耳触りのいいその声が、好きだと思った。
賑やかな教室のほんの片隅にいた私が、そんな風に彼に憧れていることなんて、きっと誰も知らなかっただろう。卒業して、大人になって、行きつけのお店なんてできてしまってから、またあの声に出会えるなんて、私だって知らなかった。
いつもカウンターの奥の席で、松田くんはハイボールを飲んでいる。大将や常連のお客さんと話すときは笑い声が聞こえて、店内が静かだったりすると少し低い声がやけに響く。私は教室にいた頃みたいにお店の片隅で、本を読んだり、携帯を見たり、ぼうっとするフリをして、耳を澄まして松田くんの声を聞く。きっと彼は私のことなんて知らない。なんて、全く、油断していた。
「いんちょう、傘持ってるか?」
突然の大雨でお客の入りが少なく、ラストオーダーも過ぎた頃。松田くんがカウンターチェアから降りて帰ろうとする様子を耳で窺っていると、とてもとても懐かしい言葉が松田くんの声で、いつもより鮮明に聞こえた。
「委員長」
もう一度呼ばれて、顔を上げる。ばっちり、こちらを見ている松田くんと目が合った。ついぐるりと店内を見回しても他には大将しかいなくて、それからまた松田くんの視線とぶつかった。
「傘。あんの」
「…え、あ、かさ、傘、は、ないです」
「キョドりすぎだろ」
動揺して、松田くんから目が離せないまま、視界の外で手が鞄を探すけれど、探し当てたところで折りたたみ傘も入ってはいない。あんまり私が焦るから、こう見えて気のいい奴だから怖がんなくていいぞ、と大将がフォローを入れる。
「ああ?やっさんほどの顔面じゃあねえぜ?」
「あんまり美しすぎても迫力が出ちまって困るぜ」
「は、今すぐ救急連れてってやるよ」
「た、大将は、男前タイプ、ですよね、!」
つい口走ると、二人の視線がこちらへ向いた。きゅっと心臓が掴まれたみたいになって、そうかと思うとどっどっとうるさいくらいに鼓動が鳴り出す。
「委員長まじかよ、こりゃ男前どころか悪党面だろ」
「まあお前よ、やめとけよ、な?男の嫉妬はダッセェぜ?」
「いや土俵が違ぇから」
松田くんが笑ったり、からかったり、冷ややかだったり、それに合わせて、声が少し高くなったり、低くなったりする。ああ心臓の音が邪魔だ。
「ところで委員長って何なんだ?」
閉店の時間を前に雨は一向に止まない。降り出す前に入店した私たちには傘の準備はなく、ぽつぽつと帰っていった他のお客さんに貸してしまって、もう傘は一本しか残っていなかった。もう帰ろうという時に、松田くんは私を気にかけてくれたみたい。
「委員長だったからな」
「あの、学生の時クラス委員をしてたんです。それで」
「あ、してそう、してそう。え、じゃあ陣平とクラスメイトだったのか」
「はい、一応」
「一応ねえ」
「え、あ、私と違って松田くんは明るいグループにいたから、その」
なんだか怒ったような、機嫌が悪い時の声音だった。大将はそうかそうかと大げさなほど頷いて、わしわしと松田くんの、湿気でいつもよりボリュームの増している頭を撫でた。松田くんは煩わしそうにその手をはたき落とすのだけど、それは二人の仲の良さを表していて、なんだか可愛く思えた。
「で、どこまで。近いのか?」
「あ、うん、十分くらいだから、傘は松田くんが」
「送る」
「へ、」
「ああ、そうしろ。もう閉めるぞ。俺は帰る」
え、え、と鞄を抱きしめて松田くんと大将を交互に見て目を回しているうちに、軒先に押し出され、男は狼なのよ、気をつけなさいと歌いながら、大将は容赦なく、ピシャリと表の戸を閉めた。肩が、松田くんに触れそうだ。煙草の苦い香りと、甘いようなお酒の香り。しっとりとろりとした夜の空気。
バッと傘を開いて軒先から踏み出した松田くんが、少しだけこちらに傘を傾けて促す。相合傘と呼ばれるこれは、絶対にどちらかが肩を濡らしてしまうこともわかっているし、松田くんと至近距離になることもその距離で聞こえる声にも耐えられる気がしないのだけれど、ビビんなよ、といつもより優しく響いたその言葉に私はあっさりと足を踏み出していた。

雨は降り続く。肩をぶつけないように縮こまって歩いた。アスファルトを跳ねた雨が足首を濡らすけど、それだけなのはやっぱり松田くんの肩が濡れているのだろう。しどろもどろのまま道案内をして、黙々と進む。傘を譲ってくれているだけじゃなく、歩調も合わせてくれることがわかってしまって、俯きながら彼の長い脚が交互に踏み出されるのを見ながら正気を保とうと必死だった。
だから家までもうすぐというところで、一瞬のことで、なにが起きたのか理解するのに時間がかかった。
「っぶね」
車のエンジン音と糸を引いて落ちる白い玉と弾ける水の音と珍しく慌てた声と体を包む暖かい熱のかたまり。それからまた、苦くて少しだけ甘いようなくすんだ香り。
「下ッ手くそが」
ぞくり、と身体中に何かが走ったような感覚。声が、近い。
「大丈夫か?」
…ああ。ああ、全然、ちっとも、大丈夫じゃない。
声が耳元でするのはその唇が耳元にあるからで、身体中が暖かいのは松田くんの腕の中にいるからで、どうやら車が跳ねていった水溜りの盾になってくれたみたいで、私は咄嗟に息を止めて、さらについ耳を塞ぐ。
「だいじょうぶ、です…!」
「いや全然大丈夫そうじゃないんだけど」
だいじょうぶなわけないじゃないですか。心の中で叫びながら、ジッと体を縮めているしかできない。声はやっぱり耳元からするし、暖かい腕はなかなか私から離れない。心臓と雨のノイズが止まない。
「ふぅん、耳弱ぇの?」
「ち、違います、みみよわくないです!」
「へえ?説得力に欠けてるぜ」
「ちが、だって、声が…!」
「声?」
松田くんは私を離さないままに傘を持ち直して、それから、ああなるほどな、とひとり納得して、それでどうしてだか腕の力を強めた。
「あああの、松田くん、雨、濡れて」
「あ?あー、別に」
声に弱いことを告げたというのに、松田くんは私のこめかみあたりに頬をくっつけるようにして少し俯いているから、手で隙間だらけに耳を塞いだくらいじゃその響きを防げない。好きな声で、なんだか落ち着くような声だけど、こんなに近くで響く声は私の心を震わせる。
「すぐ、もう、すぐ、うちだから、タオルとか着替え…られるものはないかな、オーバーサイズのなら着れるかな、」
なんだかいたたまれなくて、口走る。もう雨に濡れてしまったひとに、レインコートじゃ遅いだろうか。でも、私のせいで松田くんが風邪を引いたりしたらどうしよう。
「お前ってほんと…」
松田くんはそう言いかけて、くっくっと笑って、ようやく私の体を離した。ああ、松田くんってこんな風に笑うのか。いつものすました笑い方とは違って、つい見つめてしまった。
「今日はいいわ。焦りは最大のトラップだからな」
「とらっぷ」
「だが、俺以外の男、そんな気安く家に誘うんじゃねえぞ」
「まつだくんいがい」
「そ」
松田くんはフッと、まさに不敵な笑みってこういう顔のことを言うんだろうなって顔をした。それからまだドキドキして、うまく言葉を発せないままの私を家まで促して、断りなど全く聞かずに玄関の前まで送ってくれた。家に入るのはダメで、家の前まではオッケーなのか、とぼんやりと考えていた。
玄関の鍵を開けて、ありがとうを言いたくて振り向くと、松田くんの顔が思ったよりも近くにあって声は引っ込んでしまった。
「じゃ、おやすみなまえ」
耳元で囁かれた声に、私は金魚みたいにはくはくとするしかできなくて、何か言いたかったけれど、言葉がうまく出なかった。



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