「愛してると大嫌いは似ている」


缶ビールを両手で持って座り込んだまま、彼女は言った。
「と、思いませんか」
真っ暗な海を見つめながら、続けた。
そばで、彼は煙草を咥え、ぶわ、と煙を吐き出す。突っ立っていた彼は、しゃがみこんで口を開く。
「もっかい言って」
肩の触れる距離だという。咥えたままの煙草から煙が立って、彼女の鼻先を通って消えていく。
波と風の音で、彼の耳には届かなかったようだった。
「そういうところだよ陣平」
「あ?」
「イケメンこわーい、って話」
わざとらしく、くく、と笑って、彼女は缶ビールをぐびぐびと飲んだ。
生温かく生臭い風が二人を撫で回す。

酔った勢いで辿り着いた先だった。
彼は同期たちと夜深くまで飲んでいた。ほろ酔いのものもいれば泥酔したものもいるなか、ちょうどそれぞれが帰路についたそのタイミングで携帯が鳴った。画面には彼女の名前。
彼女も学生時代の友人と飲んでいたらしい。しかし、飲み足りない、付き合え、という。酔ってやがるな、と思いながらその誘いに乗ったのは、もうあと三十分もすれば終電もなくなるであろう時間だった。
案外近場で飲んでいた二人は駅で合流し、そして酔っ払いはどうしてだかいつもは乗らない車両へ足並み揃えて乗り込んだ。

最果てまで行こう、と彼女が言った。

「なんとなく、帰りたくない」
うとうとしながら呟いた言葉を彼は聞き逃さなかった。もはや自分たちがどこへ向かう電車に乗っているのかもよくわかっていなかったけれど、彼はそれを馬鹿にはできなかった。人もまばらな車内には、夜中のしけった空気が満ちている。
「いいんじゃねえか。付き合ってやるよ」
そんなようなことを返したのだったと思う。気付けば二人して眠ってしまって、駅員さんに起こされて目を覚ますと、見知らぬ土地だった。ぼんやりしながら、駅を出る。深夜の風は幾分か涼しかった。
当てもなく歩くと潮の香りがして、誘われるように足を進めた。途中、他に客のいないコンビニで煙草とビールを買い込んだ。その頃にはもう酔いも覚めてしまっていたけれど、馬鹿なことをしているが故の、馬鹿なことをしていることに気付けない妙なテンションになっている。もはや原因は酒だけではない。それは夏のまとわりつくような湿気や、その空気のせいで増した潮の香りだったり、閑散とした知らない街の景色や、闇夜の静けさだったり、そして二人の曖昧な距離だったりした。
そうして歩き続けて海に辿り着き、着いたー!と謎の達成感に勢いよく乾杯したのだった。

「陣平彼女つくった?」
「そんな錬金術知らねえよ」
「あはは。だって作ろうと思えばできんじゃん?」
「どうだかね」
「…ま、いたらこんなとこいないか」
ねえ私にも一本ちょうだい、と、彼女は彼のポケットから勝手に煙草を取り出して一本抜く。風で上手くライターがつけられずにいる彼女を見て、顎を取り自分を向かせ、シガーキスで火をつけた。
「イケメンかよ」
「惚れろよ」
二人ともひっそりと笑って、煙を吸っては吐いた。ビール片手に、ぼんやりと黒く蠢く海を見ている。夜の海は、昼間に見るよりも大きく広く思えた。母なる海なんてよく言ったもので、その大きさや迫力はそういう言葉の規模を自覚する。自分がいかにちっぽけな存在か。

「私のことを好きらしいひとがいるんですよ」
波の音にかき消されそうな声が、だけどかき消されずに、今度は耳に届いた。
「そら物好きもいたもんだ」
「ほんとそれ」
「よかったじゃねえか」
「んー」
それは肯定でも否定でもなく、疑いの色を滲ませた唸りだった。彼も缶ビールをあけて、飲み始める。
「いい人なんだけどね」
「駄目なのか」
「嫌いじゃないよ」
「好きでもない、ってか」
肯定を示す笑みを浮かべた。
なんてよくある話だろう。
とてもいい人だ、人として好きだ、と思っても、それは愛だの恋だのという感情とは結びつかない。嫌いなところなんて思いつかないけれど、じゃあどうしようもなく好きだと感じるところだって思いつかない。この人を好きになれればいいのにと願う。それは相手にとってとても失礼なこととはわかっていても。
そして、人として友人として好きだからこそ、その目に見える自分への好意がその人の欠点になってしまう。
「己のわがままさに恥じ入りますわ」
「何言ってんだ。好意を持たれてる以上お前が選べる立場なんだからどっち選んだっていいだろ」
さも当然のように言う彼に、彼女は少し驚きながらも、その優しさに感心してしまう。
「常に選ぶ立場の男は言うことが違いますな」
「は。俺は選ばれたいよずっと」
そう言った彼を、彼女は思わず振り返って、その横顔を凝視してしまった。
柔らかくうねる髪が風でさらにぐちゃぐちゃになっていて、それがまた煙草を吸う姿によく似合う。ああ、なんだそれ、そんな台詞、いい男だな。夜明けが近いのか微かに明るくなりはじめてる。この薄暗闇で、彼女は彼が眩しく思う。
ずいぶん前、学生の頃に一度、彼に告白をされたことがあった。こんな風にさらりと、うっかり聞き逃すんじゃないかと言うくらい流れるように言ったんだった。
彼女は気付かないふりして冗談で片付けようとして、片付けられなくて、だけど友人としてそばにいることが楽しすぎて、彼を選べなかった。失くすことが怖かった。
あの時も夏だった。何かが込み上げそうになって、振り払う。
「いやいやいや、めっちゃ遊んでたくせに何を申しますかモテ男」
「遊びは遊びだろ。狙ったやつに選ばれなきゃモテるとは言わねーよ」
「ハイレベルすぎてわからない」
「わりと根に持ってるぜ、俺は」
チラリと彼女を見る。
胸がざわつく。
彼女は、思わず目をそらした。
「そういうところだよ陣平」
「どういうところだよ」
この顔で、このキャラで、こういうことを言うこの男はなんて、ずるいんだろう。そして、そんな彼に鼓動を早める自分はもっと、なんてずるい。
「陣平なんて嫌いだ」
ぽつりと呟く。
彼はいつでも何でもないような顔をして、彼女の心を乱す。側にいたい。一緒にばかをやっていたい。憎まれ口を叩きながら、笑っていたい。だけど、彼の周りに群がる女たちと一緒にはなりたくなかった。彼を好きになってはいけない。
だからこうして口に出す。心の中で何度も自分に言い聞かせる。こんな男、大嫌いだ。
「もう一回言ってみろよ」
彼が言う。
彼女は二本目のビールを空にして、脇に缶を置いた。どうしてやろうか。自分で言っておきながら、微かに自分で傷付いているなんてわおかしな話だ。
少し考えて、それから、彼女はフッと笑った。そう、言葉にしてしまえば、簡単なことなのかもしれない。好きになってはいけない。わかっている。でもそんなことを意識している時点で、もう手遅れなことだって、もうとっくにわかっている。

「陣平なんて、愛してる」

彼女からの反撃だった。
心臓の音がうるさい。軽く深呼吸をする。
しかし、反応がない。そっと隣を振り向く。彼は、口元に手を当てて、そっぽを向いている。覗き込むように彼の表情をうかがうけれど、もう少しで、見えない。 絶対にらしくない顔をしている。
「陣平?」
わざと探るように声をかけると、彼は自分の口元に当てていた手を離して、彼女に向き直った。またぐっと距離が近づく。
「…今のもう一回」
真っ直ぐな瞳が彼女を射抜く。その瞳に真っ直ぐと、視線を返す。
「…陣平なんて、愛して、」
る、と言い切る前に腕を引かれ、彼女の唇は彼のそれに塞がれた。咄嗟に離れようにも、頭に手を添えられていて逃れられない。
「…っ、ふ」
息が漏れる。舌が唇の隙間から入り込んで、ぬるりと彼女の舌をなぞる。唾液が、呼吸が、混ざる。
ぎゅっと彼の服にしがみ付く。やめてくれない。呼吸を確保するためだ、と自分に言い聞かせながら、彼に合わせる。
「っ…」
彼が眉をひそめて、ようやく唇を離した。ペロリと唇を舐めると、微かに痛みがある。
彼女が押しても叩いてもビクともしない彼を止めるために取った行動は、文字通り噛み付くという手段だ。
「やりやがった」
言いながら、彼は楽しそうに笑った。
「余裕かよ」
「余裕なんてねーよ」
言いながら、ぎゅっと彼女を抱き込んだ。先ほどのキスもあって少し身構えるが、その腕にこもった優しさを感じて抵抗はやめておく。
「あー…」
「なに」
「愛してるってお前」
「ちょっと言い過ぎかもしれない」
「ちょっとなら許してやる」
殆ど耳元で言葉を交わす。くすぐったいのは耳元なのか胸の内なのかわからない。
不思議と、さっきまであんなに鳴っていた心臓の音は穏やかで、彼の腕の中は居心地が良かった。
「ちなみにそれはラブか」
「なんて聞き方するの」
「ちなみに俺はラブだぜ?」
「…ばーか」
言いながら彼女は彼の背中に手を伸ばして、その体を抱きしめ返した。煙草と汗の混じった香水の匂い。ああ、私ももしかして汗臭いし酒臭いかも知れない、と思いながらもとても今更だと開き直った。
「おー」
彼が声を上げる。
「なに、」

「夜が明ける」

彼女は彼から体を離し、振り返った。
見る見るうちに世界が色づいてゆく。
眩しいのに、目をそらせない。
こんな一面の日の出を見るのはいつぶりだろう。二人とも、黙って日が水面から浮かぶのをじっと眺めていた。
「…映画みたい。ハッピーエンドロール」
きっと青春映画だ、とぼんやりと思う。
海辺の夜明けと、二人のシルエット。
「これからだろ」
彼は煙草に火をつけ、一呼吸、煙を吐いた。





(あの夏のひかり)

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