ちょっと話があるんだけど明日空いてますか。と珍しく改まったメールが来たのが昨日の昼休み。空いてる、と返信してやったのに今日もまだ連絡がなく、松田陣平は苛立っていた。
「だれ?」
「なまえ」
「あー、お前ら仲良いよなー」
そう少し拗ねたように言う萩原研二と、二人して缶コーヒーを片手に煙を吐いている。
あいつというのは、松田の飲み友達のことだ。彼女曰く、自分たちこそ仲が良いそうだが、野郎と噂されても何も面白くはない。
「…俺わりとマジめに彼女狙ってたんだけどなー」
「は。急になに」
「いやそれコクられる感じのやつじゃねえの?」
ぷかりと煙を吐き出した松田は、そのままぽかんと口を開けて停止している。考えてもみなかった。
「おお、まじか。え、まじで?」
「知らねーよ。でも改まった感じなら、なんか大事な話なんじゃん?」
全くそんな気がなかったであろう彼に気付かせてしまったようで、萩原は少し悔しい気持ちになる。浮かれている松田はそんなこと気にもかけない。
「はーん。そうかなまえが俺をなー」
「お前、ないって言ってなかったか?」
「あいつが俺を好きなら話は別だ」
彼女は松田の地元の友人で、大学時代に再会して以来飲み仲間としてずっと付き合いがある。警察学校に入ってからもその関係は続いていて、最近は萩原や伊達も一緒に飲むことが多くなっていた。最初こそ実は恋人なんじゃないか、好きなんじゃないかとからかったものだ。しかし最近では仲がいいのは認めるものの、あまりに男女を感じさせず、もはや兄妹のようなものだとみんなで勝手に結論づけていたところだった。
「別にあいつ顔もスタイルも悪くねーしなー」
「まじかお前、付き合い長いくせに判断そこかよ」
「なんだよ。降谷も言ってただろ?男女の友情はないって」
「ばっか、じゃあ今まではなんだったんだよ。降谷はあの顔だからだろばか!」
「2回言いやがったな」
それに降谷が言っていたのは、断言じゃなくぼやいていただけだ。レベルが違う。あとあいつはガチめに捻くれているからプライベートに関しては解釈を参考にしてはいけない。
騒いでいると、松田の携帯が鳴った。メールだ。二人は顔を見合わせて、それから松田は携帯を開き、萩原はそれを横から覗き込む。なまえからだ。今夜七時に、ここでいい?と店の情報が送られている。その店はチェーン店だが、全席個室がウリの店だ。ヒュウ、と松田が口笛を吹く。完全にその気になっている。
「悪いな萩原」
松田は得意げに微笑んで、了解、と返事を打った。

松田が店へ行くと、まだなまえは来ていなかった。彼女の名前で予約されていた席へと案内されると、座ってさっさと煙草に火をつける。
向かいの空いた席を眺めた。なまえと二人で酒を飲む機会は今までざらにあった。しかし、がやがやとした大衆居酒屋であったり、馴染みの顔ばかりの小料理屋であったりで、こうして二人きりで向き合って杯を交わすことはなかったかもしれないと気付く。
気付くと、途端に落ち着かなかった。
彼女が生物学的にも精神的にも女だなんてことは知っている。ただ友人以上の土俵にあげたことはなかった。じゃあ、あげてみたらどうだ。ソウイウ風に見たら。

「ごめん、遅くなった」
「おー」
スッと障子が開いて、彼女が入ってくる。急いだのか、頬にかかる髪を払って、上着を脱ぎパタパタと手で自分を仰いだ。薄化粧だが顔のパーツが適度に映える。照明で、目元に睫毛の影が落ちる。
「ビールでいい?」
「あ、ああ…」
「生二つで」
障子の前で待っていた店員が、かしこまりましたと頭を下げて障子を閉めた。彼女はメニューを広げて何を頼もうか選んでいる。
「お腹空いてる?あんた調子に乗って酔っ払うし先にちょっと重めのもの食べておいたら?」
メニューを見たまま、薄い唇が開かれる。白い指がページをめくる。
「陣平、聞いてる?」
「あ?あー、いや、軽いもんでいい」
「そ」
パッと顔を上げて彼を睨んだかと思うと、すぐにいつもの様子に戻ってメニューを選ぶ。
おかしい。何がって、自分の目がおかしいのか、言葉のマジックか、目の前の見慣れた彼女がやけに魅力的に見える。間違いなく、彼女は彼女でしかない。だけど、こいつはこんなに綺麗だったろうか。ただ髪を耳にかけるだけの仕草が、こんなに色っぽかっただろうか。彼女に名前を呼ばれただけで、なんでドキリとしてしまうんだろうか。
「忙しかった?疲れてるね」
「……お前、今日なんか違う?」
「は?遅くなったから化粧直せなかったけど、そんなにひどい?」
「……別にいつもとかわんねーよ」
「なにそれ、失礼ね」
なまえが笑う。まじかよなんか今日可愛いんじゃないのこいつ。
松田はつい目をそらし、誤魔化すようにメニューを見た。好きと言われてその気になるなんて、我ながら単純だ。
しばらくするとすぐに店員がビールを持ってきて、そこでつまみをいくつか頼む。それから二人はジョッキを掴み、待ってましたと言わんばかりに乾杯を交わした。




その頃同じ店の一室では、男三人が案内され席に着いたところだった。
「で、なんなんだこの会は」
伊達が迷うことなく生ビールを三つ頼んで、店員が下がったところで尋ねた。
同席しているのは、萩原と降谷だ。約一名は言い出しっぺのくせに用事があるとさらっと先に帰ってしまった。
萩原は昼間の松田とのやりとりを伊達に説明した。そしてそれを降谷たちに話した結果、じゃあ俺たちもその店に行こう、あとで聞かされるより結果をわかった方がいいだろうということになり、どうせ飲むならとついでに伊達も誘ったということだ。
「あいつが帰ったのによく降谷が来たな」
「まあ予行練習と思えば悪くない」
そう言いながら、降谷はとんとんと自分の耳につけたイヤホンを指で示した。ゲ、という顔をして伊達が萩原を見る。
「お前まじかよ…」
「俺じゃねえって降谷が勝手にだな」
「個室じゃ様子も伺えないし、例え隣の部屋でも声は聞き取れないだろ。それじゃあ同じ店に入ったって意味はない」
ここにいるのは不本意だという顔をしているくせにノリノリじゃないか、と二人が心の中で呟く。計画の提案があった直後、当然のように降谷はさりげなく松田の服に盗聴器を仕込んでいた。
そこでビールが運ばれてきて、三人はさっさと乾杯を済ませる。伊達はグラスに口をつけながら横目で萩原を眺めた。
彼も萩原とともになまえとの飲みの席に同席し、その後も何度も一緒に飲んだことがあった。萩原がいない時に彼女と飲んだこともある。明言されたことはもちろんないが、彼は今回の話の行方がなんとなく予想が出来ていた。
「降谷、様子はどうだ」
「至って普通に雑談して飲んでるだけだ。二人ともビールで、会話の内容からするとおそらく食事はたこわさと刺し盛り、それから」
「メニューはいいんだよ!ちなみに彼女は肉より魚派だ」
「別にこれと言って大した話は」
言って、降谷は食事に手をつけながら、少し味が濃いだの、これはもう少しこうしたらアリか、と呟いている。ここまでしておいて、全く興味がなさそうだ。
正直、彼はこの恋の行方などはどうだってよかった。なまえとは一度か二度会ったことがあるくらいで、そして松田とああも仲が良いのに恋人でもないなんて、ただ二人が馴れ合っている都合のいい関係なんだろうというくらいにしか思っていなかったし、それに否定も肯定もなかった。確かに、見た目も性格も悪くはないと思っている。まあ松田が好きそうといえばそれはそうだし、妙に気が付くことも多く萩原が気に入る気持ちもわかる。が、それだけだ。彼は松田のことも萩原のことも、少しいやだいぶ荒く見えるがいい男だと思っている。彼はその見目で散々女性に言い寄られては理想を押し付けられた上簡単に離れていかれた経験がいくらでもあった。だから、そもそも女性をあまり信用してはいない。なまえだって例外ではない。
「余裕のない男は嫌われるぜ?大体、彼女、ただ話があるってしか言ってないんだろ」
伊達は気を使ってか、慰めのように松田への告白という図から考えを外そうとする。
「ああ。ちょっと話があるって」
「まだ松田がコクられるどころか恋愛絡みかすらわかんねーじゃねーか」
「そう…そうだよな、伊達お前いいやつだな…?」
まだジョッキ一杯も空にしていないのにこの状態である。
「お前が恋愛にそんなに慎重なやつだとは思わなかったよ」
「松田と一緒にすんじゃねーよ、俺今回マジなんだよ」
鼻先に指を揃えて親指に顎をのせ、はああ、と深いため息を吐く。恋する乙女だな、と伊達は小さく笑う。
「萩原」
その時、降谷が注意するように言うと、しっと人差し指を口元に当てて示した。
「始まった」
三人は視線を交わした。




二杯目のビールがきたタイミングだった。
「お前それで、話ってなんなんだよ」
痺れを切らしたのは松田の方で、彼女はその切り出しに少し驚いて、それから口ごもる。
「う、うん、話ね、あるんだけど」
心に決まらない、という様子で視線を泳がせる。照明のせいでわかりにくいが、少しだけ顔が赤くなっているように見えた。もう松田の目には彼女が可愛く映って仕方ない。
「だ、黙らないでよ!緊張するじゃない!」
「お前が言わないからだろ?」
「…ちょっと待って、落ち着くから!」
珍しく照れる彼女を見ながら、彼は口元がにやけるのを隠すようにして煙草に火を付けた。なまえはゆっくりと深呼吸をして、それから少し上目遣いに松田を見た。睨むような、でも困ったようなその視線は彼の目を真っ直ぐに射る。
「笑わないでよ」
「笑わねえよ」
じっと見つめたまま、彼女は口を開く。
「す、好きな人ができたかもしれない」
「ほう」
そういう感じで来るか、と思いながら相槌を打った。彼女の言う笑うのとは別の笑みが、彼の口元から消えない。
「ちょっと恋愛とか久しぶりすぎてやばい」
「お前めっちゃ女子じゃん」
「うるさいな!女子だよ!」
吠える彼女を松田は笑った。笑うなって言ったのに!と彼女がまた声を上げて、彼はその様子が可愛くてさらに笑う。
さてしかし、気になる点は好きな人ができた「かもしれない」ことだ。こちらは完全に彼女を意識してしまっているが、それで相手からの好意が曖昧なのは負けた気がして悔しい。
「で、好きかもって?」
「…気になる、っていうか、最初は意識してなかったし」
うんうん、と松田は相槌を打つ。俺も今日の今まで意識してなかったさ。
「人として好きだなって思ってるのか、男性としていいなって思ってるのかわかんなくなってきちゃって」
ほうほう、と松田は相槌を打つ。こういう流れで告白されたこと、あるぞ。あの時の女は俺から言って欲しそうにデレデレと回りくどかったが、普段はっきりものを言うなまえが必死に言葉を選んでいる様子は健気でなかなかそそる。
二人とも恥ずかしさやらなにやらでグラスの減りが早く、話より先に三杯目を頼むことにした。




好きな人ができたかもしれない、と降谷が呟いたのを聞いて萩原はとりあえず手に持っていたビールを一気に飲んだ。すかさず伊達が廊下を通りかかった店員を止めて追加を頼む。
「かも、てところに食いついてる。…恋愛が久しぶりすぎて、恋愛の好きかどうかわからない、と」
「スピーカーにしろ!」
「これは出来ないやつ」
「相手は誰って?」
「いや、まだ名前は出してない」
降谷は聞こえてくる会話に耳を傾け、萩原は降谷の言葉を待ち、伊達はそれを横目で見ながらビールを喉に流す。
降谷は聞こえてくる言葉を繰り返すようにして二人に伝える。
「ちょっとしたことでもよく気が付くし、話してて楽しいし、他の人と飲んでても、来ないかなあと思うとか」
「えっそれもう絶対好きじゃん…」
「誰にでも優しいんだろうとか所詮飲み友達だと思われてるだろうとか思うと踏み出しにくいと」
「意外とそういうところはスッパリいけないんだな彼女」
「知り合ってからはそこそこ経ってるけど、飲みの席以外の………ん?」
「どうした降谷!」
降谷は言葉を止めて、手を口元に持っていき考える仕草をする。萩原はハラハラしながら降谷の肩を掴んだ。
「違うな」
「え?」
降谷が呟いて、伊達と萩原は彼を凝視した。おそらくイヤホンの向こうでは会話が続いていて、それに集中しながらも彼は続けた。
「松田のことじゃないな、彼女の好きなひと」
伊達と萩原は、顔を見合わせた。




は、と松田の顔から笑みが消えた。
「だから、飲み会の席でしか会ったことないから、普段どんな感じかわからないし」
不安そうに言う彼女に対して、もう一度、は?と言いそうになって、すんでのところで飲み込んだ。
「飲んでても楽しいから、普段怖いとか冷たいとかはないとは思うけどさ」
なまえは松田の表情など伺う余裕もなく吐露する。彼は彼女の言葉を理解するのに必死だ。
彼女と会うのは確かに飲みに行く時が多いが付き合いは長いし、一緒にただ買い物に行くこともあれば、うちに来たことだってある。普段のことなんて知らないわけがない。
「でも、飲み会でならよくあるけど、ふつうに出掛けるのとか、デートみたいなことって友達の友達を誘うのってハードル高くない?」
駄目押しするように言葉が続いた。友達の友達なんて距離に自分がいないことくらいわかっている。松田はごくごくとビールを飲み干した。
「………そいつ、俺が知ってるやつなのかよ」
彼女は、恥ずかしそうに、コクリと頷いた。
くっっっそ!と松田は心の中で叫んだ。今まですっかりその気になっていた自分が恥ずかしいわ、肝心なことを言わないまま遠回しに話す彼女が恨めしいわ、実はかわいいことに気付いてしまった彼女が想いを寄せる自分の友人だという男が憎たらしいわで、居た堪れない。
「誰だよそいつ」
自分が勘違いしていたことを彼女に悟られないように、精一杯動揺を隠して聞く。
なまえは、せっかく曖昧にして話していたのに核心に触れられた、という顔で言い出しにくそうにして、ゆっくり口を開いた。




「なるほど…」
降谷は全然納得していない顔でそう呟いた。彼は萩原が言うように彼女が松田を意識し始めたのかとすっかり思い込んでいた。女友達からの恋人への昇格を狙っているものだろうと。しかし、そっちではなかったらしい。
「どうなってるんだよ、降谷」
「どうって…どうしてこうなってるんだろうな、本当に」
「はあ?」
萩原は早く教えろ、もしくはイヤホンを寄越せと降谷に詰め寄るが、それに負ける降谷ではない。暴れる萩原の向こうでは、伊達がククっと笑っている。
「お前わかってたのか?」
「ああ、多分な」
降谷が声を掛けると、伊達が何でもないことのように答えた。
「まあ彼女を見てればわかるよ」
「フゥン?じゃ、萩原も彼女の事ちゃんと見れてないんじゃないか」
「違うだろ、萩原は見てても気付かないよ、彼女の事好きならなおさら」
わけがわからないという顔をして降谷は黙る。萩原も、答えが見えずに二人を交互に見ながら戸惑っている。
「どう、え、伊達わかってんの?なに、誰、おい、教えてくれない感じなの?なんで?」
伊達と降谷は視線を交わして、そりゃ俺たちからは言えないよ、と小さく笑った。




彼女の口から聞かされたその名前に、松田は単純に戸惑っていた。全然気付かなかった。そして今日の様子だと、告げられた名前の張本人も絶対に気付いていないだろう。
「協力してとは言わないけど、陣平と仲良いし、なんか変な感じになったらやだなって思って」
もう既に複雑な心境だが、そんなことは言えるわけはない。松田は、深く煙を吸って、吐いた。煙草を灰皿に押し付ける。
どちらも大切な友人だ。二人がどうなろうと、それで自分との関係がどうこうなるとは思っていない。思っていないが、現状あまり良い気分でもない。冷静に考えればお似合いであろうこともわかっている。
しかし、だめだ、驚きと戸惑いと恥ずかしさと苛立ちがもやもやと心を埋めていく。彼は、便所と短く呟いて立ち上がる。
「あ、待って陣平。襟が…」
言いながらなまえも立ち上がって、彼の襟に手を伸ばす。別にいつもと同じお節介でいつもと同じ距離なのに、やけに緊張する。
「ん、あれ?」
襟が折れているのを直す彼女の指先に何かが触れて、次の瞬間硬いものが床に落ちた。一瞬ボタンか何かかと思ったが、襟にボタンなど付いていないし、ボタンにしては大きく重量がある。
松田は音を追って、落ちたものを確認した。
「これは…」
それを見た途端、チッと舌打ちをした。もちろん松田にはそれが何かわかっている。おそらくこれを仕掛けたやつも、そしてその本人が近くにいるであろうことも。
「ボタン?」
「ああ、気にすんな」
さっさと個室を出て廊下を歩きながら、先程拾い上げた小さな機械を口元に寄せた。




降谷が、あ、という顔をした。
「気付かれた」
え、と思わず萩原と伊達の声が被る。
『降谷か?』
先程までよりもはっきりとした声がイヤホンから届く。大方萩原に頼まれたってところか、とその声は続けた。
『近くにいるんだろ?』
笑みを含んだ声だ。そしてだいぶご立腹である。
「さすが松田だな」
相手に聞こえもしないのに呟いた。
それを聞いて、他の二人の顔色が変わった。全員に言えることではあるが、まあこのメンツで怒った時に怖くないやつはいない。
「おい!どうするんだよ!ズラかるか!?」
「ばか、今出たら鉢合わせる可能性が…!」
「静かにしろ、それじゃあ居場所を知らせるようなものだろう…!」
本人たちはひそひそと話しているつもりだが、慌てた時に人は自分が思うよりもだいぶ大きな声が出ているものだ。
つまり、声など簡単に漏れている。
「どーもご丁寧にお知らせしていただいて」
障子の向こうから声がした瞬間、三人が一斉に声のする方を振り向いたのと勢いよく障子が開いたのはほとんど同時だった。
「奇遇だなあ、お三方」
「よ、よう松田」
「いやあ、本当奇遇だな…?」
「本当に茶番だな」
微笑んだ降谷を三人が睨んだ。
松田は降谷がイヤホンを手にしているのを見て、彼の隣にしゃがみ込む。
「全部聞いてたのか」
「ああ」
「萩原に言ったか」
「言うわけないだろう」
「そこはわかってんじゃねえか」
松田はニヤリと笑うと、すぐに真顔に戻って萩原を見る。目が合った萩原は少し不安そうに視線を返した。松田は、目を合わせたまま顎で個室を出ろと萩原に示した。
「そこの角、右に曲がって3つ目だ。俺が呼んだことにしていいから行け」
「えっ」
「好きなやつがいるんだとよ。いいから行けよ、奪ってこい」
「奪ってって」
「相談に乗ってやるフリして言ってこいっつってんだよ。…行かねーなら俺が」
「行きます!」
凄んだ松田を見て、バッと席を立った。そのまま廊下へ出る。萩原が出たところですぐに障子を閉め、松田は萩原が座っていた席へ腰を下ろした。にやにや顔の伊達と降谷と目が合って、チ、と舌打ちをする。
「残念だったなァ松田」
「お前は軽薄過ぎるんだよ」
「うるせえ」
煙草に火を付けた。ため息のように煙を吐く。
「つーか、あいつあんないい女だったか?」
「お前の目が節穴なんだよ」
「単純だな」
松田は二人にあっさりと言われて、あー、と声にならない声で嘆いた。




深呼吸をして、例えばそれは爆弾処理の最期の線を切るような心持ちで、障子を開けた。すぐに結果の見えないところは、例えの間違いかもしれない。
松田が戻ってきただけだと思ったのであろう彼女の顔は、自分の姿を認めた瞬間に凍った。
「えっ、は、萩原さん…?!」
驚く彼女はもうほろ酔い加減で、いつもよりも少し目が潤んで見える。くっそかわいい。思いつつ、自制心をも持って、向かいに座った。
「えーと、近くで飲んでて、松田に、呼ばれて」
「えっ、嘘、あいつ…!あの、何か聞いて…!?」
なまえはあからさまに取り乱した。酔いが回り始めると、段々と言葉を探せないまま思ったことをすぐ口にしてしまうようになることを萩原は知っている。
「好きな人がいるって、それで、よくわからないけど相談に乗ってやれって」
「そ、相談…!ええと、相談…!」
彼女はまさかという顔をしている。自分に相談をするほど信用がないんだろうかと不安になりつつも、萩原も酒をあおり緊張しているためにもう引くに引けなくなって口を開く。
「でもその前に、俺からも相談っていうかちょっと話したいことがあって」
少し早口で言うと、彼女はまた驚いた顔をして萩原を見つめた。
「…実は、俺も好きな人がいて」
「!」
言いながら、なんだこの暴露大会みたいな流れは、と思いながら回らない頭で言葉を探す。言ってしまえ、簡単なことだ。自分に言い聞かせる。好きな人に、好きだというだけだ。
「その、好きな人っていうのが」
「…ちょっと、待ってくださ…!」
言葉を遮る彼女の声が震えていて、驚いて視線をあげた。彼女は口元を手で覆っていて、目に涙を溜めている。
一瞬で、頭が真っ白になる。
「どっ、えっ」
「ご、めんなさい…!」
彼女はそれを見せないように、体を横に向けてしまう。どうしていいのかわからず、だけど咄嗟に彼女の隣に移動して、おしぼりを手渡す。
「大丈夫です、あの、酔ってて」
言いながらぼろぼろと涙をこぼした。不謹慎にも萩原はそんな彼女を抱きしめたくて仕方ないが、そんなことをして拒絶されることを考えたらどうしようと同時に考えてて、触れそうになった手を引っ込めた。
「ごめんなさい、いい年して恥ずかし…」
「俺こそなんか変なタイミングで来ちゃってごめん!やっぱり松田を呼び戻…」
「待ってください」
携帯を取ろうとした萩原を、なまえはその袖を掴んで制止した。
「相談とかじゃなくて、私萩原さんに言わなきゃいけないことがあって」
「俺に?」
彼女は袖を掴む手にぎゅっと力を込めた。

「好きなんです」

萩原が目を見開いた。
彼女は俯いたままで、膝にぽたぽたと涙が落ちる。
「私、萩原さんのこと好きなんです」
萩原は声が出ない。それどころか、何を言っているのか、頭が追いつかない。松田にはめられたのかとさえ思う。
彼女は、袖を掴んでいた手を離して、おしぼりをぎゅっと目元に当てる。
「ごめんなさい、好きな人のいるひとに、突然こんな。…でも、言わないでフラれるのかと思ったら…」
「ちょっ」
萩原は片手で顔を覆って、それからはああって息を吐き出す。
「ちょっと待って、本当に?それ…うわ、まじかよ嘘だろ先に…」
「は、ぎわらさん…?」
萩原の様子に戸惑った彼女は、おしぼりを離して彼を見上げた。彼は、なまえの頬に手を添えて、親指で涙を拭う。そのまま、目線を合わせる。

「俺の好きな人は月夜ちゃん、君だ」

彼女が目を見開く。
うそ、と声にならない声が漏れた。見開かれた目から、またポロポロと涙が溢れる。
「嘘じゃないよ」
ここまで泣かれるといじらしくて、戸惑うよりも愛しくて笑ってしまう。彼女の手からおしぼりを取って、そっと涙を拭いてあげる。
「りょうおもい、?」
ぽつりと尋ねられたその言葉の響きがあまりにも可愛らしくて恥ずかしい。
「うん、だから、俺の彼女になってもらえますか」
そう言った言葉に、彼女はコクリと頷いて笑った。




「付き合う上案外長く続くに一票」
「付き合ってもすぐ別れるに一票。つーか別れろ」
「どうでもいいけど萩原に恋人ができてなんで俺にいないのか」
松田と伊達が驚いた顔で降谷を見た。頬杖をついて気だるそうにしている。三人とも確実に飲みすぎている。
「降谷彼女欲しいの?つくれば?」
「要るかっていったら要らないけど欲しいと思うのは別」
「こっそり遊んでんだろお前」
「正直面倒」
「お前その顔でそれだからな」
「お前らが言うのかよ」
ぐだぐだと話しているうちに、松田が手洗いに席を立ち、障子を開ける。
「あ?」
「お」
ちょうど、目の前を萩原が通るところだった。彼の後ろには彼女がいて、さりげなく手を繋いでいるのを確認してしまった。
なまえは恥ずかしそうに目を逸らす。
萩原は彼女の手をぎゅっと握って、それから松田に向かって微かに笑った。
「悪いな、松田」
こんのやろう、と松田は心の中で呟く。こちとらキューピッドだというのに、根に持ってやがる。
「近いうちに自分のロッカーで爆弾処理することになるかもな」
「爆破予告かよ!」
「それくらいしても罰は当たらねえ」
「秒で解体してやるぜ?」
軽口を叩いて笑ってから、彼女の手を引いていく。
「陣平、あの、ありがとう!」
連れられながら、振り向いてなまえはそれだけ言って、二人は店を出て行った。
「逃した魚はでかいな」
伊達がそう笑ったのを聞いて、うるせえ、と返した。
「お前らもう一軒付き合え」
そうして彼らは男だらけで夜の街へ消えることにしたのだった。





(恋の失考人)

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