「あ、すみません」とお手洗い前の狭いスペースですれ違った人は、店内なのにキャップを被ったままで、へにゃりと笑って「すんません」と危うげな足取りで避けてくれた。
がやがやと賑わう、いかにも大衆居酒屋で、今日は会社の面々との飲み会だった。ギュウギュウテーブルの端の席に戻り、注がれたお酒を飲み、向かいの上司にも注ぎ返して飲み勧める。
さっきの人、確か芸人さんだったな。キャップをして黒縁眼鏡を掛けていたけれど、見覚えがある。あまりテレビを見ないけど、関西弁の訛りをしていたし、多分、そうだ。関東での仕事だろうか。避けてくれた時、背中をぶつけていたけれど、大丈夫だろうか。いつものメンツでの飲み会で既に手持ち無沙汰な気分になっていたこともあり、なんとなく気になっていた。
視界の隅に、お手洗いへの通路がある。なかなか出てこないな、なんて思っていたら、ようやくキャップの彼が出てきて、奥の席へと戻っていった。良かった、と思いながら、テーブルでの下らない話に混じって笑っていたら、浮かない顔、というよりは青白い顔をしたキャップの彼が通路を出て行ったのを見つけてしまった。どうしようか、と考えるよりも先に、席を立っていた。
満席の店内からこそっと表へ出ると、外の空気は随分と冷えていて、熱った頬には心地良いくらいだった。微かに息が白む。左右を見回しながら少し進むと、角を曲がったところで座り込む人を見つけた。
「大丈夫ですか?」
声をかけるとびくりと肩が揺れて、パッとこちらを見上げてから、口を開きかけ、声が出る前に口を閉じ手で口元を押さえながら、もう一方の手でタンマと言うようにこちらを制した。
「耐えられそうなら、そっちのコンビニのお手洗いに」
しゃがみ込んで背を撫でると、口元を押さえたまま小さくこちらを見た。吐き気に耐えるためか潤んだ視線が訴えている。
「行きましょう」
体を支えるようにして立ち上がらせると、店とは反対側のコンビニに誘導した。耐えられなければ、申し訳ないけど一本細い道へ入れば緑道がある。なんとなく植物や土のあるところならセーフだと思っているので、様子を見ながらふらつく体に寄り添った。
幸いコンビニのお手洗いは空いていて、ひとりで大丈夫ですか、なんて聞いて、頷いたのを確認してからドアを閉めた。それから、お水と暖かいお茶を選びながら、ちょっと失礼だったかな、と小さく反省をしたり、接待的な飲み会だったのかな、なんて邪推をした。
十分ほどしてから、お手洗いからまだ青い顔をした彼が、気分の悪さだけではないしぼんだ顔をして出てきた。店内の端に設けられた飲食スペースまで誘うと、水とお茶を出して、飲むように促す。彼は一度は断ったけれど、その断りを断るとそろそろと暖かいお茶を口にした。
「ちょっと落ち着いたら戻りましょう。それとも、なんか理由つけて荷物、取って来ましょうか」
「あ、いや、そこまでしてもらわれへんわ、大丈夫。ほんま申し訳ない」
「あ、や、私こそお節介ですみません、その…」
何かで見たことのある彼は笑顔が多くて、くるくると表情の変わる気さくなお兄さんで、ただどうも世間に疎い自分が憎いことにその人の名前がぼんやりとも出てこなかった。
「…芸人さん? ですよね?」
「え。わバレてもた?」
「私でわかるってことはわりとバレてるかと思います…」
そーかー、と彼はお茶のペットボトルを両手で包むようにして、それからキャップをさらに深く被り、首を傾げるようにしてこちらを窺った。
「ちな、名前は覚えてくれてへん?」
「う。いや、そのですね、私テレビとか全然見なくて」
「ほんなら、全然見てへんのに顔は覚えてもらえとったっちゅうことで喜んどこ」
いつもの元気な笑顔じゃないけれど、弱々しくも優しく笑った顔を見て、不覚にもときめいてしまったのはこちらもお酒が入っているからだろうか。有名人だとか、案外顔立ちが整っていることだとか、そんなことは全く気にしていなかったけれど、なぜだかとてもかわいい人のように思えてしまって、気付かれないように深呼吸をした。落ち着いて、私。
「あ、自分ばっかでごめんやで。自分も飲んで。顔赤なってる」
「へ? あ、」
咄嗟に両頬を両手で覆って、それから差し出されたお水を受け取った。そうか、そう、私も酔っているのだ。まるでお酒のせいにして、お水を口にしたところで携帯のバイブ音鳴った。二人して咄嗟に自分のポケットを探ったけれど、鳴っていたのは私のではなく彼の携帯だった。顔を見合わせてから彼はちょっとだけおかしそうに笑って、断るように「俺や」と呟いてから電話に出た。
『ササラ!!お前どこおんねん!!!』
彼は携帯を耳から離し、その動きの通り大音量の叫びは、こちらにまではっきりと聞こえた。ササラ、ああ、簓さんだ。苗字は字面だけを思い出しながら、全然読めなくて覚わらなかった通り、やはり未だに読めなかった。だけどそうだ、芸人さんで、大阪のチームの。
「どこってお前、野暮なこと言わんとってや。今ええとこやったのに
少し顔色も良くなってきた簓さんは、声に張りはないもののそう茶化した。今度は言葉までは聞こえないけれど、電話の向こうで声を荒げているのがわかる。マネージャーさんとかだろうか、それともチームの仲間なのかも知れない。何度か冗談を挟みながら、彼は近くのコンビニにいることを伝えて通話を切った。
「このツレが心配性でな
「多分優しいって言うんですよ」
「せやなあ。真面目過ぎるんは玉に瑕やけど、馬鹿正直でええ奴や」
へにゃりと笑った、その安堵感が見えて、いいな、と思ってしまった。そのお連れさんが仲間なのか友人なのかわからないけれど、信頼できるひとがいて、気にかけてくれる人がいるというのは案外有難いことなのだと思う。芸人の仕事はもちろんだけど、第一線で闘うひとに、そういう存在があることって、とても、強いことなんじゃないだろうか。
「簓!!!」
飛び込むようにコンビニに入ってきたのは、またも見覚えのある顔で、そしてやはり名前は分からなくて勝手に申し訳ない気持ちになった。確か、彼は簓さんと同じチームの。
「ろしょーや
「ろしょーやちゃうわ!おっっ前は!ほんま!何してんねん!」
片腕に簓さんのものらしき上着と鞄を持って、もう片腕には自分のであろう鞄と一緒にドラッグストアのビニール袋を下げて、ツカツカと歩み寄ってきたロショウさんは、勢いよく吠えた。カウンターから、そっとコンビニの店員さんに注意を受けると、すぐに背筋を伸ばして「あっすみません、失礼しました」と訛りながらも標準語らしく答えてペコペコと頭を下げた。
「センセ、あかんよ他のお客さんに迷惑なんやから」
「いやほんますまんつい大声を…ってお前のせいや!」
「あっ俺のせいか」
極端に小声で話す盧笙さんと、ふざけ倒す簓さんに呆気に取られていると、ハッと振り向いた盧笙さんとバッチリ目が合った。
「えーと、さ、簓、この人は…?」
「んー、俺のええひと」
「「は?」」
「何や自分ら息ピッタリやん」
言われて、何だか恥ずかして二人して目を逸らした。
「す、すみません、私はその通りすがりのただの一般人で!」
「せや、めっちゃ心優しいやろ」
椅子に座って気怠そうに肘をついたままながら、簓さんは笑みを絶やさないで、俺が死んでたら声かけてくれてんよ、と盧笙さんに説明をした。
「それはほんまこいつがご迷惑を!あ、俺は盧笙申します」
「みょうじです。本当にあの、気になさらず…」
盧笙さんはペコペコとこちらが申し訳ないほど何度も頭を下げた。その拍子に視界に入った腕時計を見て、ハッとして簓さんの手を取った。
「あかん、タクシー待ってもろとるんやった!」
「うおっ!待ってや俺気分悪いねんから
引っ張られて、よたりと椅子から立ち上がった簓さんはチラリとこっちを見て、少しだけ真顔になった。あれ、と思った時にはもうニッと笑っていて、待って待ってと盧笙さんの持つ自分の荷物をあさり、何か紙を取り出すと一緒に取り出したペンでそれに走り書きをした。そして、私の手を取ってその紙を握らせる。
「嫌やなかったら、お礼させて、な?」
「え、あのっ」
「ほななみょうじサン、ほんまありがとうな」
「あ、お、お大事に…!」
「おおきに」
盧笙さんに引き摺られながらも、簓さんは投げキッスをしてよたよたとコンビニを出て行った。呆然とそれを見送って、ふとテーブルに残った二つのペットボトルが目につく。
盧笙さん、騒がしいってわけじゃないんだろうけど、嵐のようだったな。簓さんのあの弱った姿は、嵐の前の静けさってやつだったのかな。あの二人のやりとり、今思うと全部がコントみたいでなんだか面白かった。ふふ、と一人で小さく笑ってしまう。
手渡された紙は、名刺だった。白膠木、この字だ、この字。ヌルデ、と読むのか。読めるわけなかった。彼の名前を親指で撫でて、くるりと裏返してみると、走り書きされていたのは携帯番号だった。表裏と繰り返し見たら、その番号は仕事用とは別のもののようだ。
変な感じだ。有名人って、当たり前だけど、普通の人間なんだな、なんてことを思った。ああでも、さすがっていうか、魅力的なひと、だ。弱々しくも優しい笑顔と、最後の茶化すような投げキッスを思い出して、つい口元が緩む。恥ずかしいけど、少し、ううん、とても嬉しくて、一人でにやついてしまう自分が可笑しい。
なくさないように名刺をしまうと、丁度携帯が鳴った。なまえどこ? と、テンション高めの同僚の声が届く。もうそろそろお開きらしい。私はごめんごめん、と謝りながら、ペットボトルをゴミ箱に捨てて、店の外に出る。ひやりとした空気が、今度はやけに寒くて急に寂しい気持ちになって、とっさにポケットの名刺を指で撫でた。



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