さわさわと頬を柔らかい何かにくすぐられて目を覚ました。目を開けると、目の前に黒い毛玉、もといギンが座り込んでこちらを見つめている。もぞもぞと手探りで携帯を探し出し時間を見る。もうすぐお昼だ。休みの日とはいえ寝過ぎてしまった。ギンはナァ、と鳴きながら左の前脚で催促するようにちょんちょんと私を踏む。
特に用事もない、なんの変哲も無い休日だった。のそりと起き上がり、ぼんやりと何をしようか考える。軽く部屋の掃除はするとして、夕方までに買い物に行ければもう本当にほかの用事がない。どうしようかな。ゆるゆるとカーテンを開けると、天気がいい。出掛けるのもアリだけれど、何か見るものはあったかしらと思考を巡らせる。ひとまず、私もギンも何かお腹に入れなくちゃ、と冷蔵庫の中身を思い出しながらキッチンに向かおうとリビングへのドアを開けた。
「…」
テーブルに、無造作に花束が置かれていた。赤いバラだ。しかも、普通のボリュームじゃあない。持とうとしたら両手がふさがるボリューム感だ。数えてみる気にはなれないけれど、まさか百本あるんだろうか。どんな顔でこの花束を注文したのかを考えると、つい口元が緩んだ。
昨日、眠る頃には確かになかったものを眺めながら、私は贈り主を確信していた。ソファに座り、バラの束の向こうに隠れていた紙箱を見つけ、その上に置かれたカードに手を伸ばす。
そこには時間とジンのサインだけが記されていた。紙箱は二つ。ひとつはドレスで、ひとつはパンプスだった。文面までぶっきらぼうな彼は、一体どこでこんなものを手に入れてくるんだろうか。今回のドレスはラベンダーカラーのシフォン生地のものだった。三十を迎えた私には可愛すぎないだろうか。うーむ、と悩みながらも、好きなひとから贈られたドレスに袖を通すのは楽しみだ。
ふふ、と私は一人でにやにやし、ナァナァと鳴き続けるギンのご飯の支度をしながら、今日の予定を考え直した。
適当にトーストを食べてから洗濯機を回し、その間に買い物を済ませる。洗濯物を干し、作り置き分の惣菜を作って一息つくと、支度に取り掛かった。何度か高級なお店に連れて行ってくれたせいで、お出掛けの身支度にも少し手慣れてきている。ドレスが柔らかいから、軽く髪を巻いてまとめすぎないようにしようとか、ネイルは磨くだけで色は乗せないでおこうとか、化粧もなるべくナチュラルに、でもきちんと感は出さないととか、彼と出会う前には蔑ろにしていたお洒落や気遣いを学んでいた。好きなひとに会うための準備がこんなにも楽しく思えるなんて思わなかった。
ヘアセットとメイクを済ませてから、洗濯物を取り込み、家のことを全て終えてドレスに袖を通す。甘い生地だけれど、ふわふわとしすぎずウエストがしっかり絞られて絶妙なラインだ。幼くなってしまわないか、若作りして見えないか心配だったけれど、女性らしく上品に見える。彼のセンスはどうなっているんだ、と感動した。
時間指定しかされていないので、支度を済ませて自宅で待つ。時間ぴったりに、いつかも運転手をしてたサングラスの彼がお迎えに来てくれた。
「ご機嫌よう、ウォッカ」
「ご機嫌ですね、なまえのアネキは」
「アネキはやめてくださいってば」
「他に呼び方がわからねぇんで」
いつかの威圧的な態度とは違い、彼はまるで本当にジンの弟のようだった。初めて彼を認識してからも何度か運転してくれているけれど、思ったよりも気さくで、少し抜けていて可愛いひとだ。
彼は細い路地の途中で車を停めた。車のドアを開けたのはジンだ。私はそれに促されて、車を降りる。
「ありがとうございます」
「…構わねえでください」
彼は少し照れたように言うと、ジンと視線を交わして、すぐに車を出した。
ジンは自然な仕草で私の腰を抱いた。
「ウォッカまで口説くのか?」
彼は真顔のまま呟いた。感謝の言葉を口にしただけでなぜ口説くということになるのか。それに、ウォッカまで、だなんて言い方は、他にも誰かを口説いたことがあるみたいだ。
「彼にはあなたがいるから、口説かれてなんてくれないですよ」
私がくすりと笑うと、彼は少し唇をへの字に曲げた。
「ジンも、ありがとうございます。ドレス、変じゃないですか?」
「ああ、合格だ」
言って、彼は私の額に唇を落とした。
ジンに連れられて入ったのは、路地に建ち並ぶお店の一つだった。細い階段で地下へと潜っていく。分厚い扉を開けて店内へ入ると、ロマンチックを通り越して少し怪しいくらいの薄暗さだ。しかし、下品な騒めきなどはなく、落ち着いた囁きがBGMと混じって雰囲気がある。店内を横切って、カウンターに立つ年配のバーテンダーに声をかけると、彼はにこやかに微笑み、無言で奥を見た。ジンはまた歩みを進め、私は連れられて視線の方向へ進む。バーテンダーは私と目が合うと、さっきとは少し違う柔らかな微笑みを浮かべたけれど、何かを問う間も無く、私たちは奥の別室へ入った。
落ち着いた雰囲気はそのままだけれど、この部屋の方が幾分か明るい。使い込まれてはいるけれど大切にされているとわかるテーブルや椅子は、ヴィンテージものだろうか。テーブルには二人分の食器がセットされている。先程通ってきた店内は喫茶やバーのような雰囲気だったけれど、並べられた食器を見る限り食事も提供するようだ。
「ジンはすごいところばっかり知っていますね」
「別にすごかねーだろ」
「私みたいなのは、こんな素敵なお店、一生存在を知らないで生きていきますよ」
「何言ってんだ。今知ってるじゃねえか」
それはそうだ。でもそう言う意味ではない。
「ジンはいつも私の知らない世界を見せてくれますね」
彼と出かける時はいつも、一介のOLが訪れることのないような場所に赴く。そもそも、ジンの住む世界は本来私の住む世界とはかけ離れているのだ。そこに劣等感まではないけれど、知らない世界を垣間見るのはいつだってわくわくするし、少しだけこわい。
「気に入らなければ場所を変える」
「そうじゃなくて、嬉しいって意味です」
一人なら絶対に知らない場所、そして知ったとしても踏み入れられない場所に、彼は悠然と足を運ぶ。小さな不安は、彼の存在で吹き飛ばされてしまう。
話をしているうちに、料理が運ばれてくる。ジンと訪れる飲食店は、確実に美味しいものが出てくる。今日ももちろん、見た目も味も絶品だ。
「そういえば、ウォッカはいつも別ですよね。お仕事ですか?」
「日による」
「ちなみに今日は」
「さあな」
秘密なのか把握していないのかわからない答えだ。私は相変わらずナイフとフォークの使い方が綺麗だな、と思いながら話を続ける。
「次はウォッカも一緒にどうでしょうか?」
「俺じゃ不満か」
「まさか。でも、いつも送り迎えしてくれてますし、もしも他に用事がないのならぜひ」
「…ああ」
少し不服そうに頷いた。何度か送り迎えをされている間にウォッカと話をするようになりわかったのは、普段ジンのお世話まで彼がしているということだ。古い付き合いらしい。それこそ兄弟のようなものなのかな、と私は感じている。そこに私が踏み入っていいものかはわからないけれど、たまに交えて食事をするくらいはいいだろう。足にしてばかりではなんとなく申し訳ないし、大人数は苦手だけれど、食事は複数人でした方が楽しい。もちろん、ジンと二人きりが不服だなんてことは全くない。
「ジンはどうして私に構うんですか?」
食後のデザートまで食べ終えて、ふと言葉にした。ジンにはデザートは出ていなくて、代わりではないが煙草を飲んでいる。
「…どういう意味だ」
「ええと、私は楽しいし、嬉しいですけど、ジンにメリットはあるんでしょうか」
彼は、じっと私を見つめて、答えない。
その間に、空いたお皿は下げられ、ドリンクが置かれた。私はつい彼から視線を外し、目の前に置かれたグラスを見つめる。
「バラの花…」
グラスには薄くピンク色に色付いたワインの中に、一輪のバラの花が浮いている。綺麗、と思うと同時に、昼間リビングで見つけたバラの花束を思い出す。
「…お前はどうして俺を助けた」
それは、さっきの私の質問への回答だった。ああ、なるほど。その返しは、ずるいなあ。私はつい口元が緩んだ。理由なんてない。あえて言うなら、気になってしまったからだ。それだけのこと。
「ねえ、ジン、あの花束はどうしたんですか?」
どうして、花束なのか。今までも唐突なプレゼントはもらったことがあるが、あんな派手な贈り物は初めてだ。
「気付いてないのか」
「え?」
プレゼントと言っても、あの高級ホテルでのドレスやアクセサリーなどの一式が初めてで、その後も行く先に必要なドレスコードに沿って用意されたものをそのままもらうかたちで贈られている。今回のパターンは私にとっては変化球だった。
「ちなみに、あれは100本あるんですか?」
「……99」
煙草を加えながら呟いた。私は目の前のグラスに沈むバラを見つめる。
「ふふ。じゃあ、これが100本目ですね」
海外のベタなドラマみたいだ、と少し心が浮き足立つ。記念日やプロポーズの時に贈るアレだ。私はグラスに口をつけて、ふと思い出す。
そういえば、初めてドレスをプレゼントされたのは彼を拾って一年程経った頃だった。それ以降も、食事をしたり服やアクセサリーをもらったのって、同じような時期だった気がする。コクリとワインを喉へと流して、考える。彼と出会ってから、何年経つ?そして彼からの贈り物は何度目?頭の中で指折り数える。
「5年…」
五年目で、五回目だ。つまり、出会った日を記念日として贈られている。じゃあ、このバラはどうして突然。キリのよさ、と言うことだろうか。
彼は煙を吐き出しながら、こちらに視線をくれはしない。なんて律儀な人なんだろうか。全く気付いていなかったことが申し訳なく思えるくらいに、いじらしい。
「そういうところ、すごく、好きです」
私はにやけるのを隠すために口元を覆って、それなのに緩んだ表情よりももっと隠すべきかもしれない感情を漏らしていた。視線の先で、ジンが驚いた顔をしている。ああ彼でも、そんな表情を、するの。
彼はガタリと立ち上がり、行くぞ、といつもの調子で行って、つかつかと部屋の出口へと向かって行く。私は慌ててそれを追った。ドアノブに手をかけたジンの、もう片方の手を慌てて掴む。
「ジン」
「…なんだ」
「今のは、曖昧な気持ちじゃありませんから」
以前問われた時は、確かじゃなかった感情は、今はたしかに肯定されている。
彼はドアノブから手を離すと、ぐっと私を引き寄せて唇を奪った。
「あまり煽るな」
ぼそりと囁いて、私が掴んだはずの手に引っ張られて、店を出た。迷いのない足取りで進み、近くのホテルへと直行する。もともと予約を取っていたのか、フロントは無視してエレベーターへと乗り込んだ。
「ジ、んっ」
エレベーターに乗った直後、両腕で抱きしめられ深いキスが降る。彼の歩調に慌ててついていくのにあがった息を、彼に飲まれる。
きっと今日と帰れない。私は彼の背中に手を伸ばして、その苦いキスに溺れた。




(深紅に溺れる夜だった)



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