そうやって男を馬鹿にしているのか、と壁に押し付けられた。背中をぶつける。ドンと叩かれた肩がジンジンする。
「ちやほやされて、お姫様気取りかよ」
そんなつもりはない。ないけど、怖くて声が出せない。否定をしたら、また痛いことをされるかもしれない。
グッと乱暴に顎を取られる。足が震える。
「泣けばいいと思ってるのか」
滲む視界の中で男の恐ろしい形相が揺れる。祈るように、震える両手を合わせてぎゅっと握った、その時。男の背後で影が揺れたかと思うと、男は勢いよく飛んできたかのような何かにぶつかって横になぎ倒された。短い叫び声と鈍い音とともに。
「そういうテメェはどこの悪漢だ、ァア?」
男の倒れた向こうに仁王立ちしていたのは、隣のクラスの世良さんだった。
あの日から彼女は、私の憧れの人で、一番のお友達で、大好きな人だ。
王子様なんていらない
ショッピングの途中、かわいいブレスレットを見つけた。それはペアアクセサリーで、一つには仄かなピンクの石が、もう一つには透き通るグリーンの石が小さくはめられている。華奢でシンプルなシルバーがベースで、ユニセックスなデザインだ。私はつい手に取って凝視する。グリーンの石は、まるで彼女の瞳みたい。
「君のバラ色の頬の色だな」
「えっ」
突然降ってきた声に驚いて見上げると、怯えた顔になっていたのか、そんな顔を向けられるのは心外だなと彼は笑った。
「秀一さん…誰でも突然声かけられたら驚きます…」
「それは失礼」
悪びれなく笑う彼は、真純ちゃんのお兄さんだ。私が真純ちゃんを慕っているのを知っている、真純ちゃんが大好きなひと。よく披露する推理力も、軽々と男性をも叩き潰すジークンドーも、お兄さんへの憧れで身につけたものだという。
それだけで、私も憧れているし、嫉ましくも思えるひと。
「帰ってたんですね」
「ああ、急だったから準備が足らなくてな」
そう手にぶら下げた買い物袋を持ち上げた。以前真純ちゃんに紹介されてから、真純ちゃんの話で盛り上がっていろいろ話を聞いてもらっているけれど、お仕事が多忙らしく真純ちゃんがヤキモキするほど神出鬼没に、アメリカと日本を行き来している。
「真純ちゃんには連絡してるんですか?」
「これからする。明日あたり、家族で飯でもいくだろ」
「楽しみですね」
真純ちゃんが似た、というのが正しいのだろうけれど、真純ちゃんを先に知る私からすると、彼は真純ちゃんによく似ていた。
意外と人懐っこいところや好き嫌いのハッキリしたところ、乱雑で繊細なところや心配性で優しいところ。見た目だってそう。特に目元はそっくりだ。鋭い眼差しの奥の深い緑色の瞳は温かい色をしている。
「それは」
「あ、これ、可愛いなって思って。ペアのこっち、真純ちゃんみたいで」
グリーンの石を示して言うと、秀一さんは微笑む。
「ほう。それなら俺もそうだが」
「お揃いなんてずるいですよね」
「兄妹だからな」
生まれ持ったものにずるいと言っても仕方がないのはわかっているけれど、それでも羨ましい。
秀一さんは私の目線の先からブレスレットを指に引っ掛けると、なんとも自然にレジへと向かい始める。私は慌ててその腕を掴んだ。
「ま、待ってください」
「何だ。欲しいんだろう?」
「おねだりした訳じゃないですから!」
「わかっている。だが、迷った時は買った方がいい」
「自分で払いますっ」
私が腕を掴んでも、彼は足を止めないのでそれに連れられるようにして一緒にレジまで向かってしまう。
「日本ではこういう時男が払うのでは」
「誤解です。喜ぶ人もいるかも知れないけど、秀一さんに払ってもらう理由はないので」
「プレゼントだ」
「ダメです、それは私から真純ちゃんへのプレゼントなので私が払います」
ふむ、と彼は納得したようにして、それからピンクの石の方を私に手渡した。
「ではこちらの分を君が」
私はそれを受け取るために彼の腕から手を離した。当たり前のようにこちらを手渡した彼の顔を見上げる。彼女の瞳の色を、彼女にプレゼントしたいのだと思うのが普通だと思われると思っていた。
「お揃いがいいんだろう?」
そう、グリーンの石をこちらに見せる。お見通しだ。私は彼女の色を身につけたかった。
どちらにしても、彼にプレゼントしてもらう義理はなかったのだけれど、スマートに会計を済まされてしまったのでもう受け取るしかなかった。
その翌日、お昼休みのことだった。
「なぁ、キミって秀兄のこと好きなんだろ?」
蘭ちゃんはお昼休みも返上しての大会準備、園子ちゃんはそのお手伝いに行ってしまって今日は二人でのお昼ご飯だった。昨日買ったブレスレットを渡すチャンスだと思って、そわそわしながら向き合った彼女の開口一番に、私は驚いて、悪戯っ子みたいな彼女の顔を見つめた。
「…なんで、急に?」
「へへ。昨日、ショッピングモールで見たんだよ。二人で雑貨屋さんにいただろ?」
「う、ん、見てたんだ、」
ざわざわと、胸の中にもやが広がっていく。どこまで見ていたんだろう。彼を引き止めるところまで見ていたら?あの様子が、もし人から見てまるで甘えているようにでも見えたのだとしたら?
それだけじゃないのかもしれない。もっと前からそう思われていたのかもしれない。だって、真純ちゃんも一緒に秀一さんと遊んだことだって、ご飯に行ったことだってある。そうして確信に変わったんだろうか。いつから。どうして。
「声かけようと思ったんだけど、仲良さそうで邪魔しちゃ悪いかと思ってさ」
彼女は得意げに続けた。
気を、使ってくれただけなのだ。彼女のそういう、簡単に調子に乗っちゃうところや素直に嬉しそうな表情が好き。だけど、私は目の奥が熱くなるのをじっと耐えていた。そうじゃないの、真純ちゃん。
「秀兄はかっこいいもんなー。あの仏頂面が玉に瑕だけど。でもキミといる時はちょっと笑うんだよなあ。ふふ、好きな人が好きな人と仲良しなのは嬉しいな」
屈託無く笑う彼女に耐えられなくて、広げたお弁当に手をつけられないまま、席を立った。ガタリと、椅子が鳴る。
「え?」
彼女が目を丸くして、私を見上げた。その表情が滲んでいくのがわかる。好きな人が好きな人と、なんて、贅沢な言葉をもらっておいて。
「私も真純ちゃんが好きよ」
呟くように揺れた言葉とともに、涙が零れた。見開かれた瞳が、拒絶の色に変わるのが怖くて、私は急いでお弁当に蓋をして乱雑にフキンに包み、お手洗いに行ってくるね、なんて白々しい言葉を残して席を離れた。
「あっ!待って!」
止める言葉も聞かずに、逃げるように教室を出て、廊下を走った。泣き顔なんて不細工な顔で、彼女の前になどいられない。
保健室のベッドに座り込んで、先生に渡されたタオルを目に押しつけて深呼吸を繰り返す。私を囲むカーテンの向こうには、真純ちゃんがいる。
運動神経抜群の彼女から逃げ切れるわけもなく、だけど私は掴まれた腕を振り切って、私からの拒絶に唖然としている彼女にさらに背を向けてここまで逃げ込んだ。先生に許可も取らずにベッドへと進みシーツを閉める。私の様子と、遅れて保健室に入ってきた真純ちゃんを見て、先生は彼女を椅子に座らせ、私に落ち着いたら出てきなさいと声をかけ、担任の先生には伝えておくからと保健室を出いった。なんて優しい先生だろう。それを知ってここに逃げ込んだくせに、そんなことを思いながら、鼻をすする。
「僕、何か気に障ることを言ったかな」
ぽつりと真純ちゃんが呟いた。
「僕のことが嫌いになったのか?」
「ちが、!」
そんなこと、絶対にない。
「じゃあなんで隠れてるんだよ!」
「っ、好きな人にみっともないところ見られたくないんだもん!」
こんなに声を張り上げたのはいつぶりだろう。無意識に握った掌の中で爪が刺さる。再び視界が涙でいっぱいになる。もう十分みっともない。
ぼたぽたと、生温い雫が落ちた時、シャッと音がして白いカーテンが揺らめいた。大きな瞳が涙で揺らいで、だけど耐えるように眉間に皺を寄せて、私を射抜く。
「僕だってキミが好きだ」
一瞬、呼吸を忘れた。
ぼろぼろに泣いている私を見て、彼女は戸惑って、焦って、それから慌てて、私を抱きしめた。
「ごめん、見てない、見ないから」
だから嫌わないでと続くようで、私の胸は締め付けられる。思わず体が動いてしまった、という様子がわかって、私はどうしようもなく、期待を持ってしまう。
「嫌わないよ。言ったでしょ、私、真純ちゃんが好きなの」
ひっそりと深呼吸して、私は彼女の背中に、ゆるゆると手を回す。ああ、私の涙で、彼女のシャツが濡れてしまう。
「でもね、あなたの好きとは、違う好きなの」
ぴくりと彼女の肩が揺れた。私は、そのまま聞いて欲しくて体を離さないようにそっと腕の力を強めた。覚悟を決めるのだ、私。
「私、真純ちゃんのこと、女の子として好きよ。もちろん、友達と思ってる。でも、それ以上にも思ってるの」
言った途端、彼女は私の加えた力なんてもろともせずに体を離しバッと顔を上げて、私を見た。驚いて涙も引っ込んでしまったような顔をして、それからカァっと頬を赤らめた。
拒絶の色がないことにひどく安堵し、そしてその可愛らしい反応に愛しさが増す。
「…気持ち悪いって、思う?」
「思わないよ!」
彼女は真っ赤な顔のまま言った。はっきりとそう言ってもらえるのが、思っていたよりもずっと嬉しい。
「思わない、けど、その、なまえちゃんをそういう風に見たことがなくて」
「ふふっ」
目を泳がせながらしどろもどろに話す彼女が可笑しくて、つい笑みが漏れた。私は戸惑う彼女の鎖骨に自分の額を押しつけるようにして寄りかかる。
「応えてもらおうなんて思ってないの」
「…僕は、キミに思ってもらえて嬉しいよ」
「ありがとう。その言葉だけで十分」
私はそっと腕を伸ばして、彼女の引き締まった、だけど柔らかな女の子の体を抱きしめた。
「これは、友愛のハグよ」
言い聞かせるように、私は言葉にする。
「大丈夫、私たちは仲良しの友達、でしょう?」
そう、私たちは友達だ。その気持ちが友達以上でも、ちゃんと友達として過ごせる。友達としてなら、そばに居られる。
「うん、」
真純ちゃんはまるでおそるおそる、そして優しく、私の背中へ手を伸ばした。
どきどきと、心臓が波打っている。それが彼女のものなのか、自分のものなのかわからないことが嬉しくて、愛しくて、息苦しさを飲み込んでそれごと全部抱きしめた。
真純ちゃんの様子がおかしいと秀一さんから連絡があったのは、翌日にはアメリカに戻ってしまうという日のお昼時だった。待ち合わせのカフェで彼はひどく目立っていて、私のような小娘が彼の向かいの席に座った途端に一瞬空気が殺気立つのがわかって、小さく肩を竦めた。
テラス席でゆるやかな風に撫でられながら煙草を吸うその姿は、たしかに世間で言うかっこいいのかもしれない。目を奪われるのは確かだ。真純ちゃんが男の人だったらこんな外見だったんだろうか、とぼんやりと思うけれど、真純ちゃんは真純ちゃんだから素敵なのであって、秀一さんと比べるものじゃない、と思考を止めた。
「ブレスレットはあげられたみたいだな」
私の左手首に煌めくブレスレットを眺めて、秀一さんは目を細めた。きっと真純ちゃんもつけてくれているんだろうとわかって、嬉しい。ただ、真純ちゃんとお揃いのブレスレットが、彼女のお兄さんとはいえ他の男性からのプレゼントであることが少しむずがゆくなる。
「ふふ、でも、ちょっとあったんですよ、事件は」
「真純がおかしいのはそのせいか」
私は、彼が「おかしい」という彼女のその状態を自分が作り出したことに少しだけ浮かれていて、甘いコーヒーを口にしながらあの日の出来事の一部始終を話した。なるべく客観的に事実を伝え、それからその時の彼女のかわいさや愛おしさを、私の恐怖や安堵を、そして彼女と触れ合えたことや友人としてそばに居られることの嬉しさを語った。
秀一さんはその間に六本も煙草を灰にした。
「私はとっても嬉しかったの。でも、やっぱり真純ちゃんにはショックだったのかな。だから、考え込んでしまっているのかしら」
うっとりと話したあと、私は彼女の様子のおかしさが心配で目を伏せる。
あのあと、私が泣き止むのを待って体を離し、振り払ってしまった手を繋いで、ごめんなさいをした。そしてその手に、ブレスレットを渡しながら、秀一さんといたのは偶然で、迷っていた背中を押してもらったのだと説明した。
「普段はうるさいくらいだが、大人しく上の空でブレスレットを見つめているよ」
まるで静かで気が楽だとでも言いたそうな言葉だったけれど、普段はめいっぱい甘えてくるかわいい妹が自分そっちのけで悩んでいるのが寂しいのだろう。反応を見る限り、真純ちゃんからは何も聞いていないみたいだった。
「ネガティブな印象ではないがな」
「慰めてくれるんですか?」
そう笑うと、秀一さんはちょっと目を大きくして、それから微かに笑った。
「あれは鈍いが、人と向き合えないやつじゃない」
「知ってます。私たちは仲の良い友人ですからね」
彼は七本目の煙草に火をつける。
「君はそれでいいのか?」
言わんとしていることはわかった。友達以上の思いを抱きながら、友達のままでいられるのか。
「好きでいられればいいだけだったのに、それを打ち明けてしまって、それでも友達でいてくれるなんて、もう私にはそれ以上なんて望めない」
秀一さんはちっとも納得のいかない顔で紫煙を吐き出した。彼も彼女も自分の感情に素直な人たちだから、私の判断には釈然としないのかもしれない。
「この切なさも全部愛しいんです」
温くなったカップを両手で包む。手のひらよりも少しだけ温かい。
「だから、平気」
私がそう笑うと、彼は口を開きかけて、辞め、煙草をまた一口吸うと、ため息のように吐き出しながら「そうか」とだけ短く頷いた。
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