思ったよりもはやく、決断の時が来たんだな、と思った。畳と木の匂いに安らぐ。しかし、これがジンや友人と訪れていたのならどんなに良かったことか。
わざわざタクシーを装い、私に拾われ、雑談に交えて私の個人情報をべらべらと聞かされた上に連れてこられた先は、全く知らない料亭の一室だった。一番奥の離れだ。時代物で見たお座敷を思い出していた。この壁の向こうに人の立ち入れるスペースがあって、そこから盗み見聞きできるのだった。それは江戸時代のことで、今やレコーダーや盗聴器、監視カメラがあるのだろうからそんなことはないだろうけど、と思考を泳がせる。
目の前に座る真面目な顔のスーツの男は、警視庁公安部の刑事だという。
「我々としては、あなたの身の安全が最優先と考えている」
顔は変えられないが、住む場所や職場を変えろと、彼は淡々と提案する。不安ならば名前も変えられる、それに必要なものはこちらで全て揃えよう。書類を読み上げるように言う彼は、きっと仕事のできる男なんだろうな、と思いながら眺めていた。風見さんと言った。
「身の安全は、今のままで十分守られていますが」
「あなたは知らないかもしれませんが、彼は凶悪な犯罪組織の中枢の人間です」
「そうだとしても、私の前ではそんな素振りはありません」
「みょうじさん、騙されてるんですよ、あなたは」
話の通じない相手だ、と思われている。彼は苛立ちを滲ませていた。私の緊張感のなさが気に入らないんだろう。
彼と向き合って最初の三十分、ジンという男を知っているな、という言葉から始まって、彼がいかに凶悪で組織がいかに強大かの説明を受けた。ドラマのあらすじを聞いているみたいだなと思う。
「次の優先事項はなんなんですか」
「…あなたの協力を得ることだ」
「私を囮に、彼を捕らえようと?」
一般人を巻き込む権限が彼らにはあるのか、と関心した。利用できるものは利用する精神は、私には持てないが嫌いではなかった。
「どちらも拒否した場合は?」
「あなたの腕に手錠がかかることになる」
「そうですか。私には彼よりよっぽど、日本の警察がおそろしいですね」
私は目の前に置かれたお茶を一口すすり、考える。どうしようか。選択を迫られるのは組織からだと思っていたけれど、こういう展開もあるとは考えていなかった。彼女があの時見逃してくれたというのは、組織から動くことはないということだったんだろうか。
組織の規模は、思ったより大変なもののようだ。把握されている事件はずいぶん昔のものもあるらしいが、それでも掴んでいる情報は少ないのだという。彼を捕まえるまでいかずとも、それがどんなに小さな情報だろうと喉から手が出るほど欲しい、ということか。私にここまでするくらいだ。
「わかりました、協力します。引っ越しや転職はその後でも?」
「本当か」
「嘘も犯罪になるんですよね」
もっとごねると思われていたのか、彼は少し安堵したように眉を一瞬下げた。
「ところで、どうして私がジンと親しいとわかったんです?調べはついていると言いましたけど、そんな心当たり、ありませんが」
私はまたお茶をすする。探りを入れるというよりは、単純な疑問だった。
「捜査内容を教えることはできない」
「では、シラを切り通せばよかったですね」
私に辿り着いた理由がわからない。一番注目を浴びたとしたら、会社にジンの車で迎えがあったことだろうか。しかし、それなら私に直接交渉をするよりもまず会長あたりとの繋がりの方が警察としては追いやすいのではないか。確かに、スコッチやあの美しい彼女との接触はあったものの、二人とももう一年以上会ってはいない。ジンとは相変わらず数ヶ月に一度会っているけれど、外で会うことは滅多にない。
「あなたがジンの車に乗っているところを目撃したものがいる」
「それだけで、ジンを罠に嵌められるほどの人物だと思ったんですか?」
もしもその行先や私の家への出入りまで見届けられていたのなら疑いの余地はあるだろうけれど、まさかジンがそんなヘマをするとは思えない。それに、疑いがかかったなら選択肢などなく私を捕まえてただ尋問すればいいだけの話だ。誰か、私とジンを知る人物からのリークだろうか。しかし、組織の人間以外で共通の知人はいないし、私から恋人の存在、ジンの存在をほのめかすようなことはしたことがない。
「情報源がいるんですね」
私と彼を結ぶ証拠なんて、きっとないんじゃないだろうか。あったら、これでもかと提示してくるもんじゃないだろうか。物的証拠がないのにこの確信的な態度は、例えば私たちのことを知っている人物からの証言ではないか。そして警察が信用に足ると思えるほどの証言。
「公安警察は潜入捜査もされるんですよね」
組織内でどれだけ私のことを知られているのかはわからないけれど、察するにそんな証言が出てくるのなら、そういうことしか拙い私の頭では思いつかない。
「捜査内容は教えられないと言っただろう」
「国家権力といえど、信用出来ない相手に協力はできません」
「それならあなたを逮捕するだけだ」
「私を逮捕することで組織に近付けることが、一つでもおありだと思ってそう判断を下すなら、公安警察も大したことないんですね」
彼の瞳が私を睨んだ。ジンの冷たい瞳に慣れてしまった私には、そんな睨みは効かない。
何の情報も持たない私が逮捕されたところで、組織からの助けがあるわけはない。そして何の情報も持たない私を警察が逮捕するメリットもない。
彼が言葉を飲み込んでいる沈黙の中、バイブ音が響いた。彼は、失礼、と立ち上がり、部屋の表へと出る。電話だ。
小声で、ぼそぼそと話しているのがわかる。しかし、ですが、と声を荒げる。焦りのある声だ。彼はグッと口を一文字に結んで戻ってきた。座布団の上に座ると、重たそうに口を開く。
「本来ならばあなたに伝えることのない事項です。他言無用にして頂きたい」
「もちろんです」
「あなたに対する情報源は、先程あなたが言ったように、組織に潜入していた捜査員からのものです」
このことを話す許可が、今の電話で出たようだった。つまり、その電話の相手はこの会話を聞いているということだ。タイミングが良すぎる。風見さんよりも、権限の大きい存在がいる。なぜ本人が出て来ないのか。私に顔を見せられないということは、過去もしくは今後、私の前に警察としてではなく顔を合わせる可能性があるからだろうか。これほどあからさまにこの交渉に干渉するのなら、直接出てきた方が話が早いだろう。
もし本当に情報源が潜入している者だとしたら、私とジンのことを知っている組織の人物。スコッチと彼女、あるいはいつか駅のホームでスコッチと一緒にいた二人という可能性もある。しかし、当てずっぽうだけれど、もしもその中に公安警察の潜入捜査官がいるのならば、おそらく彼だろうか。
「その刑事は、なるべくあなたを巻き込みたくなかったようだが、そうもいかなくなった」
なるほど、それでこのタイムラグか。
「…彼はまだ、組織に?」
「いや…」
言い出しにくそうに、彼は視線を外した。間を開けて、口が開かれる。
私は、耳を疑った。
「殉職、されました」
あの、いたずらっ子みたいな笑顔を思い出す。本当だろうか。そういうことにして、目の前の彼に指示を出しているわけではないのだろうか。それなら、その方が良かった。
「……それは、組織に…?」
「おそらく」
「そう、ですか」
たった二度会っただけの男だった。少年の面影を残した笑い方をする人だった。
冷徹な男だと、彼はジンを評した。疑わしきは罰せよ。彼は、罰せられたのか。ジンを騙して、疑われた結果。
『あの男にはあんたみたいなのが必要なのかもな』
たった二度会っただけの間に、彼は私の心に刺さる言葉をいくつも残す。じゃあ、と片手をあげた彼を、それにひらひらと手を振ったことを、思い出す。もう二度と会わないんじゃないかと思ったけれど、それはこんな形での意味ではなかったのにな。私は、ぎゅっとテーブルの下で自分の手を握った。自分の憶測が、当たっていなければいいと願った。
その後、詳しいことは追って連絡する、と告げられ、最寄り駅まで送ってもらった。自宅に近寄らせたくはなかったし、彼らもそれは避けたいようだった。自分たちの存在を悟られるわけにはいかないだろう。
私が帰ると、ギンが玄関先へやってきて私に擦り寄った。ナァ、と不安そうな鳴き声だ。私は彼を抱き上げて、リビングに向かった。
部屋を見回す。なんの変哲も無い我が家だ。しかし、なんとなく違和感がある。気の持ちようだろうか。
私を外に留めておく間に、この部屋に盗聴器や隠しカメラを設置している可能性は大いにある。さりげなく友人に電話をかけノイズをチェックしてみたり、夕食や服を撮りながら赤外線のチェックをしてみたが、どちらも引っかからない。しかし、公安警察という響きからして、そんな素人が見つけてしまうような仕掛け方をしないだろう。
携帯は電源を落とすことを条件に没収は免れたため、何か仕組まれていることはないが、通信記録は調べられる可能性はある。
監視されているとしたらあまり家を探るような行動を取ると不審に思われそうなので、それ以降はもう気にするのはやめた。
私の切り札は、ここにはない。盗聴器や隠しカメラの探し方、大切なものの隠し場所。ジンから教わった大げさだと思っていた知識が、まさか役に立つ時が来たなんて思わなかった。
明日からのことは明日考えよう。枕元に丸くなるギンを撫でながら、私は眠りに落ちた。




(冷ややかに心刺される黄昏だった)



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