珊瑚に瑪瑙、翡翠に水晶。花々を象った銀細工に縁起物を模した鼈甲、飴玉みたいな蜻蛉玉に使い込む程艶やかな漆木工。
拡げた朱色の別珍の上に並べられた簪や櫛の色とりどりの輝きに心躍らぬおなごはいない。
なんて云うのは大袈裟かもしれないけれど、やっぱりひかりものの好きな女性は多い。
「あれもこれとと目移りしちまうねぇ」
綺麗に並べた小物たちを覗き込んで、日輪さんがうっとりと眦を緩める。黒々とした大きな瞳に宝石たちが映り込んで煌く。そんな顔をする日輪さんに、こちらがうっとりとしてしまいそうだ。
「相変わらず見事なものだな」
「月詠もたまには飾ってみたらどうだい?」
「わっちは別に…!」
日輪さんの横から覗き込んでいた月詠ちゃんが狼狽て顔を赤くした。品物を広げるたび、手にも取らないながらもひっそりと目を輝かせていることは、日輪さんももちろん私だって知っている。
自らその綺麗な顔に傷を付けて、影で生きていくことを決めた月詠ちゃんはまるで女の子でいることを辞めたようでいるつもりだけど、本当はとても女の子らしくて可愛いものや綺麗なものが好きなのだ。それなのに、憧れるばかりで中々素直じゃないのだけれど、そこもまた健気で可愛らしい。
「ベタだけど、月下美人はどう?」
並べられた中からひょいひょいと二本わきに寄せ、傍の小箱からも月下美人をモチーフにしたものを更に並べた。
宵の初めから花弁を広げ始め、月の下で冴え冴えと咲く美しい花。香り高く凛としたその姿は気品があり、他国では夜の女王との名もあると聞く。しかし明け方には萎んでしまう儚さが健気でいじらしい。
「随分あるんじゃな…」
「売り手が好きなものはどうしても必然と集まっちゃうよね」
「月下美人なんて月詠にぴったりじゃない」
月詠ちゃんは月の名だけだろうと呆れた顔をしてみせるけれど、美人だって大当たりだ。違うのは月の下で咲く花ではなく、月そのものであること。
日輪が太陽なら月詠は月だ。数ある星など取るに足らない、唯一の存在。
「びらびら簪も絶対可愛いけど、ちょっと幼い気もしちゃうから、もっとシンプルでさり気ない…ほら、これなんか」
言いながら一本の簪を手に取り、月詠ちゃんを座らせてすっとクナイの簪の傍に挿す。そして透き通るようなさらりとした髪を、指先で撫でて整えた。
煙草の柔らかく燻んだ香りが鼻先を掠める。月詠ちゃんの香り。
「ほらよく似合う」
針金で象った花弁に膜を張るように透き通る絹の白。シンプルだけれど、広がる花弁が華やかだ。艶やかだが媚びない、月詠ちゃんに似合う。
「馬子の衣装合わせか?」
なんとも失礼な言葉が背後から飛んだ。
「銀時…!!」
月詠ちゃんが、声の主である男の名を呼んだ。ほのかに頬を赤らめて、そしてハッとしたように簪を抜いてしまう。
現れたのは、坂田銀時。銀色のパーマに片脱ぎの着流しの、カブキ町で万事屋を営む吉原の救世主。
そして、月詠ちゃんの想いびと。
本人はもちろん一言もそんなことを漏らしはしないけど、しのぶれど色にいでけり月詠ちゃんの恋だ。日輪さんだってきっと気付いている。
照れ隠しに暴言を返す月詠ちゃんに坂田さんの本当に余計な一言が呟かれ、ヒュンとクナイが飛んだ。
そんな二人の戯れ合いからつい顔を背けて、行き場のない手は広げた簪へ伸びて、ひとつずつ小箱へと片付け始める。きっと月詠ちゃんの視線はキラキラとした宝石よりもあの鈍い光に向いて戻っては来ない。
そこに、ふっと骨張った手が伸びて、一本の簪と取った。まるで夜空の星の群れのような瑠璃玉薊の蜻蛉玉があしらわれた玉簪。
あっと思って顔を上げると、いつも通り覇気のない感情の見えにくい坂田さんの視線と交わる。簪を指先で摘んで、髪に触れるか触れないか、私の頭の傍に翳した。
「なにを…?」
「いや小間物屋なのにいつも小ざっぱりしてんなァと思って」
そう言って僅かに目を細めた。
「…私が着飾っても。これはお客のための品物ですから」
つい視線を逸らして、その手に触れないようにそっと簪を取り上げた。今手元にある中で、一番気に入っている簪を選ばれたことが少し憎い。
「それに、」
視界の隅で、きっと本人も気付いていないほど切ない月詠ちゃんの視線がこちらへ向いているのがわかる。気取られてはいけない、と客商売で培った作り笑顔を浮かべる。
「売り子があんまり似合ってたんじゃ、お客が自信なくしちゃうでしょ?」
「そういうこと言っちゃう?」
片頬に手を当て、まるで悩ましい仕草をしてみせると、坂田さんは鼻で笑った。その様子に、日輪さんも笑い、月詠ちゃんも呆れた顔ながら口元を緩めた。
「それから、女性にアクセサリーを勧めたならもちろんプレゼントする気概がなきゃあ野暮ですよ、お客さん?」
目の前に簪を突き出してやると、俺は客じゃねェと言いながらも、チョット焦った様子でチラと簪の値札を確認する。と、目を大きくして何度も確認し、当然ながら何度見ても変わらぬその値に目を泳がせた。
「いやほら、お前もさっきソイツに勧めてただろ? ほらあの、同じ客商売だしちょっと勉強させてもらったていうか?」
家賃の未納もパチンコ通いも日常茶飯事の男には動揺するしかないお値段だろう。吉原の救世主に感謝の気持ちはあるけれど、とはいえこのひとの魅力は理解し難い。
呆れ顔の月詠ちゃんは、それでも坂田さんを叱るように声を掛ける。でもそれは批判的ではなく、そういう人だと受け止めた上でのことなのは見ていてわかる。
月詠ちゃんは守ってあげる側の人だったから、守ってもらえて安心したのかな。頭としてではなく、肩を並べて背中を預けられる人ができて嬉しかったのかな。きっとそうなんだと思い当たる理由なんていくつもあるのは認めるけれど、だけど私にはわからない。

だって、この人は私のことが好きだ。

吉原を出たところで夕立に会った。月に叢雲、花には嵐、慕う人には想いびと。
月を覆い隠してしまう黒い雨雲は雲みたいにふわふわとしたあの銀色の髪と重ねて思われてしまってため息が出た。しっとりと重みを増して畝るその頭が、ちょっと視線を動かせば隣に見えるのが不本意だ。
日輪さんと月詠ちゃんが、日暮れに帰路に着く私を心配して坂田さんに見送りを頼んだのだ。断ろうにも、吉原の女たちの押しは強い。それに、いつまでたってもそうして月詠ちゃんが私を心配してくれるのは嬉しい。
雨に降られ、慌てて閉店後の煙草屋さんの軒下へと駆け込んだ私たちは、人気の少ない路地に雨が弾むのを眺める。ちらり、と坂田さんの横顔へと視線を投げた。重苦しい髪、眉と離れた気のない目。しゃがみ込んで頬杖をつく、その手は大きくて骨張っている。私よりも頭一個分くらいは背の高い坂田さんの後頭部を上から見ることなんて、そういえば初めてな気がする。つむじも見えない。櫛で解くのも手間がかかりそうだ。だけど、案外柔らかいのだろうか。それはそれで、簪は留まり難い。
叢雲の髪は濡れて鈍く銀色に輝く。そういえば、いつだったか西郷さんのところでちょこっと働いていた気がする。その時はサイドのツインテールだったはず。ボリュームがあるから、いっそ華やかに飾ってみたら素敵じゃないかしら。ああいうお店だし、可愛い路線でいくのなら敢えてのびらびら簪やビラカン、チリカンもいい。ふわふわの紙にキラキラゆらゆらと飾りが揺れるのは踊りにも映えるんじゃないだろうか。逆に、銀細工何かの精巧なものを、小さくいくつも挿してもいい。可愛く見せながらも、中身はしっとり大人であることを強調するようなイメージはどうだろう。
「何考えてんだい、お嬢さん」
「…原色に近いお色味もありかな…と、…ええと」
色々と想像を膨らましていたところに声をかけられて、つい思考を漏らす。振り返った坂田さんは呆れ顔かと思ったら、ふっと笑った。
ああ、ほら、その顔が、私は苦手だ。
「何ですか」
「いや仕事熱心なこって」
まるで私の考えていたことなんてわかっているような顔で、口元を緩めたまま言う。
よっこいせ、と年寄り染みた声をあげて立ち上がった坂田さんの上からひとつ滴が落ちて、毛先が微かに跳ねた。じっと、それを見上げる。
「そんなに俺の髪が珍しいか?」
「地球の方の天然の銀髪は坂田さんくらいですね。私、江戸しか知りませんけど」
「フゥン。ま、物珍しさで見られるのは慣れてるけどよ」
言いながら、がしがしと自分の髪を撫ぜる。けど、の続きは何なのだろうか。けど、あんまり見るものじゃねぇだろうよ、とでも続くのだろうか。何となくその響きはポジティブなものではないのに、声音にその気配は薄い。
気分を悪くさせたのなら申し訳ないけれど、言葉を続けなかった坂田さんに謝る言葉もなかった。
「綺麗なものは、見ていたくなるじゃないですか」
キラキラとした宝石も、艶やかな漆塗も、滑らかな木工細工もそう。それが飾る髪のさらりと櫛を通る手触り、絹のような艶やかさだってそう。身形に滲むその人の精神、生き様。それは私にとって、雪景色にひっそりと蕾をつける梅の花や、強い日差しに眩しいほど輝く打ち水や、艶々と朱に染まる鬼灯や、しんと冷えた晩の冴え冴えとした夜空と同じ。
「綺麗、ねぇ」
「あ、髪の話ですよ」
「それわざわざ言う?」
「私が存在丸ごと綺麗だと思うのは、日輪さんと月詠ちゃんだけなので」
勘違いしないでくださいね、と断りを入れると、より気の抜けた顔になってへいへいとそっぽを向いた。ちょっと拗ねているようにも見えるけれど、別段何とも思っていない男性のその仕草に可愛げはない。
「お前、ほんっとあいつのこと好きな」
「好きですよ。どうしても坂田さんのことが好きになれないくらい」
「え? 俺今フラれた?」
「月詠ちゃんが信頼する人なら信頼したい気持ちはあるんですけど、全然わかんない。でも興味ないわけじゃないですよ、何でこの人をみんな好きなんだろうって」
「ちょっと面と向かってそう言うこと言われるの久しぶり過ぎて心に来るわ…」
わざとらしく胸を押さえながら、店のシャッターに寄りかかる。がしゃん、と音が鳴るけれど、中々降り止まない雨の音に紛れて煩わしいほどではなかった。
突然現れ、吉原を救った坂田さんのことは、初めから苦手だった。街で見かけたことはあるけれど、いつでも死んだ魚の目をして、パチンコで負けて肩を落として歩いているか、大家さん或いは街の誰かしらに追われているか、酔っ払って千鳥足で彷徨っているのがほとんどで、それは今でも本質的には変わっていない様子だったから、吉原の、そして日輪さんと月詠ちゃんの自由を勝ち取ってくれたのは有り難くも、頑張って贔屓したってまだ、人としてすら好意を持てない。
私は自分が月詠ちゃんと一緒にいたいと望むくせに、月詠ちゃんが坂田さんと一緒になんてなって欲しくないのだ。
「…俺は嫌いじゃねェんだけどなァ」
「坂田さんマゾですか? 別に、私も嫌いじゃないですよ。好きになれないだけです」
「いっそ清々しいぜそこまで言われるたァ。ところで話は変わるんだが」
ハァっと息をついた後で、何だかちょっと真面目な顔をして、寄りかかっていたシャッターから体を離した。
「その坂田さんってのどうにかなんねぇ?」
「どうにかとは」
「銀時って呼んで」
「え、いやです」
「即答だな」
つい真顔で返してしまった。呼んで、って何だ。坂田さん、こういうひとだったっけ。何だか少し、いつもと違う、気がする。
否定の言葉を返したのに、どうしてこの人はちょっと楽しそうなんだろうか。口の端を持ち上げて、どこか嬉しそうにこちらを見ている。私の苦手な顔。
「日輪も月詠も、新八とか神楽のことだって名前で呼んでんだろ? 俺だけずっと坂田さんなのおかしくない?」
「おかしくないです。私、坂田さんとそれほど親しくないですし」
「だーから、親しみを持てばわかるかもしれないだろ俺のいいところ。月詠だって俺のことは呼び捨ててるじゃねぇか」
だから、呼びたくないんだ。本当は、いいところなんて知りたくなんかない。納得したくなんてないのだもの。知ったって、私が月詠ちゃんを好きなことは変わらないし、月詠ちゃんを取られたくないのは同じだから。
そうやって、傷付きたくなくて、逃げている。この人は、それを見抜いている、のなら。
それは、何だかとても、悔しい。
「ちょっと試しに一回呼んでみなって。途端に銀さんに愛着わくかもよ? 俺の髪触ってみていいから」
「結構です」
「珍しい髪色にさらにこんなに癖の強い髪なかなかねえぜ? いいのか? 何なら簪当ててみてもいいんだぞ?」
「…必死過ぎません?」
いっそ坂田さんが哀れに思えてきた。普段は月詠ちゃんに対してつっけんどんなばかりだけれど、実はこういう一面も見せているんだろうか。月詠ちゃんは優しくて押しに弱いから、こういうところを可愛いとでも思えてしまうんだろうか。
じっと、濡れてくるんと円を描く毛先の束を見上げる。色味の違いはあるけれど、その色素の薄さは月詠ちゃんと似ている。月詠ちゃんは直毛で細くさらさらとした髪をしているけれど、白く光るこの人の癖っ毛はどんな手触りなんだろうか。
簪や櫛を扱うからには、髪の色や質にも興味はある。珍しい銀のような白髪は、ひかりものや細工と同じように綺麗だと思う。綺麗なものには、触れられるものなら触れてもみたい。
「…呼ぶのは、一度だけですよ。髪、は、先に触らせてください」
「お触りして逃げんのはなしな」
「変な表現しないでください」
ムッと睨んだ顔はやっぱりどこか楽しげで、意地の悪い顔だ。乗せられている、とわかる。踊らされている。けれど、女に二言はない。この人の髪が綺麗なのであって、この人に興味なんてないのだ。月詠ちゃんの好きな人のことを知りたいだけなのだ。きっと、みんなに愛されるこの人にとって、明確に向けられた敵意が物珍しいだけなのだ。
言い訳がましく自分に言い聞かせながら、そっと手を伸ばす。背伸びをするほどじゃないにしても、触れようと思うとこんなに背が高かったのかと実感する。
「…触りますよ」
「ん」
坂田さんはちょっとだけ顎を引いた。俯いた目元にかかる髪を避けるように、その指先で触れる。湿った髪は重たく、畝った毛先が指に絡むようだけれど、引っかかるほどではなく指感触は滑らかだ。乾いていたら、もっと柔らかいんだろうか、とつい指先の感覚に期待をした、その時、きっと私は思うよりも無防備だったのだと思う。
指先で髪質を確かめるその手首を掴まれ、あっという間に引き寄せられた。手元に夢中だった視界が揺れて、目の前には坂田さんの瞳が静かに細められている。
それをそうとわかるよりも先に、唇に柔らかなものの触れる感覚。
「ーっ!?」
咄嗟に離れようとしても、片手は掴まれ、もう一方の手で腰を取られてしまって身動きが取れない。身体を逸らしても、するりと腰から背へ、背から頭へと手がズレて私の身体を押さえ込む。
「ふ、…」
苦しくって酸素を求め開いた唇の隙間から、ぬるりと生温かい舌が滑り込む。誘うように舌を撫で、嬲るように絡める。唾液が唇を濡らす音が、雨音に混ざる。
どうしていいのか、わからない。なんでなのか、わからない。
「ん…っ」
「、」
戸惑って、混乱して、声も出せずに咄嗟に噛み付いた。僅かに眉を顰めた坂田さんは、ようやく唇を離して、さっきまで私の口内を侵した舌でぺろりと自分の唇を舐めた。
「離して、」
まだ掴まれたままの手も、抱き留められたままの身体も、動かない。
雨でしけった身体は暑いのか寒いのかもわからない。
「だめ。まだ呼んでもらってねぇし」
「そんなのキスでチャラです!チャラどころか私が損です!」
「キスの代償はコレでチャラ」
坂田さんはべっと舌を出して見せた。舌の端には血が滲んでいる。舌を噛んで死ぬくらいなんだから加減はねぇだろ、と口の端を持ち上げる。
「呼ぶまで何度だってしてもいいんだぜ」
「救世主どころか悪役の台詞ですね。強迫だしセクハラですよ、準強制猥褻行為です。お巡りさんこの人です」
「残念ながら江戸のお巡りさんは大将がストーカーだ」
「何でなんですか」
震えそうになる声を押し殺して、滲みそうになる視界を耐える。悲しいのか、腹立たしいのかわからない。どこかで、ほんの少しだけ嬉しい自分がいることも許せない。
「そりゃお巡りさん本人に聞いてみないことには」
「そっちじゃないです」
「うーん?何でって、気のある女に隙がありゃ付け込むのが男だろ」
「いい性格してますね」
「手前ほどさ」
その笑顔が憎たらしい。乗せられた自分も馬鹿らしい。
どんなに言葉を交わしたってどんなに近付いたってどんなに触れたって、きっと私はこの人を好きになんてならない。それなのに、この人は私に声をかけて、こうして抱きしめて唇を落とすのだ。私にとって好きな人は月詠ちゃんだけで、この人は月詠ちゃんの好きな人でしかないのに。
ああ、それなら名を呼ぶことなんて特別なことでも何でもない。この人が誰であろうと「月詠ちゃんの好きな人」というだけなのだ。坂田銀時というその人が何者であろうと、関係ない。
「名前なんて呼んであげるから、離してもらえませんか銀時さん」
「…」
「名前、呼びましたけど坂田さん」
「もう戻ってる」
「一回って言いました」
あー、と呟きながら、坂田さんは腕の力を強め背中を丸めて私の肩に顔を埋める。頬に柔らかな髪が触れてくすぐったい。
どうして、何が、なんてちっともわからないけれど、わかりたいとも思わないけれど、この人は私のことが好きなのだ。こんなにも私の心は揺れないのに。
そう思ったら、まるでひとり月詠ちゃんに焦がれる自分を見ているようでかわいそうだった。
「喰っちまいてぇ…」
「破廉恥な心の声が漏れてます」
「もうちょっと動揺するとか本気出して嫌がるとかしないかね」
「動揺はしてるけど、それをあなたに見せたくないだけ。それに、懐の簪でどこでも刺してやろうと機を窺ってます」
「自分で言うところがねェ」
「何ですか」
「うんにゃ」
かわいそうなんだろうか、私は。ずっと月詠ちゃんに憧れて、気が付いたら月詠ちゃんのことが好きで、少しでもお話がしたくて、少しでもそばにいたくて。突然現れたこの人が吉原を救って、あの頃から少しずつ月詠ちゃんが変わっていくことが嬉しくて寂しくて、その視線の先にいるのが師でもなく日輪さんでもなくこの人だってことに気付いて悔しくて。
綺麗で真っ直ぐで可愛い月詠ちゃんを想う私は、とても醜くて汚い。
凛として健気でいじらしい月詠ちゃんが想うこの人は、とても卑怯で意地悪だ。
「いい加減、離してもらえませんか。私の簪、結構気合入れて研いでますよ」
ギッと下から睨みつけると、ちょっと間を置いたものの、おお怖いね、とちっとも怖がる様子もなく、ようやく腕の力が緩んだ。私は坂田さんの胸を押し返すようにして身体を離し、三人分くらいの距離を取った。遠い、と呟く声など聞き入れない。
「お前はあいつが俺のことを好きだとでも思ってるだろ?だったらあいつから俺を奪っちまえばあいつは少なくとも俺のもんにゃならないとかそう打算はないわけ?」
「ないです」
「意外だな」
「私があなたとどうにかならなくたって、きっとあなたは月詠ちゃんを好きにならないもの」
腹立たしいことに、きっと私たちは似ている。全然違うけど、とても似ている。私が坂田さんをちっとも好きになれないのと同じように、坂田さんが月詠ちゃんの想いに応えることはない。人としての関係の話ではない。男女の色恋の絶対的な壁がそこにはあるのだ。月詠ちゃんが、私を友人以上の関係で見ないのも同じ。
「じゃ、お前の気を引くために俺があいつと付き合いでもするとかは考えない?」
「その時は私、喉を突いて死ぬわ」
「そんなことされたら忘れられない女になっちまう」
「じゃああなたの喉を突くから死んで」
「やっぱ俺と付き合わねぇ? 別に好きじゃなくっていいし」
「話聞いてた?」
ふざけている。そんなことをして、どんな顔して私は月詠ちゃんに会えるというの。どんな気持ちであなたの傍にいろというの。
何かひとつでも表面的に答えが出てしまえば、それはどうあがいたって月詠ちゃんを傷付ける。そんなの、私が許さない。
「もう、送ってくれなくていいですから、ここで。私、帰る」
「送ってかなくてドヤされるの俺なんだけど」
「そんなのいつも適当に誤魔化してるじゃないですか」
帯に挟んだ大判のハンカチを取り出し、ひらりと広げる。気休めだけれど、それで頬っ被りをしていると、カシャンとまたシャッターに寄り掛かった坂田さんがこちらを眺めている。
「せめて雨が止むまで待ったりしませんかね」
「もう小雨なんで。坂田さんは止むまでいたらいいですよ」
これ以上の無理強いは流石にないようで、坂田さんは軒先から出る様子はない。それを確認して、傘を差すほどでもない小雨の空の下へと出た。
「じゃあ特別に一個だけ、キスと抱擁の釣に教えてやんよ」
泥濘む地面にひとつふたつと二の字が離れて行く前に、声が上がった。
「観客がいたぜ」
「…観客?」
「この雨で、自分は傘を持ってるのに別に一本傘を持って追ってきた女が一人」
「…嘘」
そんなの。まさか。
「…月詠ちゃんの、ことを言ってるの…?」
坂田さんは、肯定するようにニッと笑った。
見られて、いた? いつ、何を?
キス、していたこと? 抱きしめられていたところ?
来た道を振り向くと、道の端に傘が一本、転がっている。
嘘だ。そんな。だって、月詠ちゃんはこの人のことが、好きなのだ。私は、月詠ちゃんのことが、好きなのだ。
どんな気持ちで、月詠ちゃんはここまで傘を持って、どんな気持ちで、引き返したんだろう。
私はこんなふうに月詠ちゃんを傷付けるんだ。
「なんで、言わなかったの。…なんで? なんで、キスなんてしたの? なんで、抱きしめたりしたの? どうして私なんかにかまうの」
「おー、俺も自分の執念にゃびっくりだね」
「何がおかしいの。どうして笑っていられるの。全然、わかんない」
もう雨はほとんど止んだのに、足元にはぽたぽたと滴が垂れる。頬っ被りをしているのに、頬が濡れる。
「お前が言ったろ? 必死なんだよ」
悔しい。思う壺だ。なんて男だろう。相手が悪かったなんて諦め切れるものじゃない。
けれど、どこまでが偶然でどこまでが必然だったろう。何も壊したくなかった、できるだけ傷付けたくなかった、傷付きたくなかったのに。もう、何も変わらずにはいられないのだ。
月詠ちゃんが私の想いに気付くことなんてない。坂田さんが月詠ちゃんの想いに応えることなんてない。もうそれで十分だったのに。
「泣き顔も唆るねェ」
そう目を細めたのを見て、カッとして簪を投げた。ヒュッと空気を裂く音がして、ガシャンと坂田さんの耳の傍に刺さった。月詠ちゃんに教わった、クナイ代わりの簪の投げ方。坂田さんはちょっとだけ身体をズラしただけだ。呑気に悲鳴をあげながらも、ちっとも驚いてやしない。
「最低」
涙を拭って、被りを深くして、今度こそ足早に家へと駆けた。泥濘んだ道の泥が跳ねて、歪む視界は不確かで、悲しくて情けなくて腹が立つ。
月詠ちゃん。月詠ちゃんに会いたい。全部、伝えてしまいたい。ずっと大好きなことも、全然ちっとも坂田さんなんて好きじゃないことも、吐き出してしまいたい。
でもそんなのはきっと、月詠ちゃんを傷付ける。困らせたいわけじゃないのに。ただ月詠ちゃんを好きでいたいだけなのに。傍にいて欲しいだけなのに。
私はきっと、自分を許すことができないのと同じように、坂田さんを許せないだろう。大嫌いだと思ってしまっては掻き消す。馬鹿みたいだ。私なんかに、必死になるなんて。
あの人は私に憎まれることで私の中に自分の居場所を作ったのだ。
柔らかな銀髪と、細められた憂う瞳、意地悪に口の端を持ち上げた唇の形。
もう、拭えない。



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