煌びやかな世界が広がっていて、ついいつかのホテルを思い出した。あの場所ほど特別な空間という訳ではないけれど、大会社の上層部や有名タレントの顔がちらほら見える。あんな場所に一度足を踏み入れているので、比較的落ち着いていられた。経験とは役に立つものだ。
本来私が来るべき場所ではなかったけれど、いろいろとあって急遽上司と共に取引先の主催パーティに来ていた。基本的に上司の隣でにこにこと微笑んでいるだけのお仕事だ。簡単ではあるけれど、決して向いてはいない。
「みょうじ、疲れたか?」
「いえ、大丈夫です」
パーティも終盤だ。あと少し、と視界の隅で時計を確認した。都合の悪くなった先輩の代わりを自ら名乗り出たものの、実はあまり体調が良くなかった。そしてここに来て、明らかに悪化している。
「大方挨拶も済んだし、飽きたら適当なところで帰ってもいいぞ」
「そんなわけにはいきません」
「はは、大丈夫だよ。まあ俺としてはお前を連れて歩けるのは嬉しいけど」
彼はそう笑った。社交の場での男女は、お互いがお互いのアクセサリーみたいだな、と思う。こういったビジネスの場では特にそうだろう。どんな人と一緒にいるかで印象は変わる。そう思うと、来られなかった先輩は確かに適役だった。私が男なら、彼女が隣にいるとちょっと誇らしい気持ちになるだろう。彼女は上品な見た目だが明るくよく笑う。
「みょうじはここ一年くらいで急に綺麗になったよな」
「そうですか?」
「ああ、フロアでたまに噂になるぞ。恋人でも出来たのかって焦ってる」
「…好きな人ならいます」
上司は少し驚いた顔をした。
私はあの銀色の髪と瞳を思い出す。数ヶ月に一度姿を現わす彼との関係は三年ほど続いていた。以前より忙しいのか、会う頻度で言えば増えてはいるが、会える時間は短いことが多い。ひどいと、キスひとつしてそのまま去っていく。最近は小さく安心したような息を吐いて行くことに気付いて、それでもそういうところを可愛く思えてきてしまっている。私はもう疑いようもなく彼に好意を抱いていた。
「お前もそういう顔するんだな」
「そういう、とは」
「んー、恋する女の顔?」
上司はそう笑ってから、水取ってくる、とテーブルを離れた。私は、自分の顔を手のひらで触る。変な顔、してただろうか、恥ずかしい。
そのまま、小さく息を吐く。体温が上がってる。
「、…」
視界の隅に黒い人影がよぎった。顔を上げて咄嗟に目で追う。黒のハットにサングラス、黒のシャツに黒のスーツ。ジンの車を運転していた彼だ。彼の後ろ姿は、パーティ会場から出ていく。
「大丈夫か、ぼーっとして」
「あ、すみません。ちょっと席外しますね」
戻ってきた上司と入れ替わりで席を離れ、パーティを抜けた。彼がいるということは、ジンもどこかにいるんだろうか。そう思ったらじっとしていられなかった。ただ、体はだるく重い。さらに熱が上がってる。
彼の向かったであろう方向に歩いてみたものの、彼の姿を見失ってしまった。見間違いでは、なかったはずだけれど。
黒づくめの彼どころか、人の姿もない。はあ、とため息を吐いて足を止めた。その瞬間。
「…っ!」
背後から口を塞がれた。そのまま抱えられるように引っ張られる。側の部屋に引き込まれた。明るい通路から暗い部屋へ入り、周りが見えない。熱のせいで、体に力が入らない。
「なぜここにいる」
聞き覚えのある声が耳元で囁いた。
「っ、」
ジンだ。口を塞ぐ手に手を添え、そっとずらす。は、と息を吐いた。
「…こっちの台詞です」
私は体を捻って振り向く。
「ジン、」
振り向いた先では、見知った瞳が私を見つめていた。
「…、」
目眩がする。そのせいで、軽くジンにもたれた。側にはさっき見かけた運転手の彼もいる。ジンは目を細め、私の顔を撫でるようにして確認する。熱があるのがバレてしまったようだ。
「調子が悪いのか」
「少し、」
「チ」
彼は私を支えたまま、携帯を取り出しどこかに電話をかけた。
「状況は。…ライはその場に残れ。5分で来い」
電話口から驚いたような声が上がるけれど、何を言っているのかは聞き取れない。一方的に通話を切ると、今度は隣の黒服の彼と視線を交差させた。
「お前はここにいろ」
「あ、アニキ…」
「すぐに戻る」
戸惑う彼を置いて、ジンは私の腰を抱きながら廊下へ出た。まだパーティは続いていて、通路には人が少ない。
「大丈夫、ジン、大丈夫です、から」
「黙れ」
「っ、」
彼らが何のためにここにいて、何であんなところに潜んでいたのか疑問がよぎるが、ただ思ってもいないところでジンと会えた嬉しさが勝っていた。同時に、折角会えたのにこんな体調であることが惜しい。
エレベーターで地下駐車場まで降りた。丁度、一台の車が勢いよく駐車場へ入ってくる。その車はキッと急ブレーキをかけて私たちの目の前に停まった。
「間っっに合ったああ!」
車内で男が声を上げている。ジンは後部座席の扉を躊躇なく開けると、私に車に乗るように促した。
「すぐに医者に行け」
「え、誰この美人さん」
運転席から戸惑いの声が聞こえるが、ジンはそれには答えない。私は踵を返そうとする彼のコートをとっさに掴んだ。
「今日は、もう、会えませんか」
ジンと視線が絡む。彼はかがんで私に軽くキスをすると、耳元で、待ってろと呟いてドアを閉め、運転手席に座る彼に何かを耳打ちして、車を離れた。窓越しに、エレベーターに乗り込む彼の背中を見つめる。
「あんた何者?」
彼は携帯を触りながらこちらをチラリと見た。楽しげな声音だ。
「あのジンが、見せつけてくれるよな。しかも手ぇ出すなって忠告してったぜ」
「手、」
「コードネームは?」
「…コードネーム、」
彼は手を止めて、興味深そうに体を捻ってきちんとこちらを振り向いた。
「ネーム持ちじゃないのか?」
「コードネームって…。スパイとか、刑事ドラマの」
「まさか組織の人間じゃない?」
「組織、?」
何の話をしているんだろうか。ぼんやりとした頭で考える。ああ、やっぱりジンは、良からぬ仕事をしているんだな、と思い当たる。
「私は、ただの一般人です。ジンが普段何してるのかは、何も」
「付き合ってるのに?」
「…付き合ってるのかも、わかりませんけど」
「それもすげー話だな」
彼はどこまで本気で話しているのかわからないけれど、そう笑うと、使って、と上着をこちらに寄越して、車を発進させた。
「辛かったら横になってな。2、30分で着くから」
「、ありがとうございます」
しかし、さすがに横になる気にはなれずに、ドアに寄りかかる。さっき現れた時とは違い、安全運転だ。
「人に言われるのは嫌かもしれないけど、ジンはやめといたほうがいいと思うぜ」
彼は静かに言う。おそらく彼は、彼の言う組織の人間なんだろう。きっと碌な組織ではないのだろうけれど、だからこそか、真っ当なことを言う。
「私も、そう思います」
「賢明だな」
「でも、…好きになっちゃったんですよね」
この感情を捨てられる気はしない。彼が何者でも構わない、という覚悟は、彼に声をかけた時から決まっている。
「その気持ちに命がかけられるか?」
「きっと」
「ジンが人殺しだったとしても?」
「…、そうですね」
「驚かないんだな」
「銃口を向けられたことは、ありますから」
優しい声で残酷なことを言うなあ、と思いながら、ぼんやりと座席の隙間から見える彼の表情を伺う。
…それでも、きっと。
私はなおさらあの人を放っておけないのだと思う。街の灯りに照らされた彼が、小さく微笑んだ気がした。
その後、夜間診療している病院へ行き、診察を受け薬をもらい、それからジンの連絡を待った。
彼は、ジンの仕事仲間でスコッチと言うらしい。日本人のように見える彼の顔をぼんやり見ていると、彼はそれに気付いてあだ名のようなものだよと苦笑した。ああ、さっきの、コードネームというやつか、と納得する。スコッチはウイスキーだ。じゃあ、ジンもお酒のジンからきているのかな。
「あんたさ、どうやってジンと知り合ったんだ?」
中々ジンからの連絡も無くどうしたものかと適当に車を走らせながら、彼は口を開いた。
「3年くらい前に、拾いました」
「拾ったあ?」
「怪我をして倒れていたので声をかけたんです。救急車も警察も呼ぶなと言うので、うちで手当てをしました」
解熱剤を飲んだので、効いているのかその気になっているだけなのか、少し気分は良くなっていた。
「それ以来、続いてますね」
「ジン相手に?とんだ物好きだな。怪しい奴だとはわかってるんだろ?」
「…私は目の前にいるときの彼しか知りませんから」
「へぇ。本当に惚れてんだな」
感心したように呟いた。そんなに不思議だろうか。私の知るジンは、ぶっきらぼうで口が悪いけれど、真っ直ぐで可愛いひとだ。
「スコッチ、さん、?」
「はは、スコッチでいいよ。ついでに敬語もやめてくれ」
「…スコッチ、にとって、ジンはどんな人?」
彼は少し考えてから、口を開いた。
「疑わしきは罰せよ」
小さく笑った。
「冷徹な男だよ。どんなに近くにいても疑いがかかればもう裏切り者」
それなら、私の知るジンと思ったより違ってはいないかもしれない。行き過ぎた純粋さ、とも取れないだろうか。そういうひと相手に疑われる方が悪いのだ、というと私も同罪だろうか。
「あのお方…うちのボスがあんたを殺せとジンに命令したら、あんたは迷わず殺されると思うぜ」
あの方、という表現は、一度聞いたことがあった。ぽつりとつい零した、というような呟きで、彼はすぐにそれを誤魔化したから、私は聞こえなかったふりをした。
ジンはおそらく、私には理解できないほど疑い深い。それが何故なのかはわからないけれど、きっと、私のようになんとなくで信用してしまうのとはわけが違う。そして、そんな彼の唯一の揺るがない信頼が、あの方、なんだろう。
その信仰とも呼べそうな対象に、私の存在が許されないのだとしたら。想像する。凍るような視線。
「…ジンに殺されるなら、」
「ちょっと待って」
言い終わらないうちに、着信音が鳴った。私の携帯だ。途端に、スコッチの視線に鋭さが増す。私は鞄から携帯を取り出し、着信画面を彼に見せて、上司ですと伝える。彼は小さく頷いた。通話ボタンを押す。
少し抜けるつもりで出ていたので、彼には要らぬ面倒をかけたかと謝罪から話を始めようとすると、思ったよりも彼の声音は緊迫していた。
「…え、ホテル内で…。いえ、私、あのあと本格的に調子が悪くなって…」
夜間診療に向かい、今は車の中だと説明をした。事実だ。そうか、良かった、しっかり休むように、と早口で彼は言って通話を切った。私の通話中に、丁度スコッチにも電話が着ていたようだった。彼は、直後の十字路でUターンする。
「なんだって?」
「さっきのホテルで、殺人事件が起きたそうです」
安否確認でした、と伝えると、そうか、と彼は呟いた。わかっていた、のだろう。つまり、この殺人事件は彼らの手によるものか。
「あー、俺と話したことは、ジンには内緒にしてくれる?」
「うん」
「それから、あんた、名前は?」
「みょうじなまえと言います」
彼は、また敬語、と笑って、車のスピードを上げた。ホテルとは別の方向にどんどん進んでいく。人気のない工場地帯まで飛ばして、その先には見覚えのある車が停まっていた。車はスピードを落とし、既に停まっている車の左側に停まる。どうやら、私の電話中に連絡を取っていたのはジンだったようだ。見覚えのある黒のポルシェ。
ジンが車から降り、こちらの後部座席の扉を開けた。
「行くぞ」
彼は私の頬をそっと撫でた。はい、と私は頷いて、彼の手を取る。車を降り、ジンの車に乗り込む前に、運転席のドアをコンコンと指でノックする。気付いたスコッチは、不思議そうな顔をして窓を開けた。
「ありがとう、スコッチ」
言うと、スコッチは驚いたような顔をしてから、ああ、と困ったように笑った。それからチラリとジンを見てから、いたずらっ子みたいに笑う。
「お大事にな、なまえ」
パチリとウインクをして、運転席の窓を閉めた。閉まりきる前に、ジンに促されて彼の車に乗り込む。なんだかジンの機嫌が悪いみたいだ。座席に着くとすぐに、車を発進させた。彼の乗る車はすぐに見えなくなる。
スコッチの正論を頭の中で繰り返しながら、それでも、車内に香るジンの匂いに安堵する自分を否定することはできなかった。




(朝日の安堵のような夜だった)



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