会長付きの秘書にならないかと打診されたのが今週の頭のことだ。お昼休みに出くわした会長とともにランチすることになった時に提案されたのだった。既にご隠居の身である会長の秘書だなんて、抜擢される理由もわからないし、仕事内容もわからない。会長は無理強いはしない、という言葉通り、丁重にお断りした私に微笑んで、きっとそうだと思ったよと承諾してくれた。なぜ私なのかという問いに、老紳士は面白そうだと思ってね、とにこやかに答えた。その回答はとても好きだなと思った。
その日会長と一緒にいたところを社内の誰かしらが目撃していたようで、今週は何かと視線が刺さる。同僚たちにも聞かれたが、以前エレベーターで会ったことと、今回もたまたま出会って誘いに乗ったのだと説明をした。会長秘書の件は言う必要がないだろう。断ったし。
彼女たちは首を傾げたが、私も首を傾げたい気持ちでいた。心当たりがあるとすれば、ジンが関わっているかもしれないことだけだ。しかし、それも本人には確認していないし、するつもりもない。
超高級ホテルで彼と食事をし、私が処女を喪失した日から半年が経とうとしていた。あの後、くたくたでお風呂に入り真新しい下着とバスローブで出ていくと、やはりドレス同様彼の用意した下着だったらしく下着姿を要求された上、結局脱がされた。お陰で翌日は疲れ切って昼過ぎまでホテルで過ごしてしまった。気遣いがあるのかないのかわからない。
カタカタとキーボードを打ち、打ち込んだ文章を上から目で追う。ところどころ言い回しを変え、誤字脱字をチェックする。よし、できた。上司のアドレスに添付し送信すると、パソコンの電源を落とす。定時二十分過ぎ。
「先に上がります」
両隣のデスクに声をかけて立ち上がる。
「おーお疲れ」
「お疲れさまです」
「下に今ポルシェ停まってるらしいけど、あれって会長のかなー?」
「ポルシェ?どうですかね」
「みょうじでも知らないか。黒のポルシェ356A、珍しいよなー」
「黒の、…。ちょっと頭が長くて丸っこいやつですか?それなら、会長のかも知れないですね」
「やっぱりか!じゃあ会長来てるのかな。俺も会長と仲良くしときてー」
そしたら昇進とか口添えしてくれないかなー、と笑う同僚に、どうですかねえ、と返して、じゃあ、と手を振って部屋を出た。エレベーターで一階まで降りると、正面に彼の言っていた車が停まっている。やはり、あの時乗せて頂いた車だ。受付付近に会長の姿はなく、さすがに今日は出会わないか、と思いながら正面玄関を出ると、噂のポルシェの前に黒服の男が立っていた。黒のスーツに黒のハット、サングラスをかけた体格のいい男だ。ジンみたい。しかし、彼よりは背が低く、スラリとしたジンと違いどっしりとした印象を持つ。
「、?」
サングラス越しで分かりにくいが、こちらを見ているようにも思える。以前運転をしてくれた人だろうか。あの時は急いでいて運転手のことなど気にかけていなかったが、確かに彼だった気がする。彼は覚えているんだろうか。つい、軽く会釈をする。
「ジンのアニキがお待ちですぜ」
横切るつもりだった私は、思わず足を止めた。ジンと言った。
「どこでですか」
まさかまた場違いな場所に連れて行かれるんじゃないだろうか。
「アンタの家さ。乗って下さい」
「え、いえ、電車で帰ります」
「それじゃ俺が困るんでさァ。ジンのアニキが痺れを切らして迎えを寄越したんだ、大人しく乗ってもらわねぇと」
「………この先の角を曲がったところで待っててもらっていいですか?ここじゃ目立ちすぎるので」
すでに視線がちらちらと刺さる。構いませんぜ、と彼は車に乗り込み、私もまるでちょっと世間話をしただけかのようににっこりと頭を下げて、足を進めた。
その後、大通りから避けるようにして彼の車に乗せてもらい、家に着くと彼はそのまま車に乗って走り去ってしまった。あの車は会長の車ではなかったのだろうか。そして運転手の彼は何者なんだろうか。首を傾げつつ玄関の鍵を開け、中へ入る。
「遅い」
今日の彼はハットもコートもすでに脱いでいて、ハイネックとパンツ姿だ。髪も軽く結っている。壁に寄りかかり腕を組んでこちらを睨む。足元でギンがちょこんと座っている。仲良しみたいで、口元が緩みそうになる。
「定時が17時半でまだ18時10分ですから遅くはないです」
「俺は16時からここにいる」
「知りませんしその時間は仕事中です」
チ、と彼はお得意の舌打ちをした。先にリビングへと向かうジンを追うように、私もギンを抱き上げてそちらへ向かう。
前もそうだったけれど、彼はこの家の合鍵でも持っているんだろうか。当たり前のようにソファに座り煙草を吸う彼を眺めた。それはそれでまあいいか。特に困ることはないので、追及はしない。
「ジンは今日お休みだったんですか」
「そんなところだ」
彼が何者なのかは未だにわからない。さっきの運転手は彼をアニキと呼んだが、本当にソッチの人なのかな。それも、まあいいか。
ギンを下ろして、彼のお水を替えキャットフードをお皿に盛る。
「ご飯、食べますよね」
「ああ」
携帯を見つめながら短く答えた。私は食事の支度に取り掛かり、相変わらずの庶民的食卓に彼と向かい合い食事を済ませた。
「そういえば、うちの会社の会長とはお知り合いですか」
「さあな」
「ジンはいつもそれですね」
食器を片付け終わり、彼の座る隣に腰を下ろす。膝の上にすぐにギンがよじ登ってきて、丸くなった。元々仔猫というほど小さな子ではなかったけれど、半年経って一回り大きくなっている。
「知りたいのか」
「今の質問に関してはどちらでも」
ギンの頭を撫でると、彼は気持ちよさそうに目を閉じる。
「食事の味の好みとか、服の好みとか、どんな色が好きなのか、何をされると嬉しいのか、みたいなことは知りたいですね」
「…わからねぇな」
この人は人にあまり興味を持ったことはないんだろうか。ギンの喉元を撫でながら、それっぽいなあと勝手に納得する。
「好意を持っている相手について知りたいと思いませんか?」
「お前は俺のことが好きなのか」
「そうですねえ」
ギンを撫で続けていると、彼は私の顎を取り、クッと自分の方を向かせた。視線がかち合う。
「本気で言ってるのか」
「人としては好きですよ。男性としては、まだ考え中です」
「曖昧だな」
「恋愛ってよくわからないんですよね。ただ、あなたに触れられるのは嫌いじゃないです」
今までまともに恋愛をしてこなかったツケが回答を曖昧にしていた。それでも、一応この半年考えはしたのだ。
「なんなら最近の生活はギンが恋人って感じですけど」
膝の上でごろごろと喉を鳴らすギンを私は愛おしく思う。
「それは猫だろう」
「じゃあ、恋猫?」
ふっと彼が煙を吐いた。呆れているのかもしれない。恋愛なんてあまり気にかけたことなんてなかった。だから何なのかもよくわからない。わかっていたら、とっくに処女なんて卒業していた。
「でも、恋なのかな、と疑っています」
ぽつりと呟いた。彼は黙っている。
私は彼の手を取って、口を開く。
「距離感、て意識したことなかったんです。でも、ジンに触れられてから、日常的な距離でも男性に近付かれることになんとなく抵抗があって」
あなたは平気なのに。
私は彼の指に自分のを絡める。
「それに、気付いたらあなたを思い出してるんです。この子も似てるから、連想しますしね」
くあ、と口を広げて欠伸をするギンを目で示した。ギンはマイペースで愛らしいけれど、機嫌が悪くなるとツンとして、その様子がジンに似ている。
はみ出しものを放っておけない癖で、誰かにとっての居場所代わりになったことは何度もあった。それは代わりのきく立ち位置だ。一時しのぎになればいい。
ジンにとって、私がどういう立ち位置にいるのかは、よくわからないけれど。
「私にとってジンはジンじゃなきゃダメなので、きっと好きなのかな、と考察してるところです」
考えて話していたつもりだけれと、どうも日本語がおかしいかな、と思いながらジンを見ると、彼は真面目な顔をしてこちらを見ていた。
「そうか」
「はい」
彼は少し考えるようにしてから、私の膝の上で眠たそうなギンの首根っこをつまみあげ、床に下ろした。ギンはナァと鳴き、ジンの足に猫パンチを食らわせてから颯爽と逃げた。乱暴なひとりと一匹だ。
彼はフン、とギンに悪態をつき、それから体勢を変えて私を抱きかかえる。
「あ、ぶないので急にそれやめてください」
彼は軽々と私を抱き上げて、寝室へと向かう。案の定、ベッドに降ろされた。
「お風呂に入ります」
「一緒に入るか?」
「え。遠慮します」
「ならこっちが先だ」
彼は言いながら首筋に唇を落とす。煙草の香りがする。くすぐったくて身をよじるけれど、そのせいで出来た服の隙間から彼の指が入り込む。
「、待ってください」
私は彼の腕を押さえて制止する。文句を言いたげに顔を上げて私を睨んだ。
「ジンが下です」
「は」
「髪、踏んじゃうんです。だからジンが下です」
彼は最中に何度も髪をかきあげる。その仕草も好きだけれど、体勢が変わるたびに髪を踏んで引っ張ってしまったり気にしなければいけないことも煩わしそうだった。
「この間まで処女だった女がか」
「勉強しました」
「…他の男でか」
「さっきの話聞いてました?独学です」
彼は少し驚いた顔をしてから、ククっと笑った。
「成果を見せてもらおうじゃねえか」
そう彼が体を起こした時、リビングからバイブ音が響いた。おそらく電話だ。私の携帯はよっぽど電話が来ることはないので、ジンの携帯の方だろう。
彼は動きを止め、ジッとリビングを見つめながらも取りに行こうとはしない。
「ジン、出なくていいんですか?」
「………良くはねぇな」
小さく呟いた。良くないどころか出ないといけないやつだと踏む。私も体を起こして座り直し、ジンと向き合う。
「ジン、待ってますから、出てください」
ほらはやく、と急かすと、またチッと舌打ちをして諦めたようにベッドを降りた。彼の携帯は時間帯を問わずよく鳴る。仕事の電話なのかな、と勝手に思っているけど、実際はわからない。通話中はベランダに出たり、部屋を出たりしてしてしまうため、何の話をしているのかも聞こえない。聞かせなくないならそれで構わないけれど、きっと忙しい人なんだろうとだけはわかる。その中の休みをこんなところで過ごしていていいんだろうかと疑問だ。
リビングから戻ってきたジンはあからさまに機嫌が悪かった。
「仕事ですか」
「………今から出る」
言いながら、彼は寝室の引き出しから拳銃やらなんやらを取り出した。そのスペースを提供した覚えはなかったので勝手に収納場所にしていたようだ。自由な人だ。
私もベッドから降りて、ハンガーラックにかかっていたコートを手に取り、着せてあげる。前に回って襟をなおした。ハットを被り、携帯と煙草を引っ掴んでポケットに突っ込むと、スタスタと玄関へと進む。私もそれに付いて、玄関へと向かった。
「いってらっしゃい」
声をかけると、靴を履き終えたジンはすっと顔を上げてこちらを見つめ、私の手を取って引き寄せると噛み付くようにキスをした。
「片がついたら戻る」
私を抱きしめたまま、耳元で囁く。
「行ってくる」
するりと手を離し、彼は出て行った。ずるい。一瞬、引き留めそうになった自分に驚いた。いつのまにかやってきて私の足元に擦り寄るギンを抱き上げて、心を落ち着かせる。リビングに戻ると、テーブルの上の灰皿だけが彼の存在を際立たせた。誰かが出ていくことに名残惜しさを感じたのは初めてだった。
その後、夜が更けても朝が来ても、ジンは戻って来なかった。




(金木犀の香る夕暮れだった)



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