「ま」と口を開いた瞬間に靴底と階段の角が滑って重心のコントロールがきかなくなった上に、その衝撃で膝がかくりとして力などはいらなかった。
「あ」と上がった声は小さな驚きから焦りに一瞬にして変わって駆け出して、本当にあっと言う間に私を捕まえた。
「つだ、だぁ…」
「っぶねえなお前!」
全力で彼の胸に飛び込むことになってしまった私は懐かしい匂いに気が抜けて、全力で私を抱き留めた彼は手摺に掴まってどうにか体勢を保ちながら息を吐いた。ここからどうしたら倒れ込まずに二人とも立ち上がれるのかわからなくて、しばらくうまく動けないまま、とても久しぶりの再会のくせにこんなに目の前に相手がいることに、私たちはつい笑ってしまった。

改札を抜けて、週のど真ん中だというのに、久しぶりの再会だというのに、時代のついた煙たい居酒屋に飛び込んだ。変わらない癖っ毛も、キザで口の悪いところも、纏う煙草の匂いも変わらなくて、だけどもっと伸びた背も、逞しくなった胸も腕も手も、まるで大人みたいな小さな気遣いも、なんだか全部が嬉しくて、きっとそれは、多分、松田だってそうなんだろうなって思ってしまうほど機嫌が良くて、だから私は意味もなくずっとにやにやとしていた。
「びっくりした、びっくりしたよ、かっこよくなったねえ」
「驚いたのはこっちだ、なまえ。相変わらず間が抜けてやがる」
私たちはまるでずっとこうして会っているみたいに、だけどあの頃とは違う、すっかり大人に馴染んだお酒の飲み方をして、たくさん話をした。青春なんて呼ばれるような日々を、どんどん思い出してしまって、遠くに思えていた記憶がすぐそこにあって、浮かれてまた笑う。
きっと、うん、確実に、飲み過ぎてしまっていて、だからつい言わなくてもいいことまで口にしてしまうのは歳を取っても変われないらしい。
「私、陣平のことずっと好きだったんだよ」

そいつは言って、それからふっと真顔に戻ったかと思ったらひとりでくすくすと笑いはじめた。二軒目のバーで、ウィスキー、三杯目。グラスの端をゆっくりと、くるりと指でなぞる。呼び方まであの頃に戻っている。
「違うの、うそ、うそじゃないけど、うん」
瞼は緩慢に瞬いて、言い訳を口にしては笑みが漏れた。照れ隠しなのだというのは知っている。ずっと好きだったのも知っている。半分は、信じていない。
「だった?」
煙草に火をつけた。なまえはなんとなく辞めたという煙草を、どうしてか開封もせずに一箱いつも持ち歩いているらしい。あの頃と同じ銘柄。
なまえはゆるゆる視線を泳がせながら、目を細めた。
「今はねえ、好きじゃだめなの」
なんだそれは、と動揺して笑った。吐いた煙を吸いそうになって、ぐっと喉が鳴る。その調子で好き勝手に垂れ流すのかと思った。そうしてくれれば、上手く利用していっそ、なんて思っていた自分にも動揺した。
なまえは諦めに似た笑みで誤魔化した。怒ったり泣いたりするよりもそうやって曖昧に笑ってしまったほうが、相手が何も言えなくなってしまうことをこの女は知っている。あの時だってそうだっただろう、お前。
「陣平はさあ、いつもタイミングが悪いんだよ」
「さっきナイスタイミングで助けてやっただろうが」
「確かに。運動神経いいもんねえ、さらに逞しくなっちゃってさ、ずるいなあ」
「間が悪いのはお前の特権だからな」
「おかげで劇的な再会になったでしょ?」
確かに、ただお互いを見つけて声を掛け合っただけだったらここでこうしてはいなかったかもしれない。軽く会話をしても、どこか遠いままだったかもしれない。自分たちの間に、妙な気まずさがないわけじゃない。
「助けるんじゃなかったか」
「でも陣平は絶対気付いてたから一緒」
「大した自信じゃねえか」
「私も見つけちゃんもん」
「理由になってねえだろ」
彼女が足を滑らせたのはきっとお互いに見つけてしまったからで、つまり何もしなくても見つけてしまっていたのだ。見つけてしまえることが俺たちを物語っている。会いたかった、とても。会わない方がいいのかもしれないと思うのと同じくらい。
「そっかあ、でもそうだねえ、間が悪いのは私かあ」
しみじみと、残念そうにため息とともに長く吐いた。この女は時々、まるでばあさんみたいに背を丸めてごちる。
「好きじゃ都合悪いタイミングねえ」
「ふふ、うん、私、結婚するんだよね」
ああ本当に、この女、間が悪い。

言った瞬間に目を少し大きくして、それからすぐに私の指をサッと視線だけで確認してから、疑うようにふうん?と鼻を鳴らした。相手は上司の紹介で出会った人だ。ほとんどお見合いと言ってもいい。何度かデートをした。最初から嫌な印象はなかったし、それなりの好意も抱いている。好きになってもいいかな、なんて偉そうに思っている間に、トントン拍子に結婚が決まった。半年後には式を控えている。
誰かに攫われてしまわないようにとすぐに結婚式を決めた彼は、だけど心が変わればすぐに破棄して構わないと、用意した婚約指輪を渡したくせに指にはめようとはしなかった。だから、私の薬指には指輪はない。
「浮かれたり、焦ったり、変な意地があったり、まあかわいいかなって思って」
だから、これでいいのかもしれないと思ったのだ。一緒にいるのには十分に好きになれる。そして彼は私のことが大好きなのだ。いろんな言葉を、態度を尽くして、彼はそれを語る。
「二番目に好きな人と結婚するのよ」
ずっと言い続けていたことだ。ずっと聞かせ続けていたことだ。好きだと言うのと同じくらいに、もっと。
「変わらねえな」
「ふふふ」
二番目に好きな人と結婚するの。失うくらいなら変わらないでいたい。叶わない気持ちすら愛しいと思えるのだ。恋人よりも近い距離でにいられる。だから、私がどんなにあなたに愛を告げても私たちは恋人同士だったことはなくて、だから今こうして、こんな風にまた、一緒にいられる。なんて言い訳をずっと守っている。
「好きじゃだめなんだけど、でも好きなものは仕方ないよね」
手に入らないから、こんな風にしか、私の中に、あなたの中に、この思いを残せない。

店を出て、頼りなげにふわふわと駅へと歩く。ご機嫌ななまえは鼻歌を歌いながら、髪を揺らしながら、軽やかにヒールを鳴らす。よろけるたびに支え、アルコールと香水の匂いがする。勢いに任せて、腕に絡みついてにこにこと笑っている。
「だーから、大人しく歩けって…」
「なんだかだって、とっても楽しいんだもん」
「だもんって、…おい!」
ぐらりと傾いた体を受け止めた。触れてしまうかと思うほど目の前に顔があって、酔って潤んだ大きな瞳が揺れて、柔らかな頬が上気して染まっていて、一瞬、迷った。迷って、留まった。
「陣平」
なまえは小さく微笑んで、すぐに俺の胸に顔を埋めた。しがみつくこともしなかった腕が伸ばされ、背中まで手が伸ばされる。小さく、温かく、脆く強い女。なんて顔して笑うんだ。涙をこらえさせたのなんか、初めてだった。
「ねえ、陣平、好きって言って」
その声はやけに穏やかで、冗談なのか本気なのかもわからない。本当はちっとも酔ってなんかいないんじゃないかとか、結婚の話から冗談なんじゃないかとか、そんな風に思ってしまいそうになるほど。
「…お前なあ、」
いくらでも簡単に好意を押し付けて、これほど近くにいるのに捉えさせてはくれなくて、いつでもお前の隣には俺じゃない誰かがいて、それでもお前の一番とやらが俺なのだとしたら、ずっと想っていればいい。なんて、言い訳を守ってきていたというのに。先に負けたのは俺だろうかこいつだろうか。
「あー…。…好きだよ」
ぎゅっと腕の力が込められたのは、一瞬のことで、すぐに力は抜けてまるで人形になったように動かない。
小さく小さく、吐息のように、え?と聞こえた。聞き返すんじゃねえよ。やけに恥ずかしくて、紛らわすように、停止してしまった細い体を抱きしめた。
「ずっと好きだったよ、ばーか」
力任せに込めた力に反応して、なまえはしがみつくように俺の背中を掴んだ。
「…、っ知ってた」
悲鳴のような声が震えていて、腕の力が緩んだ。体を離して、顔を上げたその瞳が揺れている。
「ずっと、知ってたよ」
俺を責めるように泣く顔は、同時に嬉しさを滲ませていて、なんて器用で不器用な女なんだとひどく、ひどく愛しい。
「…める、」
なまえは俺の指が涙を掬う前に、化粧が崩れるのも気にせず自分で素早く涙を拭った。
「結婚、やめる」
「…は、」
するりと腕から抜け出して、なまえはくるりと身を翻した。揺れるスカート、追うように打つ髪。いつのまにか取り出した携帯の画面をするすると撫でて、耳に当てた。
「ま、おい…っ」
「ごめんなさい」
止める言葉を待たずになまえは、はっきりとそう電波に乗せた。

心変わりなんかじゃないことは、この上なく愚かな私の本音で、それなのに泣きそうな気持ちになりながら言葉を連ねた。なんて勝手な女だと思ってくれればいい。あなたのことを好きになれたら楽だった、なんて薄情な女だと自分でも思う。彼はほとんどを相槌だけで返した。
僕に挽回のチャンスはあるか?
「きっと、ないわ。私にも」
彼が君をいつまでも捕まえていてくれる保障は?
「わからない。でも、それでも今もこの先も一緒にいたい」
そっかーっと、彼は深いため息みたいに少し投げやりに言って、取り止めにするにも一度段取りの話をしなければいけないから、そして電話だけで済ませる話でもないからとまたその日取りを決める約束をして通話を切った。
「お待たせ」
「お前それで本当にいいのかよ」
振り向いた先で、陣平は両手をポケットに突っ込んでこちらを射るように見ていた。真っ直ぐな瞳。
「いいよ」
「二番目に好きなやつと結婚するんだろ」
「そんなのいいわけだもん」
ずっとずっとずっと、だって陣平はどんなに優しくてもどんなに助けてくれてもどんなに近くにいてもどんなに好きだって伝えても、好きだって言ってくれなかったから。悲しくて寂しくて、叶わないことが悔しくて、情けなく言い訳して遠ざけていただけなんだもん。
「今、私すごく幸せなの」
好きな人が私のことを好きだと言ってくれた。
「それだけでいい。もう他はいらない。私は私の幸せのために、やめたの、結婚」
だから陣平に責任を取ってもらおうなどとは思っていないのだ。私が、私を陣平以外の誰かのものになりたくなかったのだ。ずっと気付いていたくせに、ずっと言い訳したくせに、そんなの全部持ってかれてしまった。たった一言で。
「おっまえ」
呆れたように、諦めたようにため息をついた。少しだけ、口元を緩めて。
その顔は、私がわがままを言うたびに、彼を困らせるたびにしていた表情で仕草で、私は嬉しくなってしまう。
「するか」
「ん?」
「結婚」
「え?」
にやりと笑った陣平は、すっと私の手を取って薬指に軽く唇を落とした。そこから段々と熱が伝わるように、全身が熱くなって心臓がどくどくと音を立てる。
「返事は?」
「…は、い」
はくはくと唇だけ空振りするように動かしてから、絞り出した答えに、お前のそんな顔初めて見たと陣平は優越感を隠さずに笑って、私は途端に恥ずかしくなって、陣平の胸に顔を埋めて顔を隠した。
ああどうしよう。帰りたくない。愛しくてたまらなくて力一杯抱きしめる。もっと触れていたい。
小さく小さく、返したくねえな、と囁かれて顔を上げた。目の前に、綺麗で生意気な顔がある。いつだって私たちは同じ気持ちでいたんだ、今だって。いいところも、悪いところも、正反対だし、とてもよく似ている。
そっと彼の指が私の髪を梳くように撫でて、私はそれにうっとりと瞳を閉じた。触れた唇は優しくて、絡む舌先は熱くて、何度でも唇を重ねた。






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