久しぶりに学生時代の友人と会う約束があり、ひとつ目の乗り換えのために駅に降りたところで携帯が鳴った。子供が熱を出してしまって、出かけるのは難しいとのことだ。三十路も目前に迫ると、友人たちは続々と結婚して、ちらほら子供のいる子も増えてきていた。仕方ない、私のことは気にしないで、また今度誘うから、と心底残念そうな友人を励ます。
電話を切って、さてどうしようかと、乗るはずだった電車が発車し、駅を離れていくのを眺める。その視界の隅に、見覚えのある顔を見つけた。
スコッチだ。背中にはギターかベースの黒いケースを背負っている。その隣には長身で長髪の黒づくめの男がやはりギターケースを背負っていて、その向こうにも柱に隠れてよく見えないが、距離感からして連れであろう人影がある。それほど目立つわけではないが、気が付いてしまうと目が離せない人たちだな、と思う。
スコッチの奥に立つ黒服の男と目が合った。鋭い瞳。彼は黒髪だけれど、ジンと同じくらい長い髪を背中に垂らしていて、背格好やその視線がよく似ているな、とそのまま見つめ返していると、彼の方からふいっと視線を逸らした。それにスコッチが気付き、こちらにチラリと視線を送られる。あ、という顔になった。二人に断って、こちらへと歩いてくる。
「こんにちは」
「やぁ。顔、覚えられちゃってたかー」
「いい男のことは忘れないんです」
「あんた、そういうキャラだった?」
私はくすくすと笑い、彼も笑った。日の光の下で見ると、彼はとても好青年に見える。本当にバンドマンみたいだし、なんならバンドマンというのも怪しいくらいの爽やかさだ。
「それは趣味?それともケースは見せかけで、実はお仕事中?」
「どうかな。なまえは、待ち合わせ?」
「ううん。予定がなくなっちゃって、どうしようかなって考えてるところです」
手に持ったままの携帯をしまって、わざとらしくため息を吐いてみせた。
「ジンとは相変わらずか?」
「あの日から会ってないです。いつもそんなものだから、まあ、たしかに相変わらずかも」
「ふぅん、じゃ、海外かもな。国内にいる時は結構会いに行ってたみたいだし」
「そうなんだ」
一緒にいない時の彼のことは、本当に何も知らなかった。あれだけ英語が堪能なら海外に頻繁に行っていてもおかしくはない。
「今思えば、なーんか機嫌がいいときはあんたと会った後だったんだろうな」
「そ、れはちょっとかわいい」
「はは。あの後は俺に対して当たりが強かったけどな。あんたジンにはずっと敬語なんだろ?」
「…そこ?」
そういえば、あの時機嫌が悪かった。そんな理由だったんだろうか。もしそうだったなら、だいぶ意外だし、とても可愛い。
「多分な。あんたはジンの唯一の弱みなんじゃないか」
「…それはそれで困る、な」
嬉しい反面、もしも彼の弱みになってしまうのは、彼の身の危険にも関わるかも知れないと思うと素直に喜べない。
眉を下げる私をスコッチが小さく笑ったとき、次の電車の案内がホームに響く。スコッチは一緒にいた男たちを振り向き、視線で会話をしている。次発の電車に彼らは乗る予定のようだった。
あの日から半年だ。私は、黒服の彼を眺めながら、ジンを思い出す。
「浮気したら撃たれちゃうぜ」
私の視線に気付いて、いたずらっ子みたいな笑顔で、スコッチが呟いた。
「浮気なんて、まさか。彼、ちょっと似てるなって、思い出してただけ」
「あんた本当、物好きだな」
「これでも自覚はあるの」
「だろうな」
電車がホームに入ってくる。
「でも、あの男にはなまえみたいなのが必要なのかもな」
それだけ言い残して、スコッチは、じゃ、そろそろ、と片手を上げて彼らの元へと足を向けた。私も、片手をひらひらと振る。
三人が電車に乗るのを見送って、ふっと息を吐いた。
ジンとの共通の知り合いがいるというのが不思議だった。なるほど、だから女性たちは集まって恋人の話をするのかと、この歳になって気付く。ジンのことを誰かと話すのなんて、スコッチとが初めてで、きっとこの先も他に話せる人なんてなかなか出来ないだろう。スコッチだって今後また出会えるかわからない。
しばらくぼんやりとそのままホームのベンチで行き交う人を眺めて、結局その日は出かけるのは止めた。改札を出て、歩いて帰ることにする。大通りから小道へ入ると、家の近くまで続く緑道が続いている。黙々と足を運ぶ。
ジンに会いたくて仕方がなかった。
友人は紆余曲折あれど、着々と恋人を作り、結婚し、出産を経験して平和に慌ただしい生活を送っている。他人と自分を比べるのは得意ではない。友人と言っても他人だ。他人は他人でしかない。ただときどき、不特定多数のマジョリティを羨ましく思える。それほど自分がマイノリティとは思わないけれど、襲う孤独感に呆然としてしまうとき、ついそんなことを思ってしまう。
とても贅沢な孤独だ。
両親も健在で、友人も多くはないが少ないわけでもない。職も安定しているし、生活に困っていることはない。目立たず、平穏に埋もれて生きてきた。
彼に声をかけたのは、どうしてだっただろう。興味本位でもあったし、なけなしの優しさでもあったし、ただの癖でもあった。
透けるような銀色の髪と、冷たいあの瞳を見ていたいと思った。私の孤独なんてちっぽけに思えるほどに凍えるようなあの殺気が美しくさえ感じた。
『あのお方…うちのボスがあんたを殺せとジンに命令したら、あんたは迷わず殺されると思うぜ』
スコッチの言葉を思い出す。そうであって欲しいと私は思っている。彼の信仰とも言える真っ直ぐな忠誠を汚すことはしたくない。
『あんたはジンの唯一の弱みなんじゃないか』
それが事実なら、私は彼から離れるべきかもしれない。私がどれだけ彼を愛しても、私なんかじゃ彼を守れない。仮に彼が私を愛してくれていても、それならなおさら、彼の中に私が存在していてはいけない。
私はただ一緒にいたいだけだった。髪を撫でて、キスをして、肌を重ねて、傷だらけの背中を抱きしめたいだけだ。ただそれは私の我儘でしかない。
はあ、と息を吐く。何故だか気持ちが落ち込んでいる。最近は残業も多かったし、疲れているのかもしれない。歩む速度を落とす。足元ばかりを見ていた視線をあげる。
「、」
知っている後ろ姿だ。風に、銀の髪が靡いて、光に透ける。触れたい、と思った。彼の名前を呼びそうになって、開いた口を閉じた。
ビルから、女性が出てくる。肩にかかる髪、しなやかに伸びる手足、サングラスをかけていても彼女が美人とわかる。彼女はジンに、にこりと微笑んだ。
彼女とジンが並んでいる姿がお似合いすぎて、呆然と立ち竦む。
「、っ」
彼女と目があった気がして、咄嗟にしゃがみ込んだ。緑道の植木の陰で、息を潜める。
あれ、どうして私、隠れているんだろう。思いながらも、今更姿を表すことも出来なくて、そのまま暫く膝を抱えていた。
あの女性も、組織というやつの仲間なんだろうか。それとも、プライベートで親しくしている人だろうか。どこかで見たことがあるような気もする。モデルさんや女優さんかもしれない。スタイル良かったな。あんなに美人を、見たことがないな。容姿端麗な二人の姿を思い出してひっそりと興奮する。
いつかの煌びやかなフロアで、もし二人が着飾って並んで立っていたらと思うと、一度この目で見てみたい気持ちにかられる。私なんかより、きっと、とても素敵だ。
そう思って、小さく胸が痛んだ。なんだろう。さっきまでの興奮が少しずつ覚めていく。私はゆっくりと立ち上がって、足が痺れていることに気付く。すぐに動けず、首だけ捻ってさっき彼女たちがいた方へ振り向く。もう、姿はない。
私は胸に溜まるもやもやを吐き出すように息を深く吐いて、ピリピリと痺れの残る足でゆっくりと歩みを再開した。




(燻り灯る白昼だった)



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