかもしれないな、と思った。それは組織の一員としてではなく、個人として。
「彼、私を物好きだと笑って、ジンはやめておいた方がいいって忠告してくれたんです。でも、ジンに私が必要かもしれないとも、言ってくれた」
ぎゅっと携帯を握りしめる。
「彼が亡くなったというのは、本当ですか?」
風見さんの言っていた刑事が、彼だという証拠はない。もし彼だったとしても、私は今夜、消えてしまうことになっている。そんなことが出来るなら、もしかして彼だって、どこかで生きているんじゃないかと、うっすらと期待していた。
彼は、目を伏せて、答えない。
それはきっと、肯定だった。
騒がしかったイヤホンからの音は、いつのまにか途切れている。
「あなたは、私を殺しにきたんじゃないんですか」
どれもこれも憶測だった。バーボンはスコッチを悼んでいる様子だし、そして明確にではないが彼が亡くなったことを誤魔化しはしなかった。スコッチが実は公安の潜入捜査官だったとしたら、もしかしてこの人も、なんて。それなら、公安を裏切った私を見つけて捕らえないのだろうか。もしくは、組織の人間として、わざわざこうして探りを入れてくるということは私に肯定的ではないということだろう。いずれにしても、彼に取っての私の価値などないはずだ。
「……言ったでしょう。暇つぶしです」
彼は可愛らしい顔で、鋭く私を睨むと、すっと視線を流して背を向けた。
手元の携帯が震える。
私は部屋を去っていく彼の背中を見つめ、その姿が消えるまで見守っていた。どこかで小さく罪悪感のようなものを抱える。それでも、私は、ジンのそばにいたい。
彼の姿が見えなくなると、光る画面を見つめ、彼女からのメッセージに目を走らせた。
仮死の毒はよく効いた、あとは目覚めるのを待つだけよ、ジュリエット。そういえば、前にも彼女は私をジュリエットと呼んだ。
私を悲劇のヒロインにしないで欲しい。小さく息をついて、彼女への返信を考える。窓の外では、雨音が鳴りはじめていた。




(涙堪える曇天の日陰だった)



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