はい、はい、と指示に頷くなまえのうなじを見つめる。細い首。薄い耳に携帯を押し当てて通話しているその相手は日本の公安警察だ。
彼女は彼の協力者であり、学生時代の後輩だという。わかりました、と通話を切るそぶりを見せたあと、え?と素であろう声が出た。
「そう、ありがとう。じゃあ勝手にさせてもらう」
うん、うん、ともうその口調は友人としてのそれに変わっていて、その様子だけでもなまえが彼に親しみを持っていることも彼が彼女を認めていることもわかる。
彼らとの共同捜査ではなまえも行動を共にすることが幾度かあった。計画に対する察しがよく、話が早い。無駄な憶測を挟まず自分のやるべきことを遂行し、しかし予定外の事態の対応も的確だ。旧知の仲である彼との息も会う。
「向こうで上手くやったそうよ。ここで私たちの仕事は終わり」
「楽な役目だったな」
「そうね。降谷たちが頑張ってくれたおかげで」
そう携帯を示してから、鞄に放るようにしまった。何度か前に日本警察の堅さに辟易して、敬語はやめてくれと八つ当たりのように頼んでから、なまえは要らぬ遠慮はなくフランクに話してくれる。業務連絡や他の仲間たちの前では降谷くんに対しても敬語を崩さず、まるで部下のように話す彼女は、よかった、苦手なのよ堅い言葉、と笑ったのだった。
「この部屋は使っていいそうよ」
この部屋とは今俺たちのいる、待機場所として予約したホテルの一室だ。設定というものが必要だったため、ダブルで取っていた。
「セーフハウスにでも行くなら構わないし、でもどうせ別に部屋なんて用意してないだろうって」
「さすが読まれているな」
実際、夜通しになると踏んで何の準備もしていない。セーフハウスがないわけでもないが、庁舎の仮眠室で十分だと思っていた。
「君は?」
「必要なら別に部屋を取っていいって。降谷は後始末に忙しいし、帰るにはちょっと遠いしね」
結い上げていた髪を解いて、ざっくりと手櫛で梳かす。癖のついてしまった髪はうねり、ふわりと肩を撫でた。
「あなたがよければここで寝るわ。別で部屋を取っても経費で落としてくれちゃうし、そんなことに血税を無駄にすることないもの」
「いいのか?」
「駄目?」
なまえは化粧台に向かって髪を緩く結び直しながら、きっと他意はなく返した。鏡越しに目が合う。
「勝手にするとさっき言っていただろう」
言うと、なまえは目を細めて笑みを浮かべた。
「そうね、勝手にさせてもらうわ」
楽しげに言うなまえは鏡に向かったまま化粧を直し始めた。その様子をぼんやりと眺める。いつか、他人になりすまして生活していた頃に多少化粧について学んだが、しかし変装のそれと女の化粧とは違うものだ。
伏したまつ毛は長く、陶器のように肌は滑らかで、頬は微かに赤みを帯びている。少し幼い印象を与える丸い目を縁取るラインは目尻で伸び、日本人の顔立ちによく似合う涼しげな目元を演出する。直しながら、先ほどより薄く自然に見えるのが不思議だった。
「折角だからちょっと飲まない?ラウンジのバー、宿泊客なら使えるらしいの」
妙に色っぽく見えるのに、その態度は友人に向けるそれだというのが嫌でもわかった。誰とでも、とは言わないが、降谷くんに対しても自分に対しても、彼女はいつでも男女を感じさせない。それでいて男友達のようにも思えない。礼儀は弁えている、というのが近いだろうか。
「魅力的なお誘いだな」
丁度、煙草の葉が燃え尽きる。灰皿にそれを押し付け、空いた手でなまえの手を取った。

潜入捜査を行う自分たちは、選ばれるまでの段階で何度も試される。選ばれてもなお、試されているのではとも思う。自分すら騙してでも、他人を騙す。そうする中で自分を見失う者も多い。
専門的に見れば甘いところももちろんあるが、彼の協力者だけあって、人をたらし込む才能がなまえにはあった。ラウンジで酒を舐める間にも、彼女は何枚も名刺を手に入れデートのお誘いを囁かれていた。それを軽やかにすり抜け、面倒になると急に女の顔をして俺の腕に絡んで、有無を言わさず軽卒な恋の芽を摘んだ。
それが嫌味ではなくもどかしさを与え、なぜだかより彼女を魅力的に見せた。小悪魔的な笑みが、愛しく憎い気持ちを植え付ける。
「おそろしい女だ」
「あら知らなかった?」
何人もの男から差し出されたグラスの中身をするすると飲み込んだなまえは、それでも高いヒールによろめくことなく足取りは軽い。ほんの少し、頬の赤みが増しているだろうか。
「大したものだよ」
カードキーでドアを開ける後ろ姿に感心した。背中の大胆に開いたワンピースから剥き出しの肩甲骨が浮き出て、影ができる。小さな黒い羽根のようだな、なんて陳腐なことを思う。
「お酒の量の話?」
「それもだが、かわし方が」
不思議そうにこちらを振り向いて、うーん、と首を傾げてから部屋へと入っていく。再び髪を解き、ソファーに身を投げるように座った。
「高校生の頃、降谷と仲が良くて随分女子の恨みを買ったの。異性より同性って厄介でしょ?あの時に鍛えられたんだろうなあって今思う」
足首の留め具を外し、サンダルを脱いだ。腰を上げ裸足のままぺたぺたと歩き、冷蔵庫からビールを掴む。まだ飲むつもりか。
「再会してなお君たちは仲がいいから、今も周囲は複雑そうだがな」
つられるように俺もビールを手に、ソファに座り直した彼女の隣に腰を下ろす。二人の同席する会議での絶妙な空気を思い出した。
「やっぱりそう見える?」
「気付いてるだろう」
「わかんないわよ。何も言われないもの。だから何も言わせないの、面倒で」
心の底からの溜息をついて、ビールをあおった。なるほど。本人たちが学生時代の友人と言えば、彼らはそれ以上を問えない。しかし友人というにはあまりにも近い距離を見せつけることで、二人はそれぞれ自分への好意を誰にも許さない。
「君たちの間には少しも、そういうことはないのか」
「ふふ、やらしい聞き方するじゃない」
素朴な疑問だった。なまえは膝を立ててソファにもたれ、両手でビールの缶を持ってくすくすと笑う。めくれ上がったスカートの裾から太腿が見える。もたれてよれた隙間から、乳房の曲線の影が覗く。
「恋人だったことはないわ」
含んだ言い方はわざとだと知らしめるように悪戯な瞳がこちらを覗く。
「男と女だったことはあるけど、それはただ彼が男で私が女だっただけのことで、愛や恋とは違う。友情と呼べるのかも定かじゃないけど、まあ、情はあるよね」
当然のように、何でもないように彼女は言って、ごくごくと喉を上下させてビールを飲む。口の端から垂れた液体を細い指が拭って、赤い舌が舐めとった。
つい、手が伸びた。頬にかかる髪を避け、それを口実にするように頬に触れ髪を撫でる。肩を滑り二の腕を伝う。
「酔ってる?」
「どうかな」
からかうように笑むなまえの手までたどり着き、指を撫でた。
「やめた方がいいわ。私、セックスって好きじゃないのよ。きっと楽しくない」
「彼を経験しても?」
「今の彼を知らないけど、学生の頃の話だもの。お互いの体を使ったマスターベーションってとこでしょう」
「は、そうかもな」
彼がどう感じていたかは知らないが、若い頃には相手が誰であろうが関係ない行為は確かにあった。当時はその人でなければいけないと思っていても、後で思えばそれも雄と雌の行為でしかなかったのかもしれないとも思う。快感に溺れるしかないほどに余裕がなかったのだ。それが悪いとも思わないけれど。
「あなたはきっと、今はちゃんと相手を抱けるんでしょうね」
「君は今も自分を慰めているのか?」
「ううん」
彼女は小さく首を横に振って、缶をテーブルに置き冷えた指先で俺の頬を撫でた。
「相手を慰めてるの。優秀なラブドールでしょう?」
そう言ったなまえの目が、心をざわつかせる。平気な顔して、寂しげで切なげで、だけどそれで満足しているようにも見えた。指先は首筋を辿って胸を、腹を撫でてその下へと滑る。そこを示すようにくっと指先がまだ柔らかなそこを刺激した。
「あなたを経験すれば、最中でも人間でいられるかしら」
赤い唇が期待を口にする。掌を使って、包むように撫でる。堪らなくなって触れた指先を絡ませ、彼女の身体を抱き寄せた。
「試してみる価値はあると思うが?」
耳たぶを舐めるように耳元で囁くと、なまえは自信家ねとくすくすと笑った。
「今度はあなたをダシにするだけかも知れないわ」
「君に利用されるなら喜んで」
「いいの?降谷と寝た女よ」
「俺は君をサイドメニューにするつもりはないさ」
「それあの人が聞いたら怒るわ」
「この場にいない奴のことなど知るか」
俺たちはやけに真面目な顔で言い合って、それから目を合わせて二人して笑った。細められた瞳に光が反射して煌めく。
「私をメインディッシュにしてくれる?」
「ああ、なまえ。美味しく頂こう」
囁き合って、どちらともなくその唇に噛り付いた。





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