お風呂から上がり、脱衣所で体を拭いていると、ギンの鳴き声が聞こえた。いつもの可愛らしい鳴き声ではなく、発情期のそれのような迫力のあるものだ。私は首をかしげる。またジンが勝手に上がっているんだろうか。しかし、ちょくちょく喧嘩をしてはいるけれど、こんな風にギンが興奮することは今までなかった。バスタオルだけ巻いて、リビングへと向かう。
「ギン?」
ギンは鳴くのをやめて、ソファの上で威嚇体勢をとっている。毛が逆立って、いつもより一回り大きい。
「どうしたの、ギン…」
「その子、ギンっていうの?誰かさんに似てるもの、ねえみょうじなまえさん?」
「!」
耳元で艶やかな声が囁かれる。背中に硬いものが押し付けられた。私は動きを止める。
「…どなたですか?」
「あら、思ったより冷静じゃない」
「まさか、」
そんなわけはない。背中に触れるものが何かはわからないが、最悪の場合を考えるとそれは銃口だろう。まったくこの街は物騒で、おかしなほど頻発する殺人事件の中でも平和な国とは思い難いほど銃殺という殺害方法が目につく。
彼女はギンを見ておそらくジンを連想した。彼が当然のように拳銃を所持しているなら、彼を知る誰かだって持っていてもおかしくはない。
心臓の音がうるさい。
「あなた、どういうつもりでジンと関係を持ってるかしら」
「どういう、」
彼女は後ろから私の胸元に手を回し、巻いたバスタオルの折り込みを引き抜く。パサリとバスタオルが足元に落ちる。下着ひとつ身につけていない体が露わになる。
「綺麗な体」
「、」
突きつけた銃口をずらして、背筋に沿って腰まで滑らせる。
「この身体でジンを誘惑したの」
「誘惑なんて、」
ハッとして、初めての行為を思い出した。身体を武器にしたつもりはないが、誘っていないとは言えない。
「似合ってたわよ、私が選んであげたドレス」
「、…ありがとうございます」
どのドレスのことだろうか。もしかして全てだろうか。あれはジンからの贈り物のはずだけれど、彼女が選んでいたのか。なるほど女性のアドバイザーがいたのならあのセンスにも理解が出来る。
「…あの、もしかして、ジンの恋人とか、ですか?」
思い当たったのは、いつか見た美しい女性だ。ジンと親しそうに話していた。ジンとの関係を問われるような心当たりも、ジンからの贈り物に彼女が関わる理由も、それしか思いつかない。
彼女は一瞬黙って、それからおかしそうに笑った。
「私が?ジンの恋人?」
「ち、違ったらすみません」
「違うわ。勘弁して頂戴。それに、ジンの恋人はあなたでしょう?」
笑いながら、彼女は銃を私の体から離して、緩やかな動作で私の前に回った。透けるようなブロンドの髪に、長い睫毛、白い肌、紅の塗られた薄い唇は艶やかだ。やっぱり、あの時ジンと一緒にいた女性だ。直近でみるとなおのこと綺麗でつい凝視してしまう。ギンは警戒した様子を見せながらもソファを降り、寝室のベッドの下に隠れてしまった。
「どうしてジンなのかしら」
「え、?」
見惚れていた私は、間抜けな声を上げる。彼女はくっと私の顎を取り、まるでキスするように自分を向かせた。彼女からのあからさまな敵意がなくなり、同時に自分の緊張感も失っていた。
「あなたなら、もっと無難な男を捕まえられるでしょう?」
そうだろうか。腰に回された手にドギマギしながら考える。考えるが、そういう思考を持って生きてこなかった、という点に尽きる。
「考えたことなかったです…。それに、ジンは確かに無難とは言えませんけど、難があるとも思いませんが」
「…あなた本気で言ってるの?」
いつかジンにも言われた台詞だった。なぜこんなにも本気を疑われなければならないのか。おそらく彼女も組織の人間なのだろうけれど、人間不信者の集まりなのだろうか。
「口も態度も悪いしあんまり素直ではないですし割とわかりにくいですけど、案外優しいし結構可愛いところあると思ってるんですけど」
「優しい?可愛い?あなた大丈夫?」
彼女は目を見張って本気で不可解だという顔をしている。彼女は呆れたようにため息をつき、するりと私に触れていた手を離すとソファへと座った。
スコッチと話しても思ったけれど、組織内での彼の顔とは一体なんなんだろう。この様子を見ると、彼女は本当に彼の恋人もしくはそれに準ずる存在ではないようだった。そこに、なぜか安堵する自分がいて、首を傾げた。
「あんなのでも所詮男ってことなのかしら」
彼女は軽く頭を抱えてため息をついた。
彼女が何者なのか一向にわからないが、とりあえず着替えてもいいだろうか。私は一応彼女に断ってから、服を着る。
「あなたがジンに本気なのはわかったけど、問題はジンがあなたに惚れ込んでいることよ」
「惚れ込んでる、」
「自覚がない顔するのね」
大切にされていることはわかる。お気に入り、という程度には自覚があるが、彼が恋愛感情を持っているのかはわからなかった。
「他に女なんて居ないわよ、きっと。ドレスだって私を呼んだわりに自分で決めちゃったし」
「そうなんですね」
「…あっさりしてるのね。私といるのを見て隠れたわりに」
「あ、あれはあなたに見惚れてしまって失礼かなと思って焦ってたんです」
ふぅん?と彼女は口元で微笑んだ。するりと細い指先が私の手を取って、そのままぐっと引っ張られる。
声を上げる間も無く、ぐるりと世界が反転した。前にもこんな事があったな、と思いながらソファに仰向けに倒される。
「その真っ直ぐな目と言葉に彼も射止められたのかしら」
指先が、私の唇に触れた。
「ねえ、あなた私たちの仲間にならない?」
「組織、というやつのですか」
「本当に何も知らないわけじゃないのね」
「オフレコです」
スコッチと話したことを思い出していた。話したことは内緒にと言われていたはずだ。ジンに、って言ってたかな。ジンにじゃなきゃいいかな。きっと、だめだろうな。しかし、口から出てしまった言葉は戻らない。
「今はまだいいわ。見逃してあげる。でも今後もあなたがジンと関係を続けたいなら組織の管理下に入るしかなくなる時が来るわ。それが嫌なら、あなたを消さなければならなくなる」
彼女は私の髪を撫でるようにして首筋から鎖骨へと指を滑らせる。彼女の髪が頬に触れた。瞬きをするたびに睫毛の影が揺れる。忠告をする唇には綺麗に紅が引かれていて、艶やかだ。
「聞いてるの?」
「…ジンが望むなら」
じっと、緑色の瞳を見つめた。
「ジンが望むなら、どちらでも構いませんよ、私」
そう笑った。彼女はそれを聞いて驚いた顔をしてから、ふっと呆れたように微笑んだ。
「気に入ったわ。可愛がってあげたいところだけど、時間切れね」
彼女はそう言うと、どこからか小さな瓶を取り出して、その中から錠剤を一粒口に含んだ。そしてしなやかな指で私の顎をくっと持ち上げ、顔を寄せる。
「…っ」
唇が触れる。まさか女性にキスをされるとは思っていなくて、簡単に唇の隙間から舌が入り込む。唾液とともに、錠剤が舌に触れ、喉の奥へと流し込まれた。
「っは、」
「Good night,Juliet」
唇を離した彼女は耳元でそういうと、体を起こして部屋の奥へと消えてしまった。何が起こったのか理解が追いつかずに体を起こすと、寝室の窓が開いている。
それと入れ代わるように、玄関先で物音がした。
「ジン」
珍しく慌てた様子でリビングへ入ってきたのは紛れもなくジンだった。彼は、呆然とソファに座り込む私の姿と部屋の様子を確認し、寝室からギンの鳴き声がする事に気付いてひとまず寝室の窓を閉めた。
「あのアマ」
憎らしそうに呟いた。ああ、彼女はジンの恋人じゃなかったんだ、と改めて思う。私ですら言われていない暴言を恋人に吐くはずはないだろう。あれ、でもスコッチや彼女曰く、私が恋人なんだっけ。
私は急に喉に乾きを覚えて、キッチンへと向かった。お風呂から上がってそのままだったからだろう。着替えさせてくれたので湯冷めはしなかったけれど、緊張感から解放されたせいか逆に心臓が大きく脈打っている気がする。
グラスに水を注ぎ、一気に飲み干す。喉が鳴る。
「何をされた」
「何かされたこと、前提なんですね」
ジンは彼女がここにいたことを知っている。彼女もジンが来ることを見越していたんだろう。時間切れ、と言っていた。
シンクに空になったグラスを置いた。やけに上がる体温を気にしてパタパタと手で自分を扇ぎながら、彼の横を抜けてソファに座る。
「あの女が何もしないわけがねぇ」
「…そう、」
なんでもないのに、息が乱れる。体が熱い。ジンを見れずに、テーブルの端をぼんやりと見つめる。
「おい」
ジンが私の目の前にしゃがみ込み、覗き込むように目を合わせた。私の顔を見て、微かに目を細める。
彼の指が私の唇を拭うように滑る。びくりと、体が反応する。
「これは」
ジンの指には、赤い口紅がこびり付いていた。ああ、彼女の口紅だ。さっき、私の唇についてしまったみたいだ。
「…き、キスされたので、その時に」
「何故嘘をついた」
「う、嘘はついて、ないです。…ジン、それよりちょっと、離れて」
声が震えそうだ。体がおかしい。ずりずりと、ジンから離れようとお尻を引きずる。
「あ?」
怒らせただろうか。でも、今は駄目だ。きっと、今は駄目だ。目も合わせられない。
「お願い、します、ジ…」
言い終わる前に、噛み付かれた。彼女のキスを塗り替えるように、ジンの舌が唇を舐め、舌を舐める。
「ん…っ、は」
懸命に彼の体を押す。無駄な抵抗なのはわかっている。体に力が入らず、キスは止まない。
「ジ、ン…」
「あの女に絆されたか」
耳元で囁く。息がかかる。舌が耳たぶを、首筋を這う。
「た、だめ、ちが、うんです、きいて」
「じゃあ何だ」
「ん、…っ薬を、」
彼は動きを止めて、私をじっと見つめる。は、と熱い息を吐きながら、その間に言葉を紡ぐ。
「口移しで、なにか、錠剤を飲まされて…その、せいで多分、今、だめなんです…」
「…馬鹿が。薬を飲まされたのに水を飲んだのか。すぐに吐き出せ」
「だ、だって、体がうまく…」
息が上がって、上手く話せない。これはきっと、毒ではない。彼女は、今は見逃すと言った。言ったからには、ここで私の命を取ろうというわけではないだろう。
「チ、そういうことか」
どういう、ことだろうか。
「それは最近出回ってる新薬だろう」
ジンは言いながら器用に私のシャツのボタンを外していく。やめてという意味を込めてその手に触れるが、力が入らず添えるだけで止められない。
「新、薬…?合法、ですか?」
「ンなわけがねぇ」
そっと指先が肌に触れる。
「っ、ちなみに、なんの薬ですか…」
ジンはチラリと私を見た。
「精力剤みたいなモンだ。媚薬ともとれるな」
「び、やく」
「だから疑えって言ってるだろうが」
そんなもの実在していたのか。非合法なら、ということだろうか。しかし、予想していた範囲内の回答だった。まさかとは思ったけど、当たって欲しくなかった。だから、今ジンと接触してはいけないと判断したのに。
ジンはじっと私をみつめる。それだけで、胸が高鳴る。
「もう黙ってることはねぇだろうな?」
「…仲間に、ならないかって」
彼女の言葉を思い出す。
今後、ジンと関係を続けていくのなら、組織の管理下に置かれるか、消されるかの二択を迫られることになる。するりとシャツが肩から落ちた。
「…っそもそも、ジンって、私のこと、好きなんですか」
「お前は好きでもない男と寝るのか」
「ジンは、…好きじゃない女性とでも、寝そうです」
彼は少し考えるようにして、黙った。それはそうだ、という顔をしている。正直、さっきの彼女だって恋人ではなくても関係はあったんだろうな、と勝手に思っている。ただの勘だし、だから何というわけではないけれど。
私は渾身の力で、私の肌を撫でるその手を取って止める。
「き、聞き方を、かえますね?…私、ジンの恋人、なんですか?」
「違うのか」
「……なんで、私に聞くんですか」
当たり前のように驚くから、こちらが驚いてしまった。他人からそう見えるだけじゃなかったようだ。妙に嬉しくて、ふふ、と笑みがもれる。薬のせいもあってか、高揚感を覚える。
「ジン、は、どっちがいいですか」
「よく喋るな」
「気を、紛らわしてるんです」
はあ、と吐く息は熱く、うっすらと汗もかいている。少しの衣擦れにだって肌を撫でられるような感覚が走る。
「私を、仲間に引き込むか、その手で、私を消し去るか」
「好きなようにしろ」
彼は静かに言った。
「お前が望むなら、俺は連れ去りもするし、ちゃんとこの手にかけてやる」
ああ、なんてことだろう。愛を囁かれるよりも、よっぽど心臓に悪い。同じ気持ちでいるのだ。同じだけの想いを持っている。それがひどく嬉しくて、むずがゆくて、口元が緩む。今すぐ彼にキスをして、抱きしめて、抱かれたい。思考が、薬の効果に侵されている。
「他人にお膳立てされるのは好きじゃねぇが、どうする」
彼はトン、と私の胸の間を指差した。びくりと体が反応する。どうする、と問われても、もう頭が回らない。さっき触れられたことばかりを思い出す。唇が、耳元が、首筋が熱い。
「その即効性からして、効果の持続時間は5、6時間」
「な、がい…」
「耐えられるか?」
正直、わからない。わからないけれど、どうしたらいいかもわからない。
私に問うその唇が、私を見る鋭い瞳が、垂れる髪が、覗く首筋が、骨ばった大きな手が、愛しい。
「たえ、られない、です」
甘ったるい声が自分の耳に届く。ジンが、小さく笑った。
「俺もだ」
そう囁いた彼の唇に、痺れを切らしてキスをした。私からしたら初めてのキスだった。
(甘く残香に酔う夜だった)
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