台風が近付いている。屋根にも地面にもバラバラと大粒の雨が打ち付けては弾け、曇天を映す水面は白くチラつく。
腹は満たされたし通い慣れた飯屋の店主は今日も気持ちの良い対応だった。にも関わらず心なしか気分が浮かないのは、積み重ねたまま置いてきた書類の山にこれからまた向かわねばならない憂鬱さだけではない気がしてくる。
だからと言って職務放棄などという選択肢は少しも浮かばないままに傘を掴み、多少雨に濡れることを厭わずに足も止めずに傘を開く。
バッと勢いよく開いた傘の端が視界でチラついて、思わず舌打ちをした。露先が骨の先端から外れ、揺れている。用途に支障はないものの目の前に揺れるそれが気になり、やはり足は止めないまま傘を閉じて俯きながら露先を骨にはめ直す。が、これが案外すんなりといかないもので、雨には濡れるし足元は覚束ない。
このまま濡れて帰ってしまおうかとも思いながら、鬼の副長とも恐れられる自分が傘を持ちながら濡れて歩く姿も、端のヒラヒラと揺れる傘を差して歩く姿も間が抜けて思えて意地になってグッと骨をしならせる。
と、ふと手元が翳り肩を打つ雨が止んだ。
「大丈夫です?」
「あ?」
声を掛けられて漸く立ち止まり振り向くと、思ったよりもすぐ真横にあった女の瞳と目が合う。女が自分の傘を傾けて雨を遮っていた。
「あ、いや。大丈夫だ」
手元の傘の露先はきちんと骨にはまっている。自分の言葉を肯定するように、傘を脇へ向けて開き彼女の傘から出るように一歩踏み出した。
そちらの傘とこちらの傘にバラバラと雨の弾ける音が重なる。
「そうですか。それなら良かった」
彼女は何でもないように、傾けていた傘を持ち直した。親切で声を掛けたわりには表情にも声音にも抑揚がなかったけれど、その肩の色が濃くなっていることに気付いて多少の警戒を解いた。
「悪い、濡れちまったな」
「これくらい平気です。土方さんこそ、風邪など引かないよう気を付けてください」
「ああ、今日は急に気温が低く…、」
世間話に興じ掛けて、改めて彼女を見る。何の変哲もない女だ。整った顔立ちをしているものの、その顔に覚えはない。
職業柄、人の顔を覚えるのは得意な方だと自負しているが、妙に媚びて近付いてくる女たちに記憶する容量は自分の中にはない。しかし、親切をするにしては温度の低い彼女の様子からして、その手の女たちと一括りにするべきではないだろう。
「失礼だが、どこかで会ったか?」
「…、真撰組副長の土方さんって、ご自分で思うより有名人ですよ」
「あー…。碌な話じゃねぇな」
表情の変わらぬままの視線が見つめる。黒目の中に映る自分の姿まで見えそうだった。
「そうですね」
何か言いたげにも思えたけれど、彼女はしらっと否定もしないで瞬きをした。謙遜から言葉が出たわけではなく周知の事実であると知っているから、世辞のない彼女の言葉を咎める気にはならない。
「では、私はこれで。お仕事、頑張ってください」
「ああ…、あ!やっべぇ、時間…!!」
仕事、と言われてハッとする。咄嗟に時計を見ると予定していた午後の仕事の時間に迫っていた。
彼女は、自分のことは気にせず、とでも言うように手のひらを向けている。それを確認して、失礼する、と一言だけ残して駆け出した。
自分の立場であれば、現場仕事ならいざ知らずデスクワークに多少遅れが出ようと、内部で咎められることはほとんどないだろう。けれど、立場があるからこそ示しがつかないような態度でいられようはずがない。
傘で雨を防いだところで、足元には泥が跳ねるのを疎ましく思いながらも屯所へ辿り着いた。時間は間に合っている。ひと息つきながらも平静の装いで部屋へと戻ると、心なしか増えて見える書類の山にため息が出た。今日はとにかく、湿ったこの空気の中でただ黙々と書類を片付けるのみだ。
そう渋々手をつけ始めてからふと、そういえばあの女の名を聞き忘れた、と思い出して、いやあの程度の出来事で女に名を尋ねることもないだろう、とすぐに思い直した。目の前の仕事に集中しなければいけない。
それにしても、親切で無愛想な不思議な女だった。
なかなか減らない書類の山と溜まっていく吸い殻に止まない雨音の中、度々思考が浮遊しては紫煙と共に吹き消しては筆を走らせた。



こりゃあ本物と信じりゃあ本物に思えらあな、と明確ではないにしても違和感を拭えない。
「旦那ぁ、この刀…」
「総悟」
隊員が安く銘刀を買ったというその店で、するりと身を抜いた一振りの刀を眺めながら、カマァ掛けてみるかと口を開いたところで声を掛けられ、首を回して振り返ると頬にぐにっと柔らかなものが刺さった。
やられた。声の主は得意げでも笑顔でもなく、見慣れた表情の乏しい整った顔立ちの女で、俺の頬に人差し指を刺している。
「なんでィ」
「ちょっと頼みたいことがあるから来てくれない?」
「それが人に物を頼む態度た思えねェな。ンなことよりこいつを見てみな」
「うん、だから」
シャラ、と軽く持ち上げて見せたその刀の違和感などさもご存知の如くで、彼女は刀を確認する素振りをしながら耳に口を寄せて声を潜めた。
「ここは引いていただけませんかね」
言われて、仕事に関わる話かと判断できた。こちとら非番だが、それを知ってでも突っ込んで欲しくない案件ということだ。
引いてやってもいいが、さて何を引き換えにしてやろうか。考えながら大人しく刀を置き、彼女と連れ立って店を出た。
「で? ありゃパチモンってことかィ」
「うん、偽物。刀として悪くないけど、刀匠と銘は一致しない。そこそこ大きな魚を釣ろうとしてるから、波を立てて欲しくないの」
「そんな話ァ降りてきてねぇな。うちの隊員も、ありゃあ十中八九つかまされてるぜ」
「丁度今、」
「あ、近藤さん」
店を出て当て所なく歩いていた先に、近藤さんの姿を見つけてつい口に出すと、すぐ隣を歩いている彼女の仕事スイッチが入ったのがわかった。近藤さんとは面識があるはずだが、近藤さんの隣には土方さんがいる。そういやあ、上手い具合にいつもすれ違っていた。
「珍しい組み合わせだなあ、総悟」
「知り合いか?」
「ん? そうか、トシはちゃんと会ったことがなかったかみょうじさん」
「みょうじなまえです。以後お見知り置きを」
近藤さんは彼女を土方さんに紹介し、彼女はそれを受けて真顔のまま定型文のような自己紹介をした。その淡々とした様子が初対面を思わせる久しいもので、近藤さんが緊張を解そうとドンと彼女の背を叩く。勢いが強すぎて、ひっそりと彼女の視線が鋭く近藤さんを睨むのがちょっと面白かった。そのゴリラは全く気付きゃしねぇぞ。
「近藤さん、それよりさっさと本庁の遣いを探さねえと」
彼女への挨拶などさらりと済ませ、仕事の話だ。こいつァどうやったって面白くねえ。
「それ私です」
「何?」
「本庁の遣いというのは私です。遅れる旨、山崎さんにお伝えしたはずなんですが行き違いましたか」
それを聞いて、チ、と舌打ちが鳴る。全くいつものことながら短気でいけねェ。それが自分たちのいいところでもあるけれど、事務方とはいえ本庁の人間の前で取る態度じゃないのは明白だ。自分よりも立場が上であるからということで態度を変えるような男ではないことも知っているけれど。
面倒だと思いながら、彼女と口裏を合わせたように簡単に事情を説明する。例の偽物について案件の詳細説明と注意の周知を行うために屯所へ向かう道すがら、まさに渦中の件に首を突っ込みかねない様子を見かけ止めに入ったが為に予定に遅れたという次第だ。行動を起こす前に連絡はしていたがどうやら連携が上手くいかなかったようだった。
「タイミング良し悪しかわからんが、捜査を台無しにせずに済んで良かったよ」
「偽物の証明が難航したせいで連携が遅れました、申し訳ないです」
「フゥン。じゃあんたの目利きだけが起因だったわけだ」
「ちゃんと幕府有識者の鑑定も通しましたよ」
「ほう。詳しいのか?」
「…いえ、」
尋ねられて、チョット考えるように間を開けてから、一般よりは詳しいが好きなだけだと謙遜なのかなんなのか曖昧な返答をした。好きなだけなのは事実と知っているが、一般よりどころか鑑定士も舌を巻く詳しさだとも知っている。あまり公にはしていないようだけれど、その辺は彼女の主義なのでどうだっていい。
「潜む魚や釣り方についての詳細は屯所で」
「うむ、そうだな」
「あ、休みのとこ悪いけど、時間があれば総悟にも聞いて欲しい」
両手を合わせて平然とお願いする彼女に、交換条件は、と視線で聞くと、キリッと視線が返ってくる。どんな返答だかわかりゃしねぇが、わかりやしたと返事をしておく。どの程度の気概かは後で擦り合わせるとして、仕事面して踵を返した近藤さんと彼女の後ろを土方さんと付いて屯所へと向かう。
「随分と仲が良いみてぇだな」
ぽつりと話し掛けてくる土方さんをチラと見ると、その視線は彼女の後頭部に向かっている。
「何ですか、気になりますかィ土方さん」
「いや、お前に友達なんていたんだなァと思って」
「誰かさんと一緒にしねェで下さいよ」
「おい、山崎のことか」
「…まあ、万事屋の旦那やチビたちとはまた別の意味で面白いたァ思いまさァ」
そんな彼女にこの男が何を思うのかも含めての意味だ。
思わず口元が緩んだのを目敏く確認した土方さんは気に食わなさそうに視線を逸らして再び彼女へと鋭い視線を突き刺す。近藤さんと礼節を持ちながらも親しげに話す本庁の使者への勘繰りか、この場で自分だけに過剰に保たれた距離への違和感か。
もしも噛み合えばこれほど合うことはないとも思いながら、そう上手くいっちゃあつまらねェな、と口の端を持ち上げたことを、今度は気付かれはしなかった。



本庁から新たに入った情報の伝達のために土方さんが張り込み部屋へと現れたのは、彼女が帰った少し後のことだ。彼女は差し入れを置いて幾つかの会話をしただけですぐに帰ってしまった。まあいつものことだ。
けれど、差し入れのパンと定食屋のクーポンを見た土方さんは少し怪訝そうな顔をした。
「総悟もお前もあの女と親しいようだな」
「親しいってほどでもないですよ。沖田さんと違って仕事絡みでしか会いませんし」
「そういやあ、あン時もあいつは非番だったな」
それがいつの話かは知らないが、そう言えばこの件の一報の取り次ぎの時に情報が行き違ってこっぴどく怒られたとき、真顔で楽しそうにしていた沖田さんは私服だった。
「ていうか、土方さん本当に知らないんですね。みょうじさん、慣れるまでは確かに分かりづらいですけど、親切で物知りだから市中での評判良いんですよ」
土方さんは自分の把握していない情報に対して、口角を下げた。と言っても、俺の視界はずっと望遠鏡越しの観察対象にあって、背中越しの雰囲気と想像力からそう思っただけだけれど。
「もちろん状況報告があるからですけど、いつも差し入れてくれるし、公務中でも困ってる人を放っておけないみたいで。それにめっちゃ強いらしいですよ、沖田さんが切れなかったくらい」
「ほう…。総悟が? そうは見えねぇがな」
「ですよね
彼女は自分から手をあげることはなく、支給の拳銃を持ってはいるがそこへ手を伸ばすことは少ない。基本的に防御と退避に徹するのだ。だから、沖田さんにも、勝ったわけじゃない。
「勝ちもしねえが、負けもしねぇか」
「さすが、松平公に気に入られるだけはあるってことですね」
「ああ、顔採用かと思ったが」
「あー、感情は読み取りにくいですけど、確かに綺麗な顔してますもんね」
「………そうだな」
驚きの間だ。思わず振り向いたら即座に頭を両手で抑えられグキッと首を回し直された。
「ちゃんと監視してろォ山崎ィ。一分の隙もなく一秒も目を離すな」
「いだっ痛い痛い痛いです副長!!回し過ぎィィイ!!!」
自分から言い出したくせに、自分で照れるなんて、別にいいけどなんで俺が痛い目を見なければならないのか。ていうか土方さんって女性に対して一般的な価値観持ってたんだ。彼女が綺麗な人であるとは認めるわけだもんな。
「みょうじさん、副長のこと憧れてるみたいなんであんまり偏見持たないであげてくださいよ」
「あ?」
首を摩り視線は再び監視対象へと向けながら、背後からの訝しげかつ威圧的な睨みに肩を竦める。
「話してみたかったみたいですよ。いつも理由付けて本庁の人と会わないじゃないですか副長」
「面倒臭ェだろうが。必要なことはやってる。大体、俺なんぞを憧れる奴なんか碌な奴じゃねぇ。大方、中央の人間にとっちゃあ真撰組との共同捜査なんざ見世物小屋見物みたいなもんだろ」
「…ぷふッ」
そりゃあいい。ゴリラと鬼とドSなんて金を払っても見たくないけど。
笑ってんじゃねぇぞ、とごちながら、しっかり見張れよと言い残して土方さんは出て行った。何しに来たんだあの人。自覚があるのかないのかわからないけれど、何を気にしているんだか。
ふっとため息をついて、手探りに差し入れへと手を伸ばすけれど、ガサガサと鳴る袋の感覚ばかりで探り当てられない。
「は?」
ついて目を離して視線を向けると、袋の中身は空っぽだ。
おい待てよ土方アノヤロー!!俺の木村屋のあんぱん!!



取引を抑え、偽りの銘入れを行なっていた刀工を捕縛、そして偽物を取り扱っていた販路を一網打尽にした一連の捕物劇から、悠長にも三日を空けての国外逃亡。あちこちに根回しして得た情報で嗅ぎつけ、真撰組と連携して無事に一組織の上層部をまるごと逮捕に至った。
警察車両と輸送車、主に真撰組の面々の行き交う様子を目立たぬように眺める。同じ警察組織の一員ではあるけれど、所属ごとに少なからず縄張り意識がある。本庁の人間である私がでしゃばっていいことはないだろう。
「来てたのか」
「お疲れ様です、土方さん」
組織の代表を取り囲み輸送車へと向かう中にいた土方さんが、こちらに気付いた。当然と言えば当然、ひと段落はしたもののまだ隙のない鬼の副長の顔をしている。本庁の人間である私に対しての態度には棘が抜けず、親しみとは言い難い声色だ。
「こんな騒がしい所まで御足労いただく必要はなかったろう」
「立場上、来ないわけにもいきません。机上ではわからないことも多いですし」
土方さんが目を細める。気分を害したかも知れない。自分が人見知りなことは十分自覚しているけれど、やはり土方さんを前にするとそれ以上に上手く言葉が出てこない。
「…関わった事件を最後まで見届けたい気持ちはわかる」
「そうですね。ひとまずは」
「…」
本当の最後まで、とはいかないだろう。正直、今回逮捕に至った組織は末端と言っていい。今後の尋問で多少明らかにはなるだろうけれど、更に上に何らかの組織や取引があるのは明白だ。けれど、国政や外交に関わらない範囲に留められることも同じく。
実動した真撰組の活躍はその立場を多少優遇する話題にはなろうけれど、後始末は本庁の預かりとなる。その後の取調云々で判明することの予定調和を、きっとこの人たちは許さないのだろうなあ。それは警察機関としての立場として、とても正しくて、眩しい。
「ここからは私どもの預かりになりますが」
「異論はねぇさ。そんなことで揉めやしねぇよ」
「御協力感謝します。日が暮れる前に済んでよかっー」
ふっと見上げた空は金と茜が滲むように交わる。マジックアワーとか、黄昏時とか呼ばれ方はいくつかあるけれど、劇的瞬間を生む時間であり、美しく眩しい光の分だけ影が闇として色濃くなる時間。連なるビルの影が立ち並ぶシルエットがくっきりと浮かぶ。
そのひとつに、豆粒ほどの影と、キラリと一瞬の光。
「ーッ伏せて!!!」
咄嗟に叫び、飛び込むように土方さんの肩を押した。瞬間に、左の肩に弾けるような衝撃と痛み。避け切れなかった。瞬く間に火が燃え盛るように激痛が身体中へと走るようだった。
痛い。けど、今はそれどころじゃない。
「っオイ!!」
「…ッ逮捕者を早く車に!急いで!」
護送車の前で群れていた隊員達に叫ぶ。
一瞬にして騒然とする場で、土方さんに支えられながら車の影へと座り込んだ。そこへ、もう一発銃弾が飛び地面を弾く。
大丈夫、誰にも当たってない。
「土方さん、怪我はないですか」
「馬鹿か!怪我してんのはそっちだろうが!!」
「私はいいんです」
土方さんが苛立った様子で口を開き掛けたのに顔を背け、車の扉を開けて無線へと手を伸ばす。逮捕者たちよりももっと上の組織の差金か。おそらく金で雇われただけの者だろう。真撰組を狙ったのか、逮捕者を狙ったのか。後者であれば、彼らは何か情報を持っているということだ。絶対に生かしておかなければいけない。一発目の狙いにしろ、その直後に二発目の発砲を行ったことにしろ、大した心得のある者ではないのは確かだ。重要なのは狙撃者本人よりもその後ろにいる者。
「C班××ビルへ急行。狙撃がありました。周辺ビルにも気を付けて、深追いはしなくていいからポイントは押さえてください。逮捕者、真撰組隊員に狙撃による怪我人はなし」
「救護班をこっちに…!」
「ダメです、ここにいてください。土方さんが狙われた可能性もあるので…ッ」
土方さんを止めるために振り返ると、車から引き摺り出されるように胸倉を掴まれ、ぐっと引き寄せられた。
「テメェはこんな時にも顔色ひとつ変えられねぇのか」
「…ええと」
顔が、近い。鬼の形相と例えられるに納得するほどの、けれど鬼と揶揄されるには優しさの滲む、熱い瞳。怒りを称えて尚整った顔だ。微かに苦い煙草の匂いが鼻先をかすめる。自分の血の匂いが邪魔くさい。
いや、そんな場合ではないのは、わかっている。平静を保て、私。
「大丈夫です、C班の待機場所は狙撃ポイントから近いですし、逮捕者も…、全員ちゃんと収容できてます。狙撃手を逃しても弾丸からある程度経路は追え…」
「そうじゃねえ」
「は、」
チッと怒りの表情のまま舌打ちをひとつすると、土方さんは手を離し徐に自分のシャツをビッと裂いた。えっと思わず声をあげる間に、端切れをぐるりと私の左肩に巻き付けギュッと縛った。
「ッ…!」
痛い。痛いなんてもんじゃない。せっかく切り替えていた頭に激痛という信号が雪崩れ込んで、それでも反射的に出そうになる涙を必死に我慢する。
「おー、苦痛に歪むそいつの顔を引き出すたあやるじゃねェですか土方さん」
「そ、総悟…?」
いつの間にかすぐ側に総悟が座り込んでニヤニヤとしている。表情が乏しいことは自覚しているけれど、私だって痛かったら顔を顰めるくらいする。けれど、改めてそう言われると恥ずかしいからやめて欲しい。
ダメだ、まだ仕事中だし、何より土方さんのいる前で不恰好なことはできない。
咄嗟にぐるりと体を車体へ向けて俯いた。俯いた、だけのつもりがぐらりと体が揺れてゴンと額を打つける。まずいな、血を流しすぎただろうか。
「…、」
言葉が、上手く出ない。恥ずかしい。けど、ええと、私はそれで、何をしなくちゃいけないんだっけ、このあと。
体が熱く、重い。ジンジンと痛む肩には、力が入らない。
「おい、どうした。大丈夫か?」
「土方さんのシャツから菌でも移ったんじゃ」
また総悟は、要らないことを言う。ああ、でも、土方さんのシャツ、ダメにしてしまったな。止血、お礼を言わないといけないのに。こんな醜態を晒して、もっと嫌われてしまうかな。土方さんはやさしいから、そんな風には言わないんだろうなあ。
「あぁ? だとしたら昨日の洗濯当番はテメェの隊の奴だろうが」
「当番のせいだなんてあんまりでィ。着る前ならともかく…」
「…だ、いじょうぶです」
体が熱い。汗が出る。肩が痛む。唇が渇く。けれど、そんなことでこの人たちを煩わせては。
「土方さん、も、総悟も、向こうの指揮、を」
「大丈夫なわけあるか馬鹿か」
「、ば…」
「悪いが、テメェを庇って怪我した奴を放っておくほど俺は落ちぶれちゃいないんでね」
ぐらりと体が揺れ、浮いた。体の気怠さと傷の痛みと回らない頭では、何が起きたのかわからなかった。
ただ、目の前に、土方さんの顔がある。
「俺は…俺たちはあんたの敵じゃねぇだろ。痛い時は痛い顔して辛い時は辛い顔をしろ、大丈夫じゃない時は大丈夫じゃないと言え。分かり辛ェんだよ」
「………は、い」
真っ直ぐにこちらを見下ろす瞳が眩しくて、どうしてか何ともないはずの胸が苦しい。今、私はどんな顔をすればいいんだろう。どんな顔をしてしまっているだろう。
少しだけ緩めただけの瞼が、勝手に閉じる。
急く歩調に体が揺れるのをどこか遠くに感じながら、次第に意識が途切れた。



火急の事態でなければ、あの女が遅刻魔であることは既にわかっていることだ。それでよく本庁勤めなどできるものだが、理由が理由であれば誰も咎められないのかも知れない。控えめにも、自分が周囲に手を貸すことも考慮して早めの行動は取っていることを主張することを忘れはしないから、尚更だ。
だからって撃たれて高熱を出して運ばれたたった二日後に、痛々しく片腕を吊るしながら他人の荷物を持ってやる必要があんのか。
「おい、貸せ」
杖をついたばあさんの隣で片手で抱える、風呂敷からはみ出るほどの荷物を奪った。目を丸くして驚いた顔がこちらを見上げる。
「土方さん…?」
「なんじゃ!? この白昼で堂々と盗みか!!返せ!!」
「こいつの代わりに俺が運んでやるってんだよ!この怪我見えねえのかばあさん」
「いらんわ!恩着せがましい真撰組めが!」
「おばあちゃん、あんまりはしゃぐと腰に響きますよ」
「大丈夫じゃ、なまえさんのおかげで最近は調子がいいからの」
ばあさんを宥めながら、やんわりと真撰組や俺へのフォローを口にする様子は、さすが人気者というだけはある。そう感心はするし、別にこいつが本庁の人間だからと警戒するつもりも最早なく、人間として嫌うわけでもない。ただ、なんとなくこいつの振る舞いは、もやりとする。
なんだかんだと憎まれ口を叩かれながら、ばあさんの目的地らしい病院の前まで送って荷物を返した。ばあさんの愚痴に平然と切り返すのは慣れだろうか。気付けば最後にばあさんは、ひとの眉間を指差してそれがなきゃあ男前じゃとカカカと笑っていた。余計なお世話だ。
そもそも俺は無駄に総悟に追い詰められてこいつを迎えに来て、こいつはあの事件のその後の報告のために屯所に向かっていた。当然だがどちらも公務の身だ。だから二人で街を歩いていることも、こいつがまた能面みたいに無表情でいることも何の不思議もない。ない。が、理由もわからず、苛立つ。
「お前ちゃんと、…」
「何ですか?」
「…いや、もうちょっと安静にしてた方が良かったんじゃないのか」
お前ちゃんと笑えたんだな。なんてことを、思うことも言うことも失礼だろう。この女の表情は真顔以外、撃たれた直後の痛みに歪む顔しか知らない。俺には読み取れない程度の多少の驚きだかなんだかってのは総悟にはわかるらしいが、それでも笑った顔だとか嬉しそうな顔だとかって表情は想像がつかなかった。それが、なんだよ、ばあさんには抵抗なく微笑み掛けるんだな。そしてそれは小さな驚きでもあったし、どこか不愉快だった。
言葉を飲み込んで当たり障りのないことを言ってしまった後悔より先に、感情の読み取れない顔がじっとこちらを見上げていた。
…感情の、読み取れない、顔?
「だっ…大丈夫です。弾は骨で止まってましたし、見た目が大袈裟なだけで。それに、最後まで私が報告にあがりたかったですし」
ふいと顔を背けた、その直前の顔は、なんだ。
「…シャツ、ダメにしてしまってすみませんでした。こちら持ちで新しいものを手配したのでじきに届くと思います。それで、その、」
こいつはこんなによく喋るやつだったろうか。総悟や近藤さんと話している様子から、無口でないことは知っているけれど。
一瞬の、どこか緩んだ表情に、顔を背けながらも隠しきれない耳の赤さは、何なんだ。そういや撃たれた後にも顔を背けて、発熱していた。
様子が普段と違うのは、他意はなくやはりまだ調子が戻ってねぇんじゃないのか。
「おい、やっぱまだ本調子じゃねぇんじゃ」
「いえ、」
「言ったろうが。大丈夫じゃないなら、大丈夫じゃないと言え…って、」
口元を押さえて、チラリとこちらを見た。その目は恨めしそうにも見えるし、縋るようにも見える。眉を下げて、頬が染まる。
「本当に大丈夫です。これは嬉しいやら恥ずかしいやらで、お見せできる顔じゃないからで」
「いやそんな話してたか?」
また、顔を背けた。体調を尋ねただけだと思うのだが、それでとうしてそんな、いじらしく振る舞う。
いや…いじらしい? なんて、思うのか? 俺が?
「………土方さんが私のことなんかを心配してくださって嬉しいです。それから、あの時土方さんが医療班の元まで運んでくれたと聞いて、お恥ずかしい姿をお見せしたなと改めて、思いまして」
そんなことで、あの能面顔がこれほどに崩れるものなのか。情緒不安定か。やはり体調が戻ってないのか。高熱の後遺症か。
「……はあぁぁぁぁぁ…」
「えっ」
ある意味表情の変化よりも驚きかも知れないくらい底深いため息を吐いた。かと思えば、ぱっと顔を上げ、キュッと体の向きをかえ変えると、丁度電信柱に向かって会釈をするように、額を打ち付けた。
ゴンッと鈍い音。
「は!?」
「…お見苦しい姿をお見せしました。もう大丈夫です。急ぎましょう」
そう、また抑揚のない言葉で言ってこちらに向き直った顔は、若干の頬の赤みは残るもののいつもの通りのしらっとした無表情。
何だ、それ。
「ふ…ははははははははっ!」
「…土方さん…?」
「ははは、わ、悪い…お前、そんな…戻り方あるか…?」
くく、と声が漏れる。あんなに動揺して、それか? もっと、感情のない、義務的で独善的な女だと思っていたら。ただただ真面目で不器用だってことか。
そんな顔も、できるんだな。俺に見せなかっただけで。
「すみません、公務中に。取り乱しました」
「あー、いや。悪い、気にしないでくれ。そのまま、行こう」
「…はい」
あんな顔を屯所内で見せられる方が気にかかる。ひどい人見知りとでも思えばいい。なるほど町人たちに好かれる理由はわかった。
とりあえず今は、さっきの顔が見れただけでよしとしよう。
気付けば妙な苛立ちも消えて、いつも通りの感情の見えないはずの顔に、疑問や照れの残る彼女の姿に、少し、ほんの少しだけ、親しみを覚えた。



きちんと整えられた髪。礼儀としての薄化粧。シワのない制服。崩さない正座にすっと伸びた背筋。澱みなく述べられる報告内容に耳を傾けながら、つい淡々としたその顔を眺めてよそ事を考えてしまう。
彼女が久しぶりに伝達役として屯所へ訪れた今日、昼、少しだけ屯所内が騒ついた。小雨が振り出した昼休みの時間だった。
彼女は、鬼の副長として恐れられるトシと同じ傘の下に並んで屯所へ姿を見せたのだ。傘を持たずに昼飯に出たトシと彼女が偶然出くわしたということで、何の不思議でもないのだが、何せ真撰組は男世帯だ。調子のいい奴らも多い。
「近藤さん? 私の顔に何かついてますでしょうか」
「ん?ああ、いやそんなことは!失礼した。内容については承知した。トシにも伝え、検討しよう」
「承知しました。お願いいたします」
トシの名前を出そうと、彼女の様子は変わらない。周囲のざわつきも彼女とトシの態度があまりにあっさりとしたものであったことで表ではすぐに静まった。トシには意図的なものだろうが、この子はどうだろうなあ。
「怪我はもう大丈夫ですか」
「はい。日常生活を送る分には問題ありません。元々事務方ですし、松平公にもご配慮いただいて現場へ出ることは完治までなさそうです」
「ほう。肝煎りと伺っていたが、あのとっつぁんが」
「松平公とは遠縁ですが親戚筋で、栗子さんと親しくさせて頂いているんです。今回のことで、栗子さんに酷く叱られたようで」
「なるほど」
とっつぁんはなあ、娘のこととなるとポンコツだからなあ。いつも無理難題を突き付ける人だが、部下とは言えやはりおなごには弱いらしい。
「土方さんにも総悟…沖田さんにもお手間を掛けさせました」
「いやいや、頭を上げてくれ。元はと言えばこちらの…いや、どちらの責でもないな。だが、そういうお達しですから」
膝前に指を揃えて背を丸めるのを止めさせる。
あの後、とっつぁんの指示によりトシと総悟は真撰組の仕事の合間に、交代で彼女の補佐をしていたのだ。それはそれで彼女も大変だったろう。何せ真撰組で一、二を争う問題児二人だ。
「少しは慣れましたかな。総悟とは元々親しくしてもらっているみたいだったが」
「親しく…かはわかりませんが、たまに仮定の犯罪考察に熱が入るのは、なるほど土方さんと戯れるためだったことはわかりましたね」
「…」
わかって、それ、止めてくれなかったんだろうな。だって二週間くらい前、ちょっと本当に死にかけたもんな、トシ。戯れってレベルじゃあ、ないな?
「土方さんにはお昼をご馳走して頂いたことがあって」
「えッッ!? まさか食べたの!? 土方スペシャル!?」
「はい、いただきました。私としてはちょっと物足りなかったのでタルタルソースを提案してみたんですけど、悪くないが俺は純粋なマヨネーズを楽しみたいとのことで」
あぁ、そういえばあった。食堂でトシがマヨじゃなくてタルタルで飯食ってたってひと騒動。そういうことか、結構気に入ってたんじゃないか。
ていうか。
「めっちゃ仲良くなってない…?」
「仲良く…は、どうなんでしょう…? なんだか妙にいろいろ気に掛けてはいただけてますが」
小さく小首を傾げる。淡々として分かりにくい表情や声音だけれど、こうして時折り見せる仕草は、時折り見せるからこそか愛らしく見える。これは単純な疑問の仕草だろうか。何となく少し照れも入っているだろうか。
なるほど、なるほど。それが、理由かもしれんな。
「そうか。騒がしい奴らだが、懲りずに仲良くしてやってくれると有難い」
「あ、いえ、こちらこそ」
さっと姿勢を整えて頭を上げると、ではそろそろと席を立った。以前より少し雰囲気が柔らかくなったのは、あいつらのお陰だろう。
しかし、総悟のみならずトシまでとはなかなか。皆、根は真面目で素直な子だ。
「あーっもしかして帰っちゃいました?」
「どうしたザキ」
バタバタとやって来てひょっこり顔を出したのは山崎だ。その手には紙袋を抱えている。
「いつも差し入れもらってるんで、今日来るって聞いてお礼にと思ったんですけど」
「すれ違ったな。まだ表辺りにいると思うぞ」
「うーん、引き留めるほどでも…。沖田さんと土方さんに見つかると面倒だし…」
そこで二人の名が出てくるとは。どう言うことかと聞いてみれば、どうやらそれぞれ手助けをしながらも彼女をどうにか動じさせようと仕掛けているらしい。何をそんなことをと思い返してみれば、いくつか心当たることはある。
彼女を知らず鉄壁の能面を向けられていたトシに比べ、総悟は仕事外でも親しくしていた。真撰組の中では圧倒的に総悟に対して気を許していることは明らかだけれど、どうやらあの一件の後、その総悟も垣間見なかった表情をトシに対して向けた。で、なにやら火がついたんだろう。
とはいえ、子供の意地の延長のようで、どちらもきっと春の香にゃあ気付いていなさそうだけれど。
「いや、それを届けて本庁まで送ってやってくれ。親切のために治りが遅くなってもいかんしな。あいつらはあいつらの仕事がある、怒りゃせんさ」
本当ですかァ? なんて疑わしげに言い残しながらも、ちょっと浮き足だったザキが廊下に消える。男だらけでここまで来て問題がないに越したことはないが、こうも女気のないままでは、どうも世話を焼いてしまいそうだ。
何より誰より鈍いのは彼女のほうかも知れんしなあ。折角だから、いろんな人間と関わって損はないだろう。元々が可愛らしいお嬢さんだ、あまり親しみやすくなればそれはそれで波乱も起きる可能性もあるが。
「何ニヤニヤしてんだ? 近藤さん」
「おう、トシ」
「悪い、話は済んじまったか」
「ああ、先程帰られたよ。今、送りにザキを出したとこだ」
山崎を? と訝しげな顔をするトシは、彼女ほどではないが分かりにくい男だと思われている。けれど、俺から見りゃあそわそわと、落ち着かない様子だ。
「何だ、お前が行きたかったか?トシ」
「いや。ちょっと聞きたいことがあったが…、まあ追いかけるほどのことじゃねぇや」
まだそう離れてはいないだろうけれど、ここで積極的に送り出してはザキに怒られるだろうな。さすがにトシも自分から行こうとはせまいか。
「昼に傘を借りた時によ、」
「相合傘なんかして一気に屯所内が騒ついたなあ!」
「ああ、途中で買おうとも思ったが、そう遠くもねぇし、ちょっと面白かったからな」
「面白い?」
どさりと胡座をかいて座ると、早速煙草に火をつけた。その口の端は楽しそうに持ち上げられている。
「いや、一緒に歩いてるとたまにあんだよ、妙に焦ったり驚いたり。いつもがいつもだからな、分かりにくい奴かと思やあ、案外面白い」
その様子を思い出したのか、トシはくく、と喉元で笑っている。お前、それは、恥ずかしがって照れているのではないのか。そしてお前は、面白がっているのではなく可愛く思っているのではないのか。えっ俺でもそう思うのにトシが気付かないなんてある? 俺の思い込み?
「それでなァ、思い出したんだ。あの一件の報告で最初に会ったのより前に、道端で会ってたんじゃねえかと」
「道端で? 困ってたところを助けられたか?」
「まあそれ程のこたぁねえが」
傘の露先が外れ、それを直すために雨に濡れていた時に女が気に掛け、一瞬だが傘を貸してくれたことがあった。それが、今思えば彼女だった気がすると。
「……今更?」
「だよなあ。いやそんなこと一々覚えてられねぇし、まあ同一人物だから何って訳でもねぇんだが」
「というかそもそも、もっと前に顔を合わせるだけなら合わせてるだろう。本庁勤めとはいえ、松平公の肝煎りだぞ」
将軍様のお忍び散策でも側についていたことがあるし、松平家へ邪魔した時には茶を出してくれていたこともある。いつもじゃないし、それ自体数の多いことではない上、彼女もなるべく気配を消すようにしていたけれど、それにしても。
「ああ? そうだったか?」
「そんなんだから土方さんはモテねぇんでさァ。何もあの卵と油の塊だけが原因じゃねぇや」
「総悟テメェ」
廊下から不敵な笑みを浮かべて現れた総悟の言葉に、トシが青筋を立てる。総悟の言うことも一理あるが、別にトシだってモテないわけじゃない。総悟もトシも見回りで女性に振り向かれてばっかりだ。俺と違って。いや俺は別にお妙さんにさえ振り向いてもらえればいいし振り向いてもらえなくたって俺の愛は止められないから別に羨ましくなんかないんだからね。
「あらァ俺の優秀な参謀という名のおもちゃなんで、こんな鈍感野郎に横取りされちゃあたまんねぇや」
「参謀って、お前あいつも巻き込んで俺を狙ってんのか!通りで最近精度が増してやがる…!」
「おっと、これじゃあ横取りの口実を与えちまったか」
「そもそもあいつはテメェのもんじゃねぇだろ、横取りも何もあるか」
「誰のもんでもなきゃあいつまでもテメェを慕ってると思ってんですかィ? じゃあさっさとテメェのもんにしちまったらどうですか、どうせそんな男気なんかねぇでしょうが」
テメェ、とトシが総悟を睨む。まずいか、これはまずいか。ちょっとやめてこんなところで修羅場なんて。総悟ちょっとこれ以上はやめてあげて。
「何言ってんだ? そもそも何であいつが俺を慕ってることになってる? さすがに嫌われてるたァ思ってねぇが」
「………いや嫌われろよもう。マジかよこいつ」
「そういやあ山崎曰く俺に憧れてるとか言ってたらしいが、そんなもん疾うに幻滅した後だろうよ。現場で事務方に庇われて怪我さすような男だ」
「………そ、そんなことはないと思うぞ、トシ」
「あー、妙な勘違いするんじゃねぇぞ。美味いものを分かち合える数少ない存在ってのはあるが、他意はない。ただ、如何せんお人好しすぎて目に付くだけだ」
本気なのか取り繕っているだけなのか平静を装って、トシはまだ仕事が残っているからとさらりと部屋を出て行ってしまった。
あいつは身内に対する嘘がヘタクソだなあ。
「近藤さん。俺ァまた、土方さんはどうせ手を伸ばせねぇんだとまだ思ってんです」
障子の端に背を預けて、睨むようにトシの姿が消えた廊下の先を見つめている。総悟はずっと、迎えなどないと知りながら待っていた人を、迎えにいくことはできないと分かりながら待たせている後ろめたさを抱えていた人を見ていた。
「なのに期待を持たせてんなら口実でも与えて引っ張り出してやろうかと思ってたら、もっと低レベルな馬鹿だったとは、全く期待を裏切らない人でさァ」
ケッと悪態をつく総悟にとって、彼女はなんなんだろうな。案外健気な男であることは知っているつもりだけれど、総悟がお節介を焼こうとする程度には、総悟にとっても彼女は大切なひとなのだろう。
「まあ、お陰で俺も本気出せまさァ」
「へ?」
そうにやりと笑った総悟の手は腰に下がる刀の柄に添えられている。
「言ったでしょう、あらァ俺のおもちゃでい。いつまで能面不敗でいられるか…」
クックック、と悪役魔王みたいな笑みを浮かべた総悟は、どうやら勝負という点で彼女へ拘りがあるらしい。それもただ若さ故の口実か。
何にせよどちらも、そして彼女も、なかなか手強そうなことだなあ、と微笑ましく思えた。




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