「あ、おかえりなさい」
「ただいま」

玄関先で音がしたので部屋から顔を出すと、彼がにこりと笑った。相変わらず綺麗な顔で綺麗に笑う。
彼は部屋へ入り上着を脱ぐと、当たり前のようにダイニングの椅子に座った。そして、それを見て私は食事の用意をする。食事が必要ない時は、リビングのソファに直行するので、私も聞かないし彼も特に知らせない。
彼が食事をする間は、私もダイニングにいる。一緒に食事をすることもあるし、もう済ませている時はただ話し相手としているだけだけれど、これもなんとなくそういうもの、になっている。
食事が済むと、彼がコーヒーを淹れてくれて、それを飲みながらリビングでゆっくりと過ごす。テレビを見たり、映画を見たり、雑談をしたり。
今日はなんとなくテレビをつけて、たまたまやっていたニュース番組を眺める。平和と言われるこの国でも、毎日事件や事故が起きている。
ふと、彼の顔を見ると、ジッとテレビを睨んで難しい顔をしている。私は彼の顔を覗き込むように体勢を変えて、人差し指で皺の寄った眉間を指す。
「こわい顔してる」
「え。ああ、ちょっと考え事を」
「うん、知ってる」
私が笑うと、彼はホッとしたように苦笑いをした。彼が警察学校へ行っていたことは知っている。その後どこへ入って何をしているのかは聞いていない。彼は優秀だから、きっとそれなりの部署にいるのだろうし、そうなってくると一般人の私にできる仕事の話なんてきっとほとんどないだろう。
「忙しいからなおさら無理かもしれないけど、頑張ってるんだから息抜きできる時にしておかなきゃ」
へらりと笑うと、彼はそれを見て困ったように笑った。ああ、思ったより今日は疲れているんだな、と思う。
「なまえには敵わないな」
「まさか。私があなたに勝てるものがひとつでもあるかどうか」
彼は努力の人だ。容姿端麗は生まれ持ったものでも文武両道は彼の実力だ。どうしてこんな人が私なんかの家でこんな風に寛いでいるのかわからない。
「俺を喜ばせるの上手いよなあ」
「例えば?」
「おかえりって言ってくれることとか」
「そんな」
そんなことで。と思いながら、喜んでしまっている。彼の言うことは、本気か冗談かよくわからない。
「そんなことよく素面で言えるよね…」
「酔ったらなまえも言ってくれるの?」
そう私の頬に手を添えて、親指で唇をなぞる。…この男は、本当に簡単にこういうことをする。
「と、言うわけで」
彼はすっと立ち上がって、上着とともに置いていたビニール袋から瓶を取り出す。メーカーズマーク。
「どう?」
「知ってると思うけど、私はそう簡単に酔わないから」
「望むところだ」
最近は随分と彼とお酒を飲むことなんてなくなっていたなと思い出す。私も彼も嗜む程度には飲むけれど、そういえば一度もお互いが潰れたところなど見ていない…はず。
彼は勝手知ったる我が家のようにロックグラスを取り出し、さらに私より器用に削ったまんまるの氷を入れて持ってくる。琥珀色のバーボンが注がれて、それぞれグラスを手に取る。
「いざ、勝負」
「乾杯」
カチン、とグラスの口元を合わせて、一口ずつ飲む。
「一応確認しておくけど、変なもの入れてないよね?」
「そんな卑怯なことを俺がするとでも」
「やりかねない」
「あっはは。心外だな」
楽しそうに笑って、またグラスに口をつける。そのまま私たちは他愛もない話で盛り上がって、簡単にひと瓶空けてしまう。彼は相変わらず飄々としたまま、次の瓶を取り出した。最初から飲む気で来ていたのか。仕事で、何か嫌なことでもあったのか、普段と何も変わらない様子の彼を眺めながら今晩はとことん付き合うと決めた。二本目が空になる頃には、二人ともほんのり顔が赤くなり、妙なテンションになっていた。正直、完全に飲み過ぎている。
「うわあ初めて…こんなにこれ飲むんだけど…」
「ギブアップ?」
「この歳で吐くとかしたくなさすぎる」
「俺が快方してやるよ?」
「零もべろべろじゃん…」
ソファに完全にもたれる彼と、テーブルに突っ伏す私。はたから見たらひどい光景だ。それが可笑しくて、口元が笑ってしまう。完全に酔っているけれど、酒は美味いし気分もいい。
「しあわせ」
呟く。彼はそれを聞いてズルズルとソファからだらしなく床に座り込み、私と同じようにテーブルに突っ伏して顔を寄せる。
「俺も」
酔って潤んだ目が細められる。ああ、酔いがまわる。
「あんたのしあわせとあたしのしあわせは別もんよ」
「なんだ、酔ってもかわいいこと言ってくれないじゃないか」
「ふふん」
私は起き上がってゆるゆるとソファに上がる。彼も体を起こして、こちらを振り向く。優しい目をしている。私の気なんてしらないで。
「…私は」
私が彼に対しておかえり、と言い始めたのは、彼が連絡もなしに一年以上姿を現さなかったことがあってからだった。家に来てすぐ、夕食の準備をしている間にかかってきた電話に出て、それから怖い顔して急いで出て行った。それから約一年半音沙汰なく、そして突然いつもと変わらない様子で家へ来たあの時から、おかえりって言いたくなったんだ。
「…零が生きてるだけで嬉しいよ」
例え彼の身に何かあっても、きっとどこからも連絡などこない。私は彼のことを、彼しか知らない。
「会いに来てくれるだけで、嬉しい」
少し声が震えた。ああ、酔っ払っている。泣きそうだ。
「でも!」
私は誤魔化すように、グラスに残っていた薄まったバーボンをぐいっと飲み干して、声を上げる。
「せめて海外に行く時くらい連絡してくれてもよくない?仕事だから仕方ないけど、どれくらいは普通の連絡取れないとか。仕事のこと聞かないのは私が勝手に聞かないだけだから私が悪いけど、ただ待ってるだけしか出来ないこっちの身にもなってよ。考えなさいよ。頭いいんでしょ。恋人でもなんでもない男をずっと待って、それなのにもし死んだって私はきっと知らないままずっと待ってるんだよ。ばかみたい。そしたら一生独身貫いて長生きしてとりあえず来世で探し出して祟ってやる」
酔っているわりに、ぺらぺらとよく舌がまわった。頭は回っていないので、言っていることはめちゃくちゃかもしれない。それすらもうわからない。
彼はじっと私を見上げている。
「ちょっと待って」
彼が真面目な声を出す。怒られる、と思ってぎゅっと空のグラスを握りしめた。次の言葉を待つ。
「は?恋人でもなんでもない男?」
えっそこかよ。言い過ぎただろうか。でも間違ってはいない。でも全体的に私のわがままなのは認める。でもそれはあなたが。でもでもだって。
「こいびとでも、なんでもない。…なんでもなくはない。気の置けないともだち…うーん、しんゆう、的な?」
なんと表現すればいいんだろう。
「あんな律儀に連絡して、連絡したらいつもご飯作って待ってて、全部言わなくても察して、セックスだってしてて、今だってそんな無防備な姿を晒しておいて恋人でもなんでもない?」
私が今考えていたことが、彼の声で再生される。おかしい。あれ、私今声に出てないよね?
「どこから突っ込めばいいかわからないな」
はああ、と珍しく彼がため息をついた。頭を抱えるそぶりをして、それからこちらに向き直る。真面目な顔。おそろしく整った美しい顔。
「あなたは恋人でもない男のためにそこまでするのか?」
「え」
なんて、目をしているんだ。ひどく冷静なようで、怒っているような、泣くのを我慢しているような。どういうこと。だって、しちゃってるんだから、仕方ないじゃない。
「まさか他の男にもそんなことしてるのか!?」
「するわけ、ないじゃん」
強く言葉に出したはずが、力が入らなくてため息混じりになってしまう。ああ、別に、あなたの言葉に呆れたわけじゃない。
「じゃあ、俺が他の女のところにもこうやって会いに行ってると思ってる?」
なんなんだこの男は。何が言いたいんだ。そういうことを考えたくないから、考えないように、一緒にいる時だけでも考えないように、しているのに。
「知らない、そんなの、わかんないもん、知らないし、知りたくない」
ああ、だめだ、涙が、耐えられない。いい歳して、情けない。
「なまえ」
彼の声が私の名前を呼よんで、その手が私の頬を包む。
「、」
彼の唇が、舌が、頬に触れる。涙をすくって、目元までキスが降る。
「…さけくさい」
「お互い様」
「うん」
そのまま彼は、私を抱き寄せるようにして起こして口を開く。
「俺が連絡するのも時間作って会いにくるのもひとの作ったもの口にするのも基本的にここだけだ」
「う、」
「嘘じゃない。それに、…俺はあなたを彼女だと思ってたんだけど」
「は」
「すんごくショックなんだけど?」
怒って、いる。ちょっと微笑んでるのが怖いくらい、怒っている。
嘘でしょ…。
「言われて、ない」
「……言っ……てない、かもしれない」
「言われてない」
私たちはじっと向き合う。
「………私が、恋人じゃないひとにそんなにするのは、好きなひとだからです」
恥ずかしい。恥ずかしいけど、そう感じるより先に言葉が続いて口から吐き出されていく。
「忙しいのもしってる、危険な任務についているんだろうこともなんとなく想像してる。零はむかしからモテるし、女慣れしてるからほかでどうしてたっておかしくないし、恋人なんて作っても邪魔なだけかもしれないし、そもそも零みたいなひとが私なんかにこだわるわけないって、でも私は、会いにきてくれなくなるのが、連絡がなくなるのが、こわくて、っ」
言葉を食われるように、唇を塞がれる。
「、」
アルコールの匂いと、彼の香水が混じった匂い。突然で、必死になって彼に応える。
「…好きだ」
唇が離れて、目が合った瞬間。
「嘘じゃない」
私の手を取った指先が、震えている。彼は俯いて、手元を見つめて自嘲するように小さく笑った。
「勝手に付き合ってるって思ってたくせに、こんなことを言うのは自分でもどうかと思うけど、軽蔑されるかもしれないことをわかって言う」
「…うん」
「俺が自分の意思だけで会うのも関係をもつのもあなただけだけど、仕事上似たようなことをしないわけじゃない」
「う、ん…」
「俺は簡単には死なないけど、俺も人間だから死ぬこともある。その時、全く連絡がいかないなんてことはないように出来るけど、ただ待たせた挙句帰れないことはないとは言えない」
「うん」
「ここからは本当に俺のわがままだ。俺はあなたのことすごい好きだし、他の男にもこんなことしてるなら相手の男を…社会的に…うん、とりあえず社会的には確実に殺したいし、正直俺のものにしておきたい。でもあなたが嫌だっていうなら、不安だっていうなら、俺はあなたの幸せを守るために身を引く」
「う、ん…?」
聞き漏らさないように注意して聞いていたら不穏な響きがあったが、彼ならやりそうで妙に納得してしまった。
「ふ、ふふ」
耐えきれず、声が漏れる。私は震える彼の手を握り返して笑った。彼はパッと顔を上げて、キョトンとした顔で私を見た。
「本当、ふたりしてばかみたい。ばかだから、私、多分曖昧なままでももし零が会いに来なくても連絡くれなくても、待っちゃうよ」
私は泣きながら笑って、彼はそれをみて安心したように笑って、私たちはまた唇を合わせた。
「俺の彼女になってください」
「…もちろん」
「じゃ」
言って、彼は酔っているとは思えない力で私を抱き上げた。
「ちょっ」
「抱く」
「まって、は、吐く、吐く」
抱き上げられた拍子に、気持ち悪さが一気に湧き上がる。彼の胸に顔を埋める。
彼はそっと私をベッドに下ろして、私の顔を覗き込む。
「はあ、」
息をゆっくり吸って吐いて、唾を飲み込んで落ち着く。彼は隣で横になり、ちょっと心配そうな顔をしている。
「もう平気」
言うと、彼は優しく私を抱きしめた。それから今度は彼がなんとも情けない声で言う。
「最悪だ。飲み過ぎた」
「気持ち悪い?」
「いや…その…」
珍しくもごもごと口ごもる。そっと私の腰を抱き寄せて、小さな小さな声で言った。
勃たない。
私はびっくりして彼の顔を見ると、彼はそりゃあもう赤い顔で目を逸らしている。
「ふ…、ふふふふ、は」
「………笑うなよ」
「だって、あはは、かわいい」
彼は気まずそうに拗ねたような顔をする。私はスイッチが入ったように笑いが止まらない。すると、するりと背中に人肌が触れる。
「っ、」
「入れなくても出来ることはあるし」
「だーめ」
私はその手をそっと諌めて、逆に彼を抱きしめる。彼は諦めたのか、私を抱きしめ返す。
「ね、零」
「ん」
「なんでこんな飲んじゃったの」
最初から彼は飲むつもりで来ていたし、考え事をしていると言うよりは、今日はぼんやりしていた。疲れているのかと思ったけれど、それだけにしては冷静じゃない。
「……谷崎元基」
「…うん?」
「……あの男は、本気みたいだよ」
「あー、うん、ええと、そう」
元基とは、最近よく飲む友人だ。大学時代の友人で、少し前に連絡をもらってからちょくちょく一緒に出かけている。
「え、調べたの?」
「俺の女に手を出そうとするやつだよ?」
「…理由に…なりませんけど…」
「十分だよ」
「…嫉妬?」
「まさか」
まさかこの俺が、と言わんばかりの様子に、私はまた笑ってしまって、あまりにも笑う私を不満そうに見つめる彼をぎゅっと抱きしめた。
「私には零だけだよ」
彼は私を抱きしめ返して、酔っ払いの私たちはどちらともなく気が付いたら眠ってしまっていて、また変わらない日常を繰り返す。だけどもう、待つのは辛くない。
その後、元基からの連絡が来ることはなく、さりげなく彼に話したけれど何にも知らないという顔ではぐらかされてしまって、私は思ったよりも危険な男を愛してしまったのだなと思うと同時に、本当に私には彼しかいないんだと完全に罠に嵌って愛しさを感じてしまう自分に、また笑いが込み上げてしまった。




(言わば伝うこと)

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